たぴおかたぴおの「映画は見たけれど」

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zoom RSS 太陽の下で、エリザのために、湾生回家

<<   作成日時 : 2017/02/01 14:24   >>

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2017年1月28日 シネマート新宿
『太陽の下で −真実の北朝鮮―』 (ビタリー・マンスキー)

2015年 チェコ・ロシア・ドイツ・ラトビア・北朝鮮 1時間50分
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僕らが見ることのできる北朝鮮に関する映像のほとんどがヤラセで作られたものであり、人物の行動や言動がすべて国家によって統制し尽くされたものであることは知っている。
世界の常識である。
ロシアのドキュメント映画スタッフは、そこに踏み込んだ。
「市民の日常の実像を撮ろう」と。

国同士の2年間の交渉の末に許されたが、北朝鮮側は当然のように24時間監視役を付け、完全統制下に置いた。
そして映るすべての映像と人物の行動・言動を検閲した。
それ以前に、セリフと場面設定を書いたシナリオと過剰な演技指導があった。

当局側の数人によって目の前で繰り広げられる、日常を捏造する演出。
ああだこうだと何回もやり直させる。

ロシア・スタッフはある程度想定はしていたとは思うが、あまりにも予測以上であきれ返っただろう。
映画屋としてはこんなもので済まされたら撮るだけ無駄だ。
ついにカメラを回しっぱなしにして隠し撮りのように置いた。
そして検閲される前にフッテージを母国へ送った。

この国の庶民の実像を撮る前に、この国自体の欺瞞の実像を暴くことに成功している。
この証拠映像が、のちに国際問題に発展し、当局から訴えられることになるが、映画としては世界各国で称賛され成功を収める。


それにしても北朝鮮人民は、いや北朝鮮当局は、「わざとらしい」という言葉を知らないのだろうか??
小学校に登校した8歳の子たちが朝から教室で、二人で思わず国家を礼賛する歌を唱和してしまうだろうか。

授業で先生からの質問に答える生徒たち(2年生くらい)が、いちいち「偉大なる金日成大元帥様が・・・」「敬愛する金正日元帥様が・・・」「悪者の日本人と地主を懲らしめて下さいました」とかなんとか延々と言わせているのが、諸外国から見て不自然さの極みであることがわからないのだろうか。

幼い子供から大人まで、ロボット人間の骨の髄まで「わざとらしさ」で漬かり切った空気の中で、主役の少女ジンミだけは、意外にも表情や所作に不安の影と洗脳し切らないほころびが見え隠れする。

あどけないジンミのアップ・ショットは、この全体主義国家が人をロボットに仕立てる過程の不自然さを見事に捉えてくれている。

この映画はジンミの「いたいけ度」で成り立っていると言うこともできる。

金日成主席の誕生日であり北朝鮮の最大祝日とされる「太陽節」に向けて、歌や踊りやスピーチを完璧に会得するまで訓練させられる子供たち。
その中で映画の主役にも抜擢されたジンミは、当局や学校や親から指導され結果を求められる毎日の中で、ひたむきに頑張る。
が、“何かが不自然”だということに、意識と無意識のあいだでかすかに気づいている。
子供ならではの直観は、王様が裸だということまではわからないが、完全に洗脳される前の不安感が如実に見て取れる。

その意味では当局は絶好の素材(主役)を提供してくれた。

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当局の監視役がいなくなったとき、彼女の潜在意識がついに露わになる。
突然涙があふれ出てきたのだ。
理由は誰にもわからない。
アップでとらえたショットは、明らかにこの作品のハイライトとなった。

「泣かないで。何か楽しいことを考えて」
「・・・わからない」
「じゃあ、好きな歌や詩を」
と言われると、なんと
「偉大なる金日成大元帥様が・・・」
と暗誦し出すのだ。

この虚しさといったら、たとえようもない。


★★★★



2017年1月29日 ジャック&ベティ
『エリザのために』 (クリスティアン・ムンジウ)

Bacalaureat (Graduation) 2016年 ルーマニア・仏・ベルギー 2時間8分 脚本:クリスティアン・ムンジウ 撮影:トゥドル・ブラディミール・パンドゥル 出演:アドリアン・ティティエニ、マリア・ドラグシ、ほか
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カンヌに好かれるムンジウ監督の作品は今回も無愛想な作風だ。

険しい顔の父と不安に満ちた娘、諦めを隠さない妻や望みを捨てきれない愛人をひたすら追いかける。

カメラは対象にじりじりと焦点を当て続け、観る者に集中と凝視を強いる。
ダルデンヌ兄弟マイケル・フランコのカメラのように。

たとえば二人の人物が会話するときに、切り返しショットは全く使わずに横からツーショットで、ワンカットで撮るだけだ。

そんな武骨な撮り方でひときわ几帳面に映し取っていくのは、悪気のかけらもない娘思いの医師の終始困惑した表情と行動。

ルーマニアという「ひどい国」から憧れの英国へエリートとして娘を脱出させてあげたいという親心で世話を焼く。

しかしたまたま巻き込まれた不遇な事件と少しの過ちによって、地道に生きる凡庸な男の凡庸なプランはあれよあれよと歪んでいく。
娘の未来に青天の霹靂が訪れ、妻との関係はすでに入っていたヒビに水が差され、愛人はうろたえる。
四人の決意と行く手が湾曲する。

運命は男の思うようにはいかない。
助けようと知人たちが差し出す策は諸刃の剣でもある。
あがけばあがくほど事態は悪い方へ向かう。
関係は修復するばかりがいいとは限らない。
これ以上足がとられ沈むのを防ぐには、じっと耐えて天命を待つしかないのか。

