TOKYO FILMeX 2019

11月の末は恒例「TOKYO FILMeX」
アジアの映画の祭典@有楽町。

夜な夜な通ったけどコンペティション10本のうち6本しか観られず。

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そのうち、圧巻だったのは『水の影』Shadow of Water
インドの底力はとんでもない。観終わっても立ち上がる気がしなかった。
女子学生と彼氏と「ボス」の3人だけの話だが、世界中が圧死しそうな重いテーマがのしかかる。途中まで何かありそうだけど、何も起きない。起きそうな布石をいくつも敷いておいて、不安だけを募らせて、終盤一気に怒涛のごとく持っていく。悲劇と理不尽のカタストロフィ。
96年に実際にインドで起きた、僕も仰天した16歳の少女への40人輪姦事件をモチーフにした。テーマや世界観は今村昌平など過去にもあり、決して新しいわけではないが、そんなことは問題ではない。演出の気魄が並大抵ではなく、映像も音楽も含めて、マッシブで切実な訴求力がこちらに向かって攻めてくる。映画でしか成し得ないことしかしない、という意志を感じる。なによりニンゲンのおぞましさと奇天烈な生態を嘆く叫び声が聞こえてくるようで、耳も塞がず茫然とするしかない。★★★★☆ 壇上Q&Aはこちら↓
https://filmex.jp/2019/news/daily-news/water-shadow
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新しい潮流をビビッドに感じるフィリピンからは、その代表格であるブリランテ・メンドーサ(『ローサは密告された』など)の弟子にあたるレイムンド・リバイ・グティエレス『評決』Verdictが、若くして師匠のリアルな作風を踏襲し、かつドライな結末で独自の味を出している。
ドラッグ汚染を描いた『暗きは夜』のアドルフォ・アリックスJr.もそうだったが、暴力と腐敗の発生する瞬間の生々しい臨場感を再現するカメラがフィリピンのお家芸とも言える。戦慄のDV発生現場を捉える迫真のカメラから、小さな法廷が繰り返される日々まで、時間の経過を示すカットさえ省略して結末へと突き進む2時間6分。
最後の5分間で、急転直下。この映画の主役は「書類の山」だったことがわかる。★★★★
!!(ここでネタバレを書かせていただきます。自分の覚え書き用に。ご注意を!)
《被告人死亡により、判事が悩み抜いて書いた判決は無に帰し、「無罪」という判決は誰にも知られることのないまま閉廷。書類は即座に山のような書類の中に紛れ、運ばれ、倉庫の奥に積み上げられる》
それまでの怒涛の2時間は無情にも徒労に終わり、映画は事件の社会問題性も無常のものとする最強にブラックでドライな風刺として締めくくる。
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韓国から登場した期待の大物パク・ジョンボム『波高』Height of the Waveも、ムラ社会のとても小さなことを問題にしているようだが、実は世界規模の問題となるべき重大なテーマを孕む。閉塞した環境の小さな島では、人権感覚も前時代的であることに気づいていない。そんなムラに赴任してきた主役の女性警官も、そこにメスを入れる一方で、自分の娘への虐待は棚に上げている。そしてそれを見ている我々は・・・。
と、視野を広げて自問することを提起している。しかし個人的には、テーマはいいがメリハリに欠けるような気がして惜しい。★★★☆
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「イロイロ/ぬくもりの記憶」以来6年ぶりとなるシンガポールのアンソニー・チェンは第2作『熱帯雨』Wet Seasonをひっさげてやってきた。前作同様、大人の女性と少年との交流を描く。思春期のリビドーと思秋期の倦怠。身体に正直になること、正直になることを許されないオトナ。今回の高校生男子と女性教師との関係は、見る人によって男性からの視点を感じるか女性からのそれか、まちまちかもしれないが、この人の作風には、男性監督でありながら女性的なソフトな自然さが僕には感じられる。ただ、個人的には少しステロタイプ的なものが目立ってしまったかなと思う。★★★☆
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台湾を拠点として故郷ミャンマーにかかわる作品を作るミディ・Z監督は、今回唯一の先鋭的サイコ・サスペンスで勝負。『ニーナ・ウー』Nina Wuは、台湾映画界でスターダムにのし上がろうとする新人女優の名前。色彩や劇伴を駆使したスタイリッシュな演出で観る者を惹きつける。ただしテーマは世界共通の芸能界の裏の俗物たちの生態。欧米発のムーブメント「MeToo」と同様セクハラ/パワハラを告発することを主眼とすることは、物語の構成上想定を打ち破るシークエンスをラストにもってきたことでも明らか。その分、なんとも消化しがたい後味の悪さを残すが、確信犯か。★★★☆
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学生審査員賞とスペシャルメンションを受賞した『昨夜、あなたが微笑んでいた』Last Night I Saw You Smilingはドキュメンタリー。カンボジア・プノンペンの歴史あるアパートメント・ビルディングが、日本企業の買収によって取り壊されることになった。そこに住む数百の世帯の人々が立ち退きを余儀なくされる様子を、ある家庭の一人ひとりを静かに見つめることでその暴力性を訴える。この映画祭の育成部門で育った若いニアン・カヴィッチ監督だが、今回このドキュメンタリーでコンペティション枠で参加させること自体に不自然さを感じるのは僕だけだろうか。他と比較する基準があまりにも曖昧過ぎて評価できなかった。

A2/村西とおる/盲目のメロディ/テルアビブ・オン・ファイア/気候戦士

2019年11月30日~12月3日


『A2 完全版』
森達也
監督
2002年/2015年 日本 2時間11分 ドキュ
配信:アジアンドキュメンタリーズ
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1998年の第一弾『A』から4年。
上祐史浩が出所し、「オウム」改め「アレフ」を名乗り始めてからも、信者たちは各地の拠点を追い出されては移動を強いられる繰り返しがつづく。

前作は荒木広報担当に密着したが、今回は一人に限らず、教団内部のあらゆる人や場所にカメラを向ける。
完全にマスコミとは距離を置くという点で徹底しているため、森監督と信者たちとの信頼関係は揺るがない。
そのうえで、はじめて中立な取材ができ、ときにはインタビューで鋭いメスを突きつける。

拠点が各地に転入するたびに反対運動が激しく起きる。
しかし、初めは監視のためにテントを立てて目を光らせていた住民たちも、信者たちと長期間接触するうちにかなり打ち解けてくる。
「よーう」と朝の日課のように柵ごしに声をかけてくるおっちゃんに、信者も柵の外に出てふつうに笑顔で会話を交わす。
マスコミ報道にはこんな情景は、カメラに映ったとしても流されない。

おじちゃんおばちゃんたちも、要するに不安が深い霧のようにかかっていた状態から、ある程度見える状態になるだけで不安は減り、情が移ってくるのだ。
「いやあ、彼らがね、早く解散して、また自立してくれればいいわけよ」
と、甥っ子姪っ子を見守る親戚のような心境にある様子。

そうはいっても、ここまで打ち解けない大多数の人々にとっては、あくまで「凶悪殺人集団」「狂気のカルト教団」であるわけで、どこに行っても「住む場所がない」という問題がつきまとい、この国の憲法上、人権無視に該当するのではないかという問題もつきまとう。

ただ追い出すだけの住民運動やヤクザまがいの恫喝右翼たちの街宣とちがい、「住む場所を一緒に考えていこう」と話し合いを提案する理性的な右翼集団も登場し、森監督はその街宣車にも同乗する。

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教団メンバーたちの内心の揺れ動きも見て取れる。
この期に及んでも、対外的にうまく立ち回れるような器用な対応術に長けた人はいない。
テロ集団ではない「アレフ」としてリスタートするとはいっても、煮え切らない態度でグネグネしてるから疑われる。
「破防法」の対象になるかどうか重要な結節点なのに、集団として個人としての決意みたいなものは感じられず、常に内部はゆるゆるしているように見える。
その辺は日本の封建的な会社組織とは全くちがう風土なのだからだろうけれども。

でも、食事は各自「執着しない」教義のもとに何かのエサのようなテキトーなものを食べているのに対して、上祐の分だけは担当者がちゃんとしたメニューを別格に作っていて、格差をあえて作っているのが奇妙だった。

個々に至近距離でカメラを向け、「じっさいのところ」何を考えているのか、信仰は麻原=松本の今のありさまを見ても続くのか、など内心の吐露を記録することにも成功している。
麻原=松本の実の娘、アーチャリーのまるでふだん通りの様子で普通の会話をしているところにもカメラは入っている。

「オウム」「アレフ」という集団に対する視線、個々の信者たちに向ける視線、マスコミという「世間のルール」に縛られた組織に対する視線、反対運動をする住民に対する視線、右翼団体に対する視線、これらを公平に中立にカメラで切り取ったこのドキュメンタリーは、唯一無二の定点的「視座」が可能にした貴重な記録となった。



『M/村西とおる 狂熱の日々』
片嶋一貴
監督
2019年 日本 1時間49分 ドキュ
テアトル新宿
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今年Netflixで『全裸監督』が製作・公開され、TV出演もして話題が再沸騰している村西とおる氏71歳。
僕ら50代以上の男どもにとっては、バブル期に黒木香を一躍時代の寵児にさせた異能のカリスマAV監督として、知らぬ者はいないほどの男だ。

「お待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません」
と丁重に挨拶して出てくれば、今でも一気に彼の独壇場に持っていかれるほどの、いつでも彼ならではの「アウト」な世界は存続し続けている。

とはいっても、当時はAVを見る環境・条件は今と比べれば著しく劣っていて、インターネットも普及していない時代だったためレンタルで借りるしかなく、僕は「トゥナイト」などのテレビで断片的に紹介されるシーンしか観たことはないのだけど。

それでも「朝まで生テレビ」などに出演する黒木香のインテリジェンスや、村西とおるの斬新なアイディアや飄々としたトークには、「エロ」とか「色物」以上に、時代の風穴を開けるインパクトがあったのだった。

そんな彼についてのドキュメンタリーが今回生まれたきっかけは、今から23年前、前科7犯・借金50億からの再起をかけた長編Vシネマ企画の、1996年北海道ロケの撮影メイキングフィルムが出てきたことだった。

この映画はそのメイキングをベースに進行し、村西や親交のあった人々へのインタビューを挿入する。
「トルコ軍隊行進曲」や「知床旅情」ロックバージョン(かなりイカシてるけど誰の曲?)などのサントラが見事にハマっているのも見どころ聴きどころだ。

北海道ロケの方は、素人同然のモデルたちを20人ぐらい(何回も)集めて牧場や海辺や滝などで全裸でパフォーマンスさせたりするなか、劇外で次から次へとトラブルが沸き起こりアクシデントが降りかかりドタバタ狂騒曲となる。

そのほとんどがスタッフやモデルたちの内輪のもめごと。
労働条件がブラックなのは推して知るべしだが、それ以上に常識的にアウトな人たちの統制をとるのに村西監督自身が常に気を遣わざるを得ない状況なのだ。

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「なんだよ、ブスばっかりだなあ」
と陰では深刻にボヤき、やる気のなさを真剣に心配する一方で、彼女たち本人を前にすると一転して大切な一人の女性として可愛がろうとするソフトなやさしい口調に早変わりする。

それがいいのかどうかは別にして、福島のイントネーションで立て板に水を流すような、営業トークで培った応酬話法はユニークかつ見事なものだが、人格的に一面的には信用できるような気はしないものだ。

しかし、ことに女優未満のモデルたちのプロ意識の欠如は目も当てられないほどで、対照的に村西監督が口八丁手八丁というよりむしろいかにプロフェッショナルな存在かが浮かび上がってくる。

NHK「ザ・プロフェッショナル」を超エンタメ版にしたかのよう。
インタビューの締めくくりも、「プロフェッショナルとは?」と訊かれているかのようなキメ方で堂に入っている。

彼のエロ事師としての執念と狂熱は何なのか。
自身も滔々と吐露するのは家庭の貧困がベースにあったこと。
あの惨めな目には二度と戻りたくない、という気持ちが自らを駆り立てていると。

借金50億は返済したという。
この23年間、何をやってきたのかは詳らかではないが、いまだにエネルギーは漲っている。
「今も日に1~2回はオナニーしますよ」と、身も心も健在だ。


新宿の劇場には、あの「新宿タイガー」があのまんまのかっこうで観に来ていた。
さすが新宿、さすがタイガーだ。




『盲目のメロディ ~インド式殺人狂騒曲~』
シュリラーム・ラガバン
監督
Andhadhun 2018年 印 2時間18分
ムービル
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タブーというすごい名前のすごい美人女優演ずるシミーは、映画史上に残る悪女だな。

めくるめくストーリー展開はインド映画の醍醐味。
ご多分に漏れず、裏切りに次ぐ裏切り、どんでん返しに次ぐどんでん返しで息つく暇もない。
とはいっても、他の錚々たるインド映画の傑作の数々と比べたら、今一つかな。
何が違うのだろうと考えるに、ブラックな皮肉が効いてばかりで、情に訴える要素が少なかったからかな。

最後の最後に主役の男がやったアレ、「なに?まさか」って、劇場を出ながら必ず話題になるね。

★★★☆


『テルアビブ・オン・ファイア』
サメフ・ゾアビ
監督
Tel Aviv on Fire 2018年 ルクセンブルグ・仏・イスラエル・ベルギー 1時間37分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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パレスチナにおけるアラブとイスラエルの関係を縮図として見せる作品の好例。
終始劇場に笑いを起こさせる(文字通り一部で爆笑を炸裂させていた)ほどのコメディ。
政治を凝縮して見せるには、皮肉を利かせたブラックジョークや笑いがいちばん効果的。
事実をよく知らない人にも、どの程度わからせることができたか、という指標で評価することもできる。

ただ、その点でこの作品が惜しかったのは、劇中劇(=TVドラマ)の中の設定も外の設定も入り組んでいて、二重に錯綜しているという点。
イスラエル人とパレスチナ人の関係を十分わかってると思っていた僕でさえ、頭の整理がつかなくなってくる。

というのも、最初に登場人物それぞれがなに人で、劇中劇の誰がなに人なのか、はっきりと明示されないから。
いや、明示されていたとしても複雑だ。
TVドラマの中の女主人公は、フランスから来たユダヤ移民という設定でイスラエル・テルアビブに潜入するパレスチナ人スパイで、イスラエルの将軍と恋仲になる演技をして接近する。
わかります(笑)?

TVドラマの撮影現場はパレスチナ人による制作で、その現場に行き来するためにイスラエルの検問を通ってエルサレムを出入りする。
そんななかで、アラブ系とユダヤ系を見た目や言葉で区別することも僕らには難しいのである。

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パレスチナ地区ではイスラエル人もパレスチナ人(アラブ人)も同じTVを観ているというのも、ぼくらには想定外な事実で。
鑑賞後に調べてみたらよけいに混乱することが出てきた。

監督の出自からして複雑だ。
「イスラエルのパレスチナ人」だそうだ。
これは初めて聞く言葉。
国籍は?
イスラエル国内にもアラブ系のパレスチナ人が住んでいるらしい。

主人公の男(=エルサレムに住むパレスチナ人)には監督の境遇が反映されている。
パレスチナ人スタッフの作るドラマの現場でヘブライ語を指導する仕事で、イスラエル人たちからも注文がつく。
両方の立場を行き来し、毎日イスラエルの検問所も行き来するマージナルな役だ。

この作品の国籍は、どちらかというとイスラエルの方。
劇中ではけっこうユダヤ人をからかう場面があったが、監督は大丈夫なのだろうか?
いや、監督が境界型の存在だからこそ可能だったと推測しよう。

ドナルド・トランプは最近、イスラエルの首都を勝手にテルアビブからエルサレムに移して波紋を呼んだ。
それも含めて、地理的な位置関係も一応大雑把に知っておいた方がいいかも。
観る前の予習もそうだが、観たあとに、映画をきっかけに学習する。
そういう役割を持った映画もあるのだ。

★★★☆


『気候戦士 クライメート・ウォリアーズ』
カール・A・フェヒナー
監督
Climate Warriors 2018年 独 1時間26分 ドキュ
ヒューマントラストシネマ渋谷
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環境汚染による気候変動をデータや映像で見せることはもはやしない。
そのフェーズはすでに終えている。
あとは、どうやるかだ。

パリ協定から脱退するという暴挙に出たドナルド・トランプが悪政をふるう世界の下で、草の根からどう行動していくか。
具体的な活動家(気候戦士)たちの行動・発言を追う。

共和党のシュワルツェネッガー元加州知事がトランプに真っ向対決姿勢をとっているのは意外だった。
その他10代前半から活動家になった少年、喘息で呼吸器を付ける女子学生などが登場。
若い世代のスピリットが出てきていることに希望も少し感じることができる。

今話題のグレタ・トゥーンベリさんが出てこないのも意外だったが、撮影時期が2~3年前だったからだろう。

もちろん日本の恥・原発(原子力ムラ)が大事故災害後も再稼働に動いていることも紹介される。

おまけに「石炭火力発電を維持し続ける」と世界に宣言して、不名誉な「化石賞」を受賞したのも、つい最近のこの国の話だ。



i 新聞記者ドキュメント/A/わたしは光をにぎっている/グレタ/アイリッシュマン


2019年11月16~21日


『 i 新聞記者ドキュメント』
森達也
監督
2019年 日 1時間53分
109シネマズ川崎
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森監督は望月衣塑子記者を「ヒーロー/ヒロイン」として描いている。

いくら中立にドキュメントしようとしても、彼女が主人公である限り、それは自ずとそうなってしまう。
なぜなら、「アンチ」がいないから。
「記者たるもの、こうあるべき」というテーゼがあるのに対して、いや、「そうではなくてこうあるべきだ」というアンチテーゼたる記者はいないし、存在しえないだろうから。
むしろ、「こうあるべき」というテーゼに該当しない他の記者が多すぎ、だらしないと思えてしまう。

もちろん、権力に忖度せずジャーナリストとして頑張っている記者もたくさんいる。
でも、そのような記者が官邸記者クラブにいない限りは、彼女は少なくとも「ヒーロー/ヒロイン」として目立ってしまうのだ。