ムンジウはこの物語を後半になってもカタストロフィ的なサスペンスとして演出するのではなく、あくまでリズムは淡々と、音楽は部屋や車中でかかるクラシックのみ。

父に感情移入させるでもなく、批判するのでも肩入れするのでもなく、ジャッジもエモーションもフリーだ。

結末が明かされないラストは、ニヒリズムによるサッドエンドととるか、最後の望みにかけるポジティブな兆しととるか、観る人に完全に委ねられている。


★★★★



2017年1月29日 ジャック&ベティ
『湾生回家』 (ホァン・ミンチェン)

2015年 台湾 1時間51分
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「日本人の若い人よりも、私は日本人」と語る台湾人「日本語世代」にとっての、日本に対する愛着・失望などの心模様を描いた作品は多い。
以前このブログでも感想を書いたドキュメンタリー『台湾人生』『台湾アイデンティティ』(酒井充子)のほか、ドラマ作品にも枚挙に暇がない。
翻って、今回のドキュメンタリーは立場も視点もちがう。
謂わば「B面」 Side-B

湾生」とは、植民地時代の50年の間に台湾で生まれ育った日本人(約20万人)のこと。
ここにスポットを当てた作品はあまりないのではないか。

かつて“日本”であり故郷であったところが突如“異国”になり、“よそ者”として強制追放されることになる。
そんな体験を強いられた日本人は、もちろん東アジア各国で少なくはないが、そんななかでも台湾という場所はいつも独特の感慨をもって日台双方から偲ばれることが多い。

そのはっきりした理由について今回探ることはしないが、この作品でもその漠然とした答えは十分に「感じる」ことはできる。

繰り返されるのは「故郷」「ふるさと」という言葉。
当然ではあるが、ただの故郷と一言では済まされないこだわりとわだかまりがある。
無理やり引き離されて、家族も分断されて、帰ろうにも長年地理的にも政治的にもあまりに遠かった。
故郷は遠きにありて思うもの、であれば尚のこと。

18歳で「帰国」させられた男性は言う。
「私はずっと日本で『異邦人』だった。なにか違和感を持ち続けていたが、その言葉が見つかった時は、これだ、と思った」
そして70年ぶりに台湾の生まれ育った土地を踏んで現地の人たちと交流を温めると、
「外国だった台湾が、やっとふるさとになった」
と、スッキリ晴々と相好を崩した。

当時の当事者も、その孫・ひ孫の代も、歴史の明と暗の両方の側面を知っている。
映画は日本軍が植民地にもたらした負の影響についての紹介も忘れていない。
それでも、台湾は包容してくれるのである。
老いた「湾生」が故郷に恋い焦がれてようやく再訪すると、その期待は外れることなく暖かく迎え入れてくれる。

だから「27回も行ったり来たりしてるの」と明るく元気に語るおばあちゃまもいる。
その息子も半信半疑で母の故郷を訪れると、歓待してくれる人々の輪に仰天しながら打ち解ける。

一方で、終戦時に母ひとりで日本へ帰国し自分は置いて行かれたという娘が、いま寝たきりで口がきけない病状で夫と娘と孫娘と暮らしている。
日本でひっそり独り暮らしを続けたと言われる母のお墓を、岡山のある街で探し続けてきたが、見つからないままになっているところを、娘の代わりに孫とひ孫が引き継ぎ、海峡を何度も渡り、奮闘してきた。

ついに墓が見つかった、と連絡が入る。
娘の代わりに、会ったことのない孫とひ孫が、墓前でお祈りを捧げ、報告する。
住んでいたアパートの大家などから、当時の彼女の様子の一端を聞くこともできた。
戸籍の証明も見つかり、母は娘を日本でも「長女」として戸籍に載せていたことがわかった。
「自分は嫌われて捨てられたのでは」という疑いを拭えなかった娘にとって、これは朗報。
台湾に帰って、寝たきりの娘に孫とひ孫が報告すると、声は出ないが目から涙があふれ出た。


うさぎ追いし かの山
こぶな釣りし かの川

「ふるさと」はこの中で何回唄われただろう。

日本人よりも「古き佳き日本人」を保持している台湾の人々の人柄や、日本よりも古き佳き風景に触れると、おのずとこの歌を口ずさんでしまうのもよくわかる。


日本を想う台湾人の映画を撮るのが日本人で、台湾を想う日本人の映画を撮るのが台湾人、というのも面白い。

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さて、台湾ではなく満州ならばどうだろう、と考える。
イメージは一変する。
こんなほのぼのした映画は作れない。
同じような境遇で移住が始まり同じように安住の地だったにもかかわらず、惨たらしい悲劇で終わりを告げ、国家も人民も罪と罰の原理に引き裂かれた。
いくら懐かしんでも、もはや「ふるさと」と思いを馳せ、古き佳き日本の影を求めて行く当てもなく、すべては砂上の幻でしかなくなってしまった。

老人施設に入居している或る女性(85歳)は、満州での暮らしががどんなに優雅だったかをよく僕に語ってくれる。
自分の数少ない愛おしい記憶をなつかしむように。
でもそこが日本国の奪い取った土地だということは、いまも信じようとしない。
ただ、もうあの優雅な場所ではなくなり、二度と「ふるさと」として訪れることができないということは知っている。


『台湾人生』『台湾アイデンティティ』については当ブログのバックナンバーをご参照ください。
http://tapio.at.webry.info/201405/article_3.html


★★★★

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