また同時に「女性であること」の障壁とも闘っている。
女性が記者として政治家や官僚に相対することが、どれだけパワハラ・セクハラの圧をかいくぐらなければならないかは、テレ朝女性記者と辞任した財務事務次官(福田淳一)の一件を見るまでもなく容易にわかること。

あるいは、アベ友の自称ジャーナリストのレイプ魔・山口敬之の逮捕取り消し劇に対しても、被害者・伊藤詩織さんをバックアップする報道を当初から貫いている。

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この場合の「望月衣塑子」は一人ではなく、集合体としての「望月衣塑子的な記者」を意味する。

しかし、望月記者はヒーロー/ヒロインである以前に、「個人」として「突破者」なのだ。

前川喜平前文科事務次官も言うように、彼女は空気を読まない=「KY」の天才。
多分にどうやら多動症あるいはある種のADHDの気(け)があると森監督も証言する。

「よく道に迷う」「方向音痴らしい」
といったテロップも劇中に出てくる。
小さな身体でたくさんの荷物を持ちカートを引きずって機敏に動き回る。

早口でしかし滑舌よく発言し、面と向かって政治のトップとやりあい、電話で上司に抗議・交渉する。
必要とあらば啖呵を切る。

その姿はせわしないが颯爽として頼もしい。
その動きを追い、発語を追いかけるだけで、画面は躍動し、映画にダイナミズムが生まれる。
金子文子伊藤野枝などかつての女性突破者の姿に思いを馳せることさえできる。

カメラは「個」を追いかけることで、ジャーナリストという集団の価値を表象させる。
この「個」が輝くことで、ジャーナリストが輝ける可能性を開かせているのだ。

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主役に引っ張られるタイプの「巻き込まれ型」ドキュメンタリーに見えるかもしれないが、考えてみれば実は記者としては極あたりまえの仕事を全うしているに過ぎない。

海外メディアからも頻繁に取材される。
外国人記者は口々に日本の忖度メディアの奇異さとその中で奮闘する彼女の特異性について指摘する。

森監督の言うように、「本来の仕事をしているだけなのに、なんでこんなに注目されなければいけないのか」

今の日本の記者クラブシステムのおかげで、メディアもジャーナリズムも機能不全、場合によっては政権の広報に成り下がる。

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望月衣塑子記者を知っている人は別として、あまり知らない人はこれを観なくてはいけない。
フィクション版の『新聞記者』を観ても「これほんとのことなの? まさかここまではありえないよね」と疑う人や、現在の報道の圧力や萎縮した状況を知らない人も、観なくてはいけない。

一方で、彼女の報道姿勢や今までの官邸の所業について知っている人にとっては、意外な点はあまりなかった。

前述したように、どうやっても望月衣塑子がヒーロー/ヒロインになってしまうのは仕方がない。
そこに白黒つけようがないし、グレーゾーンを探ってる場合ではない。
森監督は今のジャーナリズムの逼迫した状況を前にして、とにかくできるだけ広くこの危機を訴えるしかなかったのだ。

だからこれまでの監督の作風とはかけ離れて、ドキュメンタリーではあっても大いに主観的コメントをナレーションで語ったりしている。

おまけに望月記者の「正義の味方」としての類型的な姿をアニメにして挿入してしまった。
ついでに、官邸記者クラブ内で質問する望月記者の映像を撮ろうと奮闘し格闘する自分の姿までアニメに付け加えたのはご愛嬌。

恣意的なメッセージ色の濃いフィルムとなったわけだが、なんならこれを「ドキュメンタリー」と呼ばなくたっていい。
「メッセージ・フィルム」でどうだ。

望月記者の「個」を見せるうえで、子供への電話での語りかけシーンや、夫が作ってくれた弁当の逸話などが入っているのは稀少なプライベート・シーン。
個性的なキャラクターの側面をおりまぜて、プライベートな「i」=「私」をもう少し見せてもらったらなおよかったなという願望は残る。

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今年の2019年東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門作品賞を受賞。
河村光庸プロデューサーと望月衣塑子氏。



『A』
森達也
監督
1998年 日 2時間16分
シネマハウス大塚
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オウムの内部に入って信者たちの信頼を獲得したうえで密着撮影をする。
それにより、おのずと中立的視線で、いやむしろオウム批判一色に染まった我々を外部に反転させて観る視点を提供する。

撮影時期は麻原(松本)らが逮捕された後、広報担当だった上祐も収監されているあいだ。

カメラが密着したのは、代わってオウム広報担当になった荒木さん。
彼のにこやかで涼やかな表情と口調が親密さを醸し出し、不思議な感覚にさせられる。

なぜこんなに普通の若者がぼくらとかけ離れた常識を持っているのか。
僕らの常識が一旦宙に浮く気持ち。
ましてやマスコミの態度がいやらしく見えるだけに、荒木さんにはシンパシーを抱いてしまう。

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私服警官があからさまに「転び公妨」をしたところが映る。
公務執行妨害の現行犯逮捕を目論み、警察自ら当たり屋のように演技を仕掛けて被害者になろうとする詐欺的手口。
しかも警官は相手を倒しているからむしろ加害者。
その瞬間が撮影されていたから、このフィルムが証拠映像として役立ち、信者は起訴を免れた。

この一件からもわかる通り、撮影側は常に<あちら側/こちら側><敵/味方>の境界を揺さぶられる。
そして僕らも、真実と思っていたものが欺瞞だったり、ということが見えてくる。




『わたしは光をにぎっている』
中川龍太郎
監督
2019年 日 1時間36分
横浜ジャック&ベティ
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かたちあるものはこわれる。

かたちがないものもいつかなくなる。

故郷でも、都会でも、いろんなものが消え、またはとって代わられる。

この映画の中でも、いくつものことが終わりをむかえる。

人も。
心も。

でも、かなしくなんかない。
人しだい。
心しだい。

消えては生まれ、
終わっては始まる。

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とても小さな世界だけど、弱い存在だけど、微かな光を感じることができる。
きっと、だれでも、どこでも。

中川龍太郎監督は今回も、情感をたなごころにつつんで、やわらかな音と光たゆたう空間に放した。
ポエティックな切なさとあたたかさを演出させたら、この若い監督にかなう人は今いない。

松本穂香はこういう役がよく似合う。

今作ではノスタルジーも十二分に加えた。
観ていたら、観ている映画館がスクリーン中に出てきた。
入れ子状態のぼく。
風情ある映画館ジャック&ベティが舞台のひとつに使われていて、うれしくなった。
しかもふだん見られない映写室など舞台裏まで案内してくれて、お得な気分。

★★★☆



『グレタ Greta』
ニール・ジョーダン
監督
Greta 2018年 米 1時間38分
TOHOシネマズシャンテ
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16歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの映画ではなく、イザベル・ユペール66歳がクロエ・グレース・モレッツ22歳のモンスター・ストーカーになる話。

『ピアニスト』(M.ハネケ)『エル ELLE』(P.バーホーベン)などで以前からウィアードな役もお手のものとするところはプンプン香ってはいたユペールではあるけれども、今回もすごかった。

おまけにいつもはもう少し気品のある作風のニール・ジョーダンが今回は吹っ切れたようにホラー色を全開にして、ベタだが怖すぎるサイコ系熟年女性を演出。
監督は英国人だがアメリカで作るとこうなるのか。

狙われるクロエ・モレッツも、恐怖絶叫系の役が定番になってしまっているキライがあるが、期待に十分応える。

それにしても、ストーカーやサイコ系の役が最後に何度も襲ってくる展開は、どうしてこうも人間離れしてくるのか。
オカルトじゃないのにゾンビ化しちゃう傾向は、『危険な情事』グレン・クローズもそうだったが、伝統みたいなものがあるのだろうか。
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キーになるのは、「外れやすい金具」。

★★★




『アイリッシュマン』
マーティン・スコセッシ
監督
The Irishman 2019年 米 3時間29分
アップリンク渋谷
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マーティン・スコセッシ監督(77)にロバート・デニーロ(76)、『タクシー・ドライバー』つながりのハーベイ・カイテル(80)、『グッド・・フェローズ』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』つながりのジョー・ペシ(76)、『ゴッド・ファーザー』『ヒート』つながりのアル・パチーノ(79)・・・

切っても切れない長年の縁ある俳優たち。
錚々たる面々を集めてNetflixは、罪なことに無視できない豪華な大作をを放ってしまった。

これも『ローマ』と同じくPCやモニターで観る気にはならない。
と思ったら、なんと最初から数館の劇場で公開するという。
休憩なし3時間半の長丁場だが、自宅では集中できないから劇場を即予約。

さて。
かといって、劇場でも集中できなかった。
長かった。
長く感じた。
ほかの客もそのようだった。

若い頃のデニーロの容姿があまりによくできていて不可解だったが、あとから聞けば、若き頃から老年まで、CG編集技術のなせるわざなのだそうだ。
それも見ものと言えば見ものだが・・・

ジョー・ペシといえば『グッド・フェローズ』の「ファッキン!ファッキン!」と4文字ワードの悪態マシンガントークが忘れられないのだが、今回はいちばんものわかりのよさそうな役柄で拍子抜け。

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まあ、デニーロとパチーノの超豪華タッグを見るだけでも満足できる人はいるかもしれない。
ぼくはスコセッシ監督で期待した分、話し自体が少し退屈で、長く感じたなあ。

★★☆

少女は夜明けに夢をみる/ラフィキ/虚空門GATE/普通は走り出す

2019年11月9~10日


どれも出来上がるまで長い歳月を余儀なくされたり、予算がなく胃袋掻きむしり心臓汗かき脳捻転し子宮が脱出する産みの苦しみを経たインディペンデント作品ばかり。



『少女は夜明けに夢をみる』
メヘルダード・オスコウイ
監督
Starless Dreams 2016年 イラン 1時間16分 ドキュ
岩波ホール
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みんなピュアな瞳とあどけなさが残る顔立ちでかわいい。
この子たちが犯罪?
にわかには信じがたいが、ここは更生施設。

顔にモザイク一切なしで、映っている。

話を聞けば、強盗、殺人、薬物、売春を吐露する。
インタビュー形式が多く、応じてくれた子は意外にも饒舌に喋ってくれる。

きっかけはほとんどが親からの虐待、親の薬物中毒、ネグレクト。
共通するのは貧困、離婚、早すぎる結婚・出産。

何も悪くないはずの子どもたちが、なぜ大人のせいで罪を贖わなければならないのか。

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『存在のない子供たち』(レバノン)もそうだった。
そこで少年が裁判で訴えていたことと同じことを、泣きながらイランの少女は訴える。

「生まれた私が悪いの?」
「育てられないなら生まないで!」

さらに「女性」であるということも輪をかけて締め付ける。
「どうして女性の命は男性の命よりも軽いの?」

「子どもが生まれたら何て名前をつける?」
と訊かれて、ある少女は、「男の子だったら殺す」と答える。
またある少女は、「女の子だったら殺す」と答える。
どちらも理由は同じだ。
罪を産みだす性だから。
どちらが発端になるかはその子の解釈によってちがうだけ。

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無邪気な笑顔を見せていた子、大声で歌を盛り上げていた子たちも、一瞬あとには落ち込んだりする。
カメラの前ではハイになったり、笑みを浮かべるクセがあるだけであって、ふとカメラが傍らに向くと、みんなのノリに入らずにうずくまったりボーっとしている子もいるのがわかる。

ここは「少年院」のような少女更生施設だが、この国に児童福祉はないのだろうか、と疑問が湧く。
明らかに親が虐待をしている、または保護する親族がいないのに、
「期間を終えたら、出て行ってもらいますよ。ここを出たら、あなたたちがどうなろうと、たとえ自殺しても私たちには責任はないの」
と職員は平気で少女に言い放つ。

児童相談所との連携で児童養護施設に住まわせるというのが定石だろうに。

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将来の夢を訊かれて、
「死ぬこと」
と答えていた家出少女が、家族が迎えに来てくれて再会を果たし、最後にはうれしそうに同じ質問に
「生きること」
と答えたのが、せめてもの救いだった。

施設を去る子は、誰もが大きな不安を抱えながらも迎えの車に乗り込む時にはこちらににこやかに手を振る。
しかし、その笑顔はそこで最後なのかもしれない。
また一瞬のちには塞ぎ込むのかもしれない。
笑顔と希望は必ずしも一致しないのだ。

彼女たちの素顔とその変化の一瞬を逃さないカメラの撮れ高は、奇跡だ。
短いフィルムの中に、世界の残酷な闇と、暗雲の切れ目から一瞬輝く曙光が見え隠れする。

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ここで撮影することに許可が下りるまで、7年間も粘った。
撮影期間は20日間。
イランのテレビでは放映しないこと、映画祭、大学、文化施設での上映に限るということが条件だった。
政治的メッセージをしないということで国家刑務所機構から信頼されていたと話す監督だが、ラストにかけるペルシャン・ヒップホップで強烈な直接的メッセージを放っている。
それまで静かだったスクリーンが、最後に一気に泡立って終幕。

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日本でも来年2020年1月に公開の『プリズン・サークル』(坂上香)は刑務所内の撮影許可に6年を要したという。
顔にはボカシがあるようだが。
2年間かけて撮影したドキュメンタリーをぜひ見てみたいし、坂上監督のこれまでのアメリカの刑務所に関するドキュメンタリー『ライファーズ』『トークバック』や日本での活動を振り返る機会がありそうなので、フォローしていきたい。



『ラフィキ ふたりの夢』
ワヌリ・カヒウ
監督
Rafiki 2018年 ケニア・南ア・仏・レバノン・ノルウェー・オランダ・独 1時間22分
イメージフォーラム
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こちらは中東ではなく、アフリカはケニアの少女たち。
うってかわって開放的。
カラフルな衣装・メイク・突飛なヘアスタイルに、目を奪われる。
音楽もダンスもファンキーで、ヒップホップも当たり前。
スワヒリ語よりも英語が流通?
ケニアの首都ナイロビって、こんなに自由な空気なの?
というインパクトが、最初のツカミ。

スケボーに乗りボーイッシュなストリート系だが控えめで優等生のケナ。
どこからでも目に付くドレッドヘアに蛍光色のデザインをからませ、フェミニンなスカートとタンクトップで露出を厭わないジキ。

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たがいに政敵同士の父親を持つ10代の彼女たちは、世間体やしがらみの中で生きていることを頭では理解しながらも、ガール・ミーツ・ガールで、ほどなく同時に惹かれあう。
同性愛へのタブー視は各国あるにせよ、中東同様とりわけ強い。
神に背く行為として、法で罰せられる。
だが、純粋な欲動には背くことはできない。
互いの恋心を確かめてからは、許されない立場と親への裏切りに葛藤し、メロドラマ色が一層濃くなっていく。

内装を綺麗に飾り付けた廃車を隠れ家にして、将来の夢を語り合い、誓いを交わす。
「私たちは、本物になろう」

そんな二人を見ていると、ほんとにかわいい。
愛おしさがこみあげてくる。

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アフリカ固有のものを見せながらも、あえて世界標準なポップさをベースにして、どの国でも普遍的にあるカジュアルに切実な問題としてこの題材を扱ったところが、この作品のいいところ。


最先端のセンスを取り込みつつも、決して派手であざとい演出はしない。
跳んでる二人をブッとんだ音楽とカット割りで編集したりせず、たとえばアップテンポの曲がかかるクラブで踊るシーンでさえ、フロアの曲はほぼミュート状態にし、二人の周りだけスローなレイドバック曲をまとわせて二人の世界をスクリーンに作ったりする。

冒頭以外、最後までこんな調子で、感情豊かな話にもかかわらず意外にも静かな作品という印象。
たしかに後半に進むにつれて、話しもメロウでしんみりはしてくるが、シルキータッチの作風は監督の持ち味なのだろう。

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ワヌリ・カヒウ監督はアフリカを代表する若手映画作家(39歳)で、活躍のフィールドを世界へ拡げて数々の国際映画祭で受賞するだけでなく、TEDや世界経済フォーラムでも女性リーダーの役割が期待されている。

主演のケナ(サマンサ・ムガシア)はミュージシャンとしてのキャリアが輝かしく、ジキ(シェイラ・ムニヴァ)も映画監督として羽ばたき始め、ベースはそれぞれ有能なアーティストなんだ、you know?

女性ならではのソフトで繊細でピースフルなアウトリーチ力が最大限に発揮されたコラボ作品となったわけだ。

企画から完成まで、資金集めも含めて6年の歳月が費やされた。
完成後は、ケニア映画で初のカンヌ出品など世界100か国以上に放たれるという画期的な展開に。

しかし!
ケニア国内では「同性愛を奨励している」とされて上映禁止の憂き目に。
行動する監督の粘り強い訴えにより、ようやく7日間の限定上映が許可されるや、毎日長蛇の列ができたという。

★★★☆



『虚空門 GATE』
小路谷秀樹
監督
2019年 日 2時間3分
イメージフォーラム
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佐村河内守に見えてきた。
主役の庄司哲郎のことだ。

「超能力者」でも「霊能者」でもなく、「UFOを呼べる男」庄司さんは、強烈な第三種接近遭遇体験を語る男であり、「UFOを撮れる男」であった。

「そこら中にいますよ」というUFOは、彼の手にかかればいとも簡単にスマホに映るのだ。

佐村河内氏の場合は、マスコミに持ち上げられた末にウソがばれて叩かれた。
クロではあるが、彼の作曲能力や聴覚障害・激しい片頭痛などについてはグレーのままである。
そこを追及したのが、森達也監督のドキュメンタリー『FAKE』だった。

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この庄司哲郎氏に関するドキュは、小路谷(こうじたに)監督が真摯にUFO体験を映像で記録しようとした過程で暴露した、庄司さんの虚偽の一件がひとつの焦点になっている。

その点に関してはクロなのだが、その他のことはグレーばかりで、虚言癖傾向は佐村河内氏とそっくり。
容姿も、胡散臭さも。

疑惑の発覚の前には、失踪と警察沙汰も起こしており、恋人や大家さんに大顰蹙を買う。
罪状はクロで、自分はシロだと言い張る。

小路谷監督も翻弄されっぱなしだが、予想外の出来事の数々は、内心どうだったのだろう。
少なくとも観ている方にとっては、ドキュメンタリーとしては一気に面白くなった。

フェイクの一件には、UFO研究家仲間もUFOファンの取り巻き達も、大きな失望の色を隠せない。
ただ、逆にこれがなかったら、胡散臭すぎて劇場公開には至らなかったのではないかと僕は思う。

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人物の「胡散臭さ」を客観視できなければ、映画まで胡散臭くなってしまうからだ。

じっさい、映画の幕が開けてまず始まったのは「天を開く祝詞」を読む男の声と、月面で発見されたという宇宙人の遺体へのSFX的ズーム映像だ。
これはキワモノを摑まされたかも?と、のっけから不安に襲われた。

小路谷監督は、森達也監督のような白黒つけさせようという目的ではなく、一UFOファンとして「必然的な物語に突き動かされて」撮り続けた。
だから、追及すべきところは厳しく追及しつつも、基本的にはシンパであって、UFOを呼んで夜空を観察し、不自然な発光体との劇的な邂逅の証人になる点では、なんら躊躇しない。

結果として、映されたドキュメントには、被写体の人物たちの胡散臭くも人間的な面白さがメインフィーチャーされている。
そこは森監督『FAKE』と同じだ。

そして、主役と、彼を見つめる監督、つまり二人の主役の、二重の視点をメタ的にとらえることに成功している。

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これは、フィクションでもノンフィクションでもない、監督のUFO愛に満ちたファンタジック・リアリティ・ドラマなのかもしれない。



『普通は走り出す』
渡辺紘文
監督・脚本
2018年 日 1時間47分
アップリンク吉祥寺
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渡辺兄弟=大田原愚豚舎の映画はまだこの長編1本と短編1本『八月の軽い豚』しか観てないので何も言うつもりはなかったのだが、語り出すのを止められない。


一目見た瞬間から、今の日本では稀少種で規格外、大胆不敵で傍若無人の荒くれ者。
メジャーなんか「映画界」なんかクソくらえ的な、雑草的な竹藪的な。
自由で勝手で野卑でシュールでフリージャズでアソビゴコロでヘソマガリで自由で。
独特すぎる日本語オルタナロックを前のめりでカマシつつ。

なんで傍若無人かって、それは監督渡辺紘文が前面に出て、ひとり喧嘩腰でボヤキ続けたり、それを正面からバストショットで撮ったり、自分を引きで撮ったり近くで撮ったり、歩きを後ろから撮ったり横から撮ったり。

固定ショットの同じ画を途中でブツブツ抜いて平気で継ぎ足したり、そんな編集ばっかり確信犯でやってたり。

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自分の部屋と思われる、散らかり放題、本を積み上げ放題、布団敷きっぱなしの固定ショットのなかで、中央奥には老婆がこちらを向いて座っており、渡辺監督はゴロゴロ寝てるだけだったり、電話が鳴ってもしばらく取らないでゴロゴロ寝返りしてるだけだったり、そんな構図をトリプルファイヤーという脱力系日本語ロックがけっこうな音量で支えているんだから、もうそれだけでカンペキに笑えてしかたがないんだよね。

おまけに助手席で監督が喧嘩腰ボヤキをひたすらつづける相手の運転中の黒崎さんはポーカーフェイスも甚だしく、無表情というには温和な感じで左から右へ受け流し、いや、相槌も打たず全くマイペースでそこには運転する自分しかいないかのようなまなざしは、もはやこれは話を聞いてもいないのではないか、という疑念が確信に変わってゆくしかないのと同時に、この黒崎さんという登場人物は果たして映画に出演しているという意識すらないのではないか、一言も喋らないし、監督から毒づかれようとも眉一つ動かさず、素人なら緊張で目が泳いだりするはずだがそういうことも皆無で、どんな指示でそこで運転し映っているように言われたのか、それを考えさせる構図を観させられているだけでカンペキに笑えてしかたがないんだよね。

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おまけに出てくる女性たちが、老婆(実のおばあちゃんらしい)以外はすべて若くて綺麗なねえちゃんだったりするのも、下世話でトンマで香ばしい。

いくつかの決まったシチュエーションを裁断しながらミニマルに繰り返していく手法は、モノクロ画面やトボケたセンスも手伝ってジャームッシュっぽくもあり、つまりスタイリッシュでもあり。


最大の特徴はやっぱり渡辺監督が自分を映画のオリジナリティの真ん中に据えているという点で、惜しみなくその容姿を偶像化するあたりは、野性爆弾くっきーの自画像アートにも近いものがある。
自分を使ったアートならそれがいちばんオリジナルであって、自分の作品は自分のキャラそのものということであれば誰にも真似はできない。
いくら自分を前面に出してもナルシスティックにならないのは、キャラ得だね。

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ただ、『8 1/2』的な監督の産みの苦しみを描いた作品だけに、もがき・あがきが煮詰まってくる終盤は見ている方もやや辛くなってくる。
それを自身も重々承知だろうから、自家中毒や自己中を避けるために客観化作業も労を惜しまず、セルフSMのようにも見える行動・言動を繰り返す。

突然登場人物へのインタビュー集の章が出現して度肝を抜いたりする。
それはそれでまた破格の面白さなのだが、それ以降は本格的な苦悩表現で締めくくりに入り、ナンセンスの勢いが落ちてしまった気がする。

MOOSIC LAB(ムージック・ラボ)出品作で、ミュージシャンとの対等なコラボ作品となっているため、トリプルファイヤーというバンドの異色すぎる歌詞とリズムが、観終わってからもいつまでも追いかけてくる。

★★★☆

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映画監督・渡辺紘文と映画音楽家・渡辺雄司の兄弟が栃木県を根城に旗揚げした映画制作集団「大田原愚豚舎」

『そして泥船はゆく』『七日』『プールサイドマン』『地球はお祭り騒ぎ』が4作連続で、今年も最新作『叫び声』が東京国際映画祭に正式出品された。

今回の特集上映では、渡辺紘文監督の日本映画学校(現・日本映画大学)卒業制作作品『八月の軽い豚』を併映。
こちらは今村昌平・元学長の薫陶か、その作風を正統に受け継ぐかのような40分の短編。
粗野な勢いと気迫に溢れていて、柳町光男中島丈博の作品世界にも通じる。
2007年にこれほどの70年代的な劇画タッチで作る20代はなかなかいない。

農村の閉塞状況のなかで、家族と生業のわだかまり、若者の性と暴力の暴発が描かれる。
今年『岬の兄妹』(片山慎三)の怪演で話題になった松浦祐也が、12年前の姿でここでも気炎を吐いている。
主演の完山京洪(かんやまけいひろ)もいい味を出しているが、現在は映画監督をしているらしい。

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『八月の軽い豚』(渡辺紘文)
2007年 日 41分

★★★


だってしょうがないじゃない/ザ・レセプショニスト/あなたを、想う

2019年11月2日~3日



『だってしょうがないじゃない』
坪田義史
監督
2019年 日 1時間59分 ドキュ
ポレポレ東中野
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歯に衣着せずにあれこれ世間話を喋る人が、ある場面にくると
「でもしょうがないよね」
で話が停まってしまう。

在宅ケアをしていると、ある患者さんにそういうケースがよくみられる。

身体のことだったり、社会(国や自治体)のバックアップの可否の件だったり。
あるいは消費税が上がることだったり、年金問題だったり、教育格差だったり。
ほとんどが健康格差につながる問題だ。

「いや、しょうがなくないでしょ」
と、こちらは言い返していたこともあった。
政治で改善してもらわなきゃいけない問題は、市民が声を上げなきゃ始まらない。
このまま弱い立場で甘んじていてはいけない、など言いたいことはいくらでもある。

でも、患者さんには「しょうがないよね」と口癖のように言ってしまうだけの、彼/彼女なりの長く重たい日々の背景があるのだ。
ということを感じるようになってきた。

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発達障碍の人を主体にすると、「自分らしく生きているか」という点がはげしくクロースアップされる。
「誰もが自分らしく生きる」権利を保障するこの国の憲法が、ちゃんと機能しているかどうかが自ずと丸裸に見えてくる。

そしてそれは、僕らニンゲンがどう扱われているかを、如実に映してくれる鏡だ。

なぜなら、誰でも健常者か障碍者か、正常か異常かの境界線上グレーゾーンに生きているのだから。
みんなデコボコ。
みんな不具合と折り合いをつけながら生きている。

ちがいは、固定観念でカムフラージュして気づかぬふりをしているか、それともイノセントにナイーヴに過敏なまま生きているか、だ。

「どうせ、しょうがないよ」
と諦めるしかない気持ちにさせているのは、誰なのか。
その背景を問いつつ、寄り添わなくては。

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まことさんという60代の発達障碍の叔父さん一人を、ずっと密着して撮ったのは、ADHDと40代で診断されたばかりの監督。

まことさんは被写体として全く動じない。
見ていてユーモラスだし、好奇心をもって見てしまう。
ただ、こんな視線で興味本位で見ていいのかどうか、臆する気持ちも出てくる。

でも、監督とまことさんのあいだには親愛の情とWINWINの関係ができあがっている。

カメラに晒すアグレッシブさを秘めながら、監督のあたたかなまなざしに救われる。

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でもさて、発達障碍者(知的障碍者)の、親亡き後は・・・
訪れた母親ロスと、自立生活の危機。
「8050問題」(80代の親が50代の子の生活を支える) に伴う住居課題にも直面する。

母親とずっと二人で暮らしてきたこの家を、来年の冬までに出なければいけない、と告げられて、まことさんはつぶやく。

「だってしょうがないじゃない」

このあとまことさんはどうなるのだろう。
登場する福祉関係者の方たちもみないい人たちばかりだが、現状ではいい解決策がない。

この映画を見て、救われる気持ちになるのも半面だが、一方で障碍者ケアの問題を、自ずと強く浮き上がらせる。

「しょうがない」だけではもちろん済まないのだ。

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<台湾映画2作>


『ザ・レセプショニスト』
ジェニー・ルー
監督
接線員 The Receptionist 2017年 英・台 1時間42分
新宿K’sシネマ
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2010年代つまり現代のイギリス。
民家を借りて密かに売春サロンを営む台湾人経営者。
そこでやむなく働くのは、生き延びるために駆け込んだアジア女性たち。
大学の文学部を卒業し就職活動するも職にありつけない台湾人ティナ。
同棲する彼氏もクビになり、部屋代も払えない状況に追い込まれ、サロンの受付嬢の職にたどりつく。

そこにはまるで『軍中楽園』(2014)のように戦時中の慰安所を描いたのかと見紛うほどの光景があった。

現代の移民たちには、難民同然の者から大卒まで、生きるか死ぬかの境界線を伝い歩く底辺の住人たちが街の片隅に潜んでいて、身分も学歴も無に帰す。

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台湾出身で英国在住の女性が友人の自殺をきっかけに制作に挑んだ。
西欧の大都市に埋没するマイノリティの立場からの、同胞たちへの哀歌と故郷へのサウダージ。
7年間かけた根気は、切実な思いからだろう。

ドラマ性よりもドキュメント色を重視したつくりではあるが、陰を背負う登場人物たちや状況のリアルさには悲痛な物語が否が応にも滲み出てくる。

女性たちの演技は真に迫る。

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第1回熱海国際映画祭グランプリ。

★★★☆


『あなたを、想う』
シルヴィア・チャン
監督
念念/Murmur of The Hearts 台・香 1時間59分
ユーロスペース
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こちらは対照的に、まぶたの奥に生じる「物語性」を主眼につくられた作品。
人物たちの肉親への情や、時間的背景、語りのファンタジーを存分に膨らませたシナリオ。

過去を引き連れた若者たち3人の現在。
時制を前後しながら、生き別れた親兄妹への思慕と憤懣、思い通りに生きられない現状が、3人それぞれについてじっくりと描かれる。。

複雑な感情の去来を、美しい叙情の海の映像と人魚の幻想に溶けさせ、イマジネーションの空へはばたかせる。

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鑑賞前にあらすじを読んでおかないと人物相関が掴めないおそれもあるシナリオ構成で、終盤になってはじめて明らかにされる重要な過去もあり。
すべては見る側の想像と思索をたっぷりと広げてもらおうという意図に貫かれている。

監督は香港・台湾の重鎮女優シルヴィア・チャン
『妻の愛、娘の時』を撮る3年前の作品。

脚本は蔭山征彦のオリジナルに監督が目をつけ共同開発したという。
蔭山は台湾で活躍する日本人俳優。

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★★★☆

パパ、遺伝子組み換えってなぁに?

2019年10月20日


『パパ、遺伝子組み換えってなぁに?』
ジェレミー・セイファード
監督
GMO OMG 2013年 米・ハイチ・ノルウェー 1時間25分
amazon prime
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知ってる人は知っている。
知らない人はぜんぜん知らない。
それが「遺伝子組み換え作物(GMO)」
あるいは「ゲノム編集」
もしくは「モンサント」
はたまた「グリフォサート」

このドキュメントはとっつきやすい。
何の知識もない人向けにつくられているから、入門者にはうってつけ。
そんな工夫や趣向が凝らしてある。

このほかにも『モンサントの不自然な食べもの』『フード・インク』(いずれも2008年)などをご覧になった方も多いだろう。
これらを1回観ただけでは最低限の知識レベル。
でも本を読むより映画を一発観た方が手っ取り早い。

現在2019年に至るまで、年々時々刻々と、利己的な巨悪遺伝子は手を変え品を変え、日進月歩の科学の最先端を開発しながら所有欲を満たそうと躍起になっているのだ。

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これが撮られたのが6年前(2013年)。
作中でインタビューされるアメリカ人は、みんな口をそろえて、
「GMO? What is that ?」
「I’ve never heard」

ということで、監督である聞き手のパパは
「OMG(オーマイガー)!」
となるわけだ。

パパである監督ジェレミー・セイファードは、種マニア(!)であるという奇特な幼い息子と対話をしたり調べたりするうちに、種という命がグローバル企業の所有物となっている事実に突き当たる。

自分の畑で採れた作物の種を翌年使うと罰せられる?!
驚愕したパパは息子たちとともに追究の旅を始める。

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効率を極限まで高めるために、生命の設計図を変えた作物を作ってしまう。
ベトナム戦争で奇形児を多発させた枯葉剤と同種の除草剤(グリフォサート)を使い、それに耐えうる特殊な作物を遺伝子操作で作る。
その種を企業の利権として強制的に売る。
契約しない農家は脅迫し、潰す。

おそろしい。

そうやってできた農業と食品産業の構造。
そのなかで生まれた食品が当たり前に僕らの食卓に今日も乗っかっている。

その恐ろしさを、この映画はいたって軽やかにカジュアルに紹介してくれる。
音楽もポップだし、構成も飽きさせず、楽しく学べる。
パパのフットワークも軽く、行動範囲も広い。
マイケル・ムーアよろしくモンサント社に息子を連れて突撃取材に行ったりする(断られたが)。
ハイチに行っては、モンサントの進出・支配を拒絶した事例をレポートする。

カジュアルだからこそコワイんだけどね。
例外なくすべての人が毎日自分の口に入れるものを見直さなくてはならなくなる。
その自己防衛のための行動が、消費者の仲間を集め、運動を起こす。
必然的に政治に訴えることが、唯一の有効な手段となる。

つまり、誰でも即、政治に直結するマターなのだ。


事態は進み、グリフォサートに耐性をもつ雑草が生まれ、「スーパー雑草」となって巨大化し、悪循環を生む。
健康被害もデータとして報告される。
癌や子どもの自閉症の増加、寿命の短縮・・・

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さて、この映画を見たあとに、この分野の第一人者の印鑰(いんやく)智哉先生の講義を聞いた。
この6年間の事態の進行ぶりに、またまた何重にもキョーガク。

実はこの映画には日本のことが描かれていなかったのだが、日本にも遺伝子組み換えはすでに当たり前のように入り込んできている。
収穫までのあいだに使われた農薬(グリフォサート)は、そのまま食品の中に残存して売られている(食べられている)。

一方、あんなにGMOについて知られていなかったアメリカでは、その後数年間で消費者意識が高まりGMO不買運動の結果、いまやスーパーマーケットの商品棚は有機食品が席巻しているというドラスティックな展開に!

しかしグローバル企業の利己的な巨悪遺伝子は、遺伝子組み換え食品の商売が立ち行かなくなると判断するや否や、次の新手の最先端科学「ゲノム編集」と銘打った食品の開発に力を注ぎ、すでに流通させている。

それが日本でも議論なく流通されている!
日本がアメリカの輸出ターゲットになっているのだろう。
つまり都合のいいお客さまだ。
制度上もすでに厚労省・消費者庁は準備を整えた。
表示義務は「なし」という結論だ。

専門家たちや消費者団体がリスクについて発信しているが、そこには不安しかない。

すべては、消費者の意識にかかっているのだが・・・
アメリカの消費者がGMO不買運動を起こしたように日本でもいかないものだろうか。

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監督ジェレミー・セイファードは、公式サイトで次のように語る。

「当時6歳の息子のフィンが、映画の中でこう言ってた。
『もしみんなが遺伝子組み換え作物を買うのをやめたら、お店も置かなくなる。そうすれば会社もなくなる』
ってね。
まさに、そうなんだよ。
僕らが知識を得て行動を起こして、正しいと思うことをやれば、実際に変えることは可能なんだ。
僕らは何かを食べるたびに、誰かの何かを儲けさせている、ということを自覚する必要がある。
この地球がこのままでいられるような、また地球のためになるようなことにね。
自問すればいいんだよ。
『自分は育てる人間になりたいのか、それとも搾取する人間になりたいのか』
ってね」

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※当作品は現在、amazon primeで見られます。

解放区/楽園

2019年10月20~28日

『解放区』
太田信吾
監督/脚本/編集/主演
2014年 日本 1時間54分
テアトル新宿
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なんなんだ、この男は。

さえない風貌、むしろ不潔と言ってもいい髪・不精髭。
もそもそとした喋り方。
煮え切らない態度、曖昧な素振り。

主役であり監督でありながら、表現者としてはおよそ“突破者”になれそうにないアマちゃんのように登場しつづける前半。

東京のドキュメンタリー制作会社でディレクターを目指す20代のスヤマ。
ADとして『若者のリアリティ』をテーマとした番組の撮影に加わるものの、引きこもり男性の取材方針でディレクターと衝突する。

その現場の描き方もさえない。
ドキュメンタリータッチで撮ろうとしていることがわかるものの、(とくにディレクター役など)けっこう不自然な演技で、それこそ「リアリティ」もヘチマもない。

スヤマが太田監督であることをもちろん意識しながら見ているのだが、このパッとしない主演の男も監督も、大丈夫なのかなと心配しながら見ていく。

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ところが、後半大阪に舞台を移した頃から次第に何かが変容してくる。

スヤマは相変わらず不器用で、私生活も仕事も無様なことになっていくが、言い換えれば加速度的に「クズ」になっていくのだ。

いわくつきの西成・釜ヶ崎を舞台に、過去に撮ったフッテージの少年たちを探す過程で、西成のリアリティがじわじわとスヤマの中に浸水してくる。

そのうち金を盗られ、ゲスの極みに成り果て、身をやつしてドヤ街で日雇い労働を求めるまでに。
肉体労働の現場でベテランから、
「大学出のアマちゃんが、こんなところで何が『若者のリアリティ』やねん! 大人でもない、若くもない、お前のリアリティが先やろ。知りたかったらシャブでも打ったらええねん!」
と言われるあたり、なかなか香ばしい薫りがしてくる。

今までの自意識過剰気味から、がぜん自己客観視が強く現れてくる。
同時に、西成のリアリティが真に迫ってきて、スヤマは本当に呑み込まれていくのだ。

私的な鬱屈、社会の抑圧、西成のリアルが一人の男を渦の中に抛り込み、いや自分から抛り込まれる。
そんな自分を映すのも太田監督自身なのだ。

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主人公である監督がカメラの前で演じている時点で、ここには最初から最後までドキュメンタリーっぽさはない。
むしろ「これはノンフィクションのようなフィクションです」とあえて暴露しているかのような「メタフィクション」的な感触さえある。
きっと何かをしでかしてくれる、という淡い期待に、ある意味応えてくれた。

衝撃のラストシーンでも、カメラと自分との関係性にこだわる執念を描く。

初めから狙った脚本なのか、途中から変容していったのかはわからないが、きわめて自分と社会の関係についてメタ的な視点をもった作品だ。

さえない風貌だからこそ、逆にその意外にしたたかなやり口に感心したのだった。

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この映画ができるまでの混沌と、できてからの軋轢、配給・上映まで5年を要した困難があったと聞く。
助成する大阪市からの検閲、修正拒否、助成金辞退という「表現の不自由」問題がここにも発生していた。
背景については詳らかではない。
それをテーマにすればページ数は何倍にもなるだろうが、ここでは純粋にこの映画から感じられたことだけを書いた。

★★★☆



『楽園』
瀬々敬久
監督
2019年 日本 2時間9分
TOHOシネマズ川崎
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綾野剛、杉咲花、佐藤浩市、片岡礼子、黒沢あすか・・・
みな気合いみなぎる熱演だ。
演出による成果だと思う。

しかし、決めゼリフと思しき所どころで、言葉が刺さってこない、浸みてこない。
なぜだ?
『ヘヴンズ・ストーリー』の名匠・瀬々敬久監督による骨太な作品なのに。

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たぶん、脚本だと思う。
焦点が定まらず、とっちらかった印象がある。

テーマは吉田修一原作の骨太2作『悪人』『怒り』(ともに李相日監督)と同じく、「本当に悪いのは誰なのか」「それをあなたは責められるのか」
今作も同じタイトルでも全くOK。
ただし今回は同じ吉田修一でも、短編集からの2作品を合わせて瀬々監督が脚本にした。

それが大きな一因なのでは?
原作を読んでいないので推測の域にすぎないが。

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3人あるいは柄本明を入れれば4人の主役が、それぞれ一人称で激しい感情を体現するのは、考えてみれば生易しいことではない。
思えば、『怒り』のときも主役が複数いる群像劇で、テーマに深く降りていくのには難しさがあった。
吉田修一の小説自体が感情移入しにくいということもあるかもしれない。

いずれにしても、やはりオリジナル脚本の作品を撮ってこその瀬々監督だ。
『菊とギロチン』のあと何年かかるかわからないが、瀬々オリジナルを楽しみに待ちたい。

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★★★

真実/ボーダー二つの世界

2019年10月12~17日


『真実』
是枝裕和
監督
2019年 仏・日 1時間48分
109シネマズ川崎
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この題材で、こうもハッピーエンドになるなんて、ハリウッドでもなければ珍しい。
設定やテーマが似ているベルイマン『秋のソナタ』しかり、老女優とステージが現実にかぶさる『オープニング・ナイト』(カサヴェテス)しかり、この手の映画は問題が解決しないまま深刻に終わることが多い。

こんなにも軽妙に「家族」の映画を締めくくることができるのは、やはり家族映画を十八番とする是枝監督ならではだろう。

ただし、日本を舞台とした是枝家族映画が、いつもどこか“落語の趣き”をもっているのに比べて、このフランス映画はだいぶオモムキが違う。

粋なのだが、シャレている。
毒があるのに、カラッとしている。
日本とフランスの湿度の違いなのだろうか。
感覚的なものまで翻案しているような。

「よくてもわるくても、映画にはポエジーが必要なのよ」
と劇中のカトリーヌ・ドヌーヴに言わせているように、この作品中にははじめから終わりまでイカしたセンスがちりばめられている。

庭の陸ガメに元夫(おじいちゃん)の名前を付け、魔法でおじいちゃんをカメにしてしまったと孫娘におしえるドヌーヴ。
おじいちゃんが現われるとカメが消え、おじいちゃんがいなくなるとカメが現れることに気づく孫娘。
その「魔法」という言葉は、ラストの娘ジュリエット・ビノシュとドヌーヴの親子の間でも交わされ、ジンとくる。

話の中心人物=サラが劇中に姿を見せない。
過去の映像も、過去の因縁といっしょに空白にして想像を膨らませる。
イマジネーションを十分膨らませると、母親の隠されたエモーションも見えてくるしくみだ。

などなど。
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「役者がチャリティや政治に口出しするようになるのは、役者としての闘いに負けたからよ。だから現実に逃げるのよ」
と毒を吐くのはドヌーヴだが、「そういう発想があるのか、役者には?!」と僕は驚いた。
彼女が言うと説得力があるのだが、是枝映画に似合わないことを言うなあと思ったら、そう言わせているのもまた是枝監督である(笑)

そんなわけで、この映画にはいつもの社会的弱者凝視の視線はほとんどない。
重厚でもなく、子供の普段着演出を生かしたものでもなく、いわゆる「是枝色」は目立たない。
監督自ら語っているように、今回の作品は賞を獲ろうというような狙いや力みはなかった。

和風でもフレンチでもない、ライトなコレエダ風味をお楽しみください。

★★★☆



『ボーダー 二つの世界』
アリ・アッバシ
監督
Grans 2018年 スウェーデン・デンマーク 1時間50分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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ジョーカーよりもずっとずっと究極のマイノリティ。
異形の者は存在するだけで忌み嫌われる。

「人々」に虐げられる宿命の存在は、人々から離れて生きるか、無理やり人々に紛れて暮らすか、の選択を余儀なくされる。

その結果、「人々」の邪悪性に晒されて、その「恨み・憎しみ」という特性を自分のものとした者は復讐の鬼として生きていく。
一方、「人々」から情愛やリスペクトを受けて育った者は、その「モラル」を自分のものとして生きている。

そんな二人がせっかく運命の出会いを果たしたにもかかわらず、互いに培った両極の「人間的な」特性に気づいてしまう。
引き寄せる磁力に抗して、今度は無理やり身をちぎるように自ら関係を引き裂く。

森の中を全裸ではしゃいで駆けてゆく二人の美しい情景が、ほんの短い時間でうたかたと消えてしまう哀しさ。
自然に還る悦びにふるえる体験をしたのも束の間。

ストーリー上ギリギリの表現で書いたが、これ以上は何も言えずもどかしい。
謎が終盤まで持続するかなりのミステリアス・サスペンスなので。

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この映画は主にスウェーデンで撮られていて、主人公たちはスカンジナビア半島を流浪している設定になっている。
ノルウェーでは少数民族の閉鎖的な村の存在が『サーミの血』で描かれている。
日本にはもちろんアイヌ民族が同様の悲しい運命をたどってきている。

「人類は害毒以外の何物でもない」
「人類はほっておいても破滅する」
そう主役のひとりは語る。
人間であろうがなかろうが、マイノリティであろうがなかろうが、それが地球上の共通認識。
そう、そこは『ジョーカー』も同様だ。

ただの「グロ」として片付ける向きがあるとすれば、大まちがい。
これは「絶望」についての美しい映画だ。


むしろ、ティーナがちゃんと社会の一員として、家族の一員として、しかも公務員として、リスペクトされて生きているというところに、逆に感心した。
普通なら『エレファントマン』のようにサーカス小屋に売られたり、表に出られないようにされたりというような国も多いだろうに。
日本だってなおさら。
就職は困難だろう。
さすがスウェーデンだなと思った。

★★★☆




<その他の鑑賞作品>

『フィッシャー・キング』(テリー・ギリアム) 1991年 米 2時間18分 録画 ★★★★

ジョーカー

2019年10月9日

『ジョーカー』
トッド・フィリップス
監督
Joker 2019年 米 2時間02分
109シネマズ川崎
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「弱者」ではなく、ここでは「笑い者」と呼ぼう。

「笑い者」とは、実は「笑われる者」だ。
では、「笑い者」を笑うのは誰だ?

ここにはいくつもの種類の笑いが登場する。

これは、「笑い者」が笑うときの笑い(自嘲)と、
「笑い者」を笑うときの嗤い(嘲笑)の話だ。

ジョーカーすなわちアーサー・フレックは、テッテーテキに弱者として育ち、弱者の要件を満たしたまま、社会人になれずに笑い者になった。
人を笑わす役になりきろうとすればするほど、嗤われ、嘲笑されつづけて、自分を嘲る引き攣った笑いをする者になった。

こうさせているのは誰なのか?

まず冒頭から子供たちからの暴行略奪に遭うところから始まる。
雇い主からはハラスメントと首切りに、同僚からも罠にかけられる。
通行人や乗客からも蔑まれ、そのストレスが身体反応を生み、さらに嫌悪される悪循環。
そして家族と出生の秘密にもトラウマが隠されている。

この“魔境”ゴッサムシティが元凶なのか。

そこは魔窟でもない、NYかシカゴか、いや東京か大阪か、あなたの住むその街のように見えるだろう。
僕には今住んでいるこの国のこの街にしか見えない。

では一体、このゴッサムシティはどうやってできたのか?

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あなたの少し上に立つ権力者があなたを笑う。
そのまた少し上の権力者が彼を笑う。
そうして、行き着く元凶は、この映画にも姿を見せない、世界のピラミッドのトップに位置する見えない強大な権力である。

いま全世界に渦巻く「新自由主義」による極端な格差社会、それによって生まれた「自己責任社会」「排外主義社会」「権利剥奪社会」「個人封殺社会」
そのまんまの映し絵だ。
ということを、コメディ映画出身の監督が脚本を一から立ち上げて、最も深刻な社会問題を全世界に投げ掛けてくれた。

ここ数年の日本国内で起きている事件を思い出すだけでもわかるはずだ。

「死にたいならひとりで死ねよ。他人を巻き込むな」
そう声高に言い捨てた人は、ジョーカーを観るときにだけ弱者に肩入れするんじゃないよ。
ジョーカーに同じことを言えるか?ってんだ。
同じ道化(CLOWN)の顔した群衆が蜂起して、ジョーカーを闇のヒーローとしてまつり上げたとき、胸のすく思いがしただろうってんだ。

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こんなに暗く悲しく重い作品を、「バットマン」の看板のおかげで政治のことなど考えたことのない人たちや若いカップルが大挙して劇場に押しかけている。
すばらしい貢献だ。

そもそも、ジョーカーという存在は、「怒り」と「悲しみ」と同時に「笑い」を加えた三要素を兼ね備えているという点で、潜在的にヨーロッパ三大賞にふさわしい主役だったのだ。

「怒り」と「悲しみ」によってトラウマや社会を告発する作品は数多ある。
最近では同じホアキン・フェニックスが主演した『ビューティフル・デイ』(リン・ラムジー)もそうだし、日本ではたとえばその名もまさに『怒り』『悪人』(李相日)など、枚挙に暇がない。
しかし、「笑い」を兼ね備え、効果的に使っているものは少ない。

劇中映画に出てくるチャップリンは、笑いと哀しみで世界を語る象徴。

「笑い」は、「怒り」や「悲しみ」を増幅する触媒になる。
ホラーまでもが、道化の力を借りている。
そして訴えたいことを伝えるために最大の効果をあげてくれるのだ。

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ロバート・デニーロを大物コメディアンとして登場させ、彼に憧れ一緒に出演することを夢見る設定は、『キング・オブ・コメディ』においてデニーロが演じた役と真逆のパターンで面白い。
オマージュは、『タクシー・ドライバー』のデニーロを意識したかのようなホアキンの演技にも現れている。
物語も『タクシー・ドライバー』をグレードアップさせたかのような構造だ。

今あの時のデニーロにいちばん近いアブナイ男といえば、まず名前が挙がるのはホアキン・フェニックスだろう。
3か月で24kg痩せ、8カ月かけて人間アーサーを探求し、突発的に笑ってしまう症状を実際に見知らぬ人前で出すことができるくらいに成り切ったホアキンあっての『ジョーカー』だ。

鬼気迫るホアキンを使って、個人の生を掘り下げ、感情を掘り下げ、潜在心理の由来をしっかり解き明かす。
そうすることで背景の世界の凶々しさが色濃く浮き彫りにされる。
見事な脚本だ。


始まりから負のエネルギーの圧がじわじわと高まり続け、終盤になって俄然勢いがつき、ラストにスパートをかけてついに暴発する。
熱狂の中でモンスター=ヒーローが生まれる瞬間はカタルシス。
そこに到る過程は最高の展開。

そして最後はバットマンの発露を垣間見せて着地する。

聖も邪もない、善も悪もない、絶望と絶望の闘いのはじまりだ。

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劇伴が大仰なのは「スリラー系」作品の常だが、三大映画祭系では珍しい。
音による盛り上げ方がやや耳につくが、ジョーカーの演技への楽曲の当て方は実にセンスがいい。

「アメコミ系」が三大映画賞を獲るのは初だろうが、ベネチアはカンヌやベルリンよりも比較的俗っぽい作品も好まれるから、不思議ではない。
だいいち、この映画は「ジャンル映画」では決してない。

ただ、コメディ映画『ハングオーバー!』シリーズが代表作の通俗的なイメージのあるトッド・フィリップス監督が、いきなりこの『ジョーカー』を世に突きつけたことにいちばん驚く。
『バットマン』シリーズをこんなにもジャンル映画から脱却させて、社会的に硬派な問題作を作り上げたことに。

彼に監督を抜擢した製作者は誰だったのか?
という点をいちばん知りたかったのだが、実は彼自身だった。
トッド・フィリップスは監督業以上に製作を中心にキャリアを積み上げてきた人だったので、盟友である俳優ブラッドリー・クーパーらと共同で製作し、スコット・シルヴァーと共同で脚本を立ち上げた。
つまり、彼ら自身でこの大それた企画を通したということらしい。
監督も、
「いちばん大胆なのはワーナーとDCコミックスだよ」
と語っているくらいなのだ。

★★★★☆

宮本から君へ/エイス・グレード/ある船頭の話/見えない目撃者/天気の子/アンナ

2019年9月29日~10月6日

ウソと痛さとみずみずしさについて。


『宮本から君へ』
真利子哲也
監督
2019年 日本 2時間9分
角川シネマ有楽町
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宮本(池松)、ダサくてダサくて、チョーかっけーーー‼️
クッサすぎるセリフの中に、ガチでふるえる言葉がいくつもあったぞ。
大声張り上げたオーバーアクションとオーバーリアクションとはいえ、ドタバタ喜劇や浪花節とは似て非なり。
だってどんなに池松がバカやっても、蒼井優は怒り狂ったり号泣したり、ドスきかしたり呆れ果てたり、うれし泣きしたり至福の笑顔をしたり、そんだけ動かしてんだってことだ、ココロを!

でもって、エンディング曲が宮本浩次(エレファント・カシマシ)だ。
あー、コーフンがおさまらねえ。

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かといって、原作マンガを読みたいとはまったく思わない。
絵や作風が好みじゃないから。
むしろ嫌いなタイプなので、まるで読む気にならないのだ。
その点では『ヒミズ』とおなじだ。
映画がこれだけ泥臭いのであれば、漫画はもっとなんだろうと想像する。
でも、普通は映画化によってグレードダウンするはずが、役者の演技でここまで泥臭さが行き切っちゃってるんであれば、たぶん映画表現としてはここがテッペンなんだろうということも想像がつく。

女優は脱げば、あるいは汚れ役をやれば評価が上がるということも実際は否定できないし、男優だろうが女優だろうが、派手な役ほど演技も(演出も)しやすいと思われがちだ。

でも問題は、オーバーな表現で、伝わってくるものがどれだけあるのか、そこにウソは見えるのか、ということだ。

蒼井優池松壮亮はオーバーな演技を強いられながらも、監督の「伝えたい」という気迫の演出と役者二人の「伝えるぞこのやろう」という気魄が見事にシンクロした場面で、結果、ビリビリと何かが伝わってくるのだ波動砲のように。

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ヤスコ役は、ここまで感情をほとばしらせながらなおかつナイーブな気持ちの泡立ちをシュアに表現できるのは蒼井優をおいてほかにいないだろう。
あらためて女優として面白いと見直した。

ラスト近くのクライマックスで、宮本がヤスコに満身創痍で結果を報告に来るシーンはこの映画の真骨頂だ。
バカな宮本は、愛想を尽かして怒るヤスコに、満面の笑みで「ほめてもらいたかったから」と言う。
そのウソのない100%の言葉と顔面に、おいらはシビレたんだよ。

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最初から最後まで痛くてイタくてしょうがない映画だけど、最後の一瞬まで見逃さないでほしい。

★★★★



『エイス・グレード 世界でいちばんクールな君へ』
ボー・バーナム
監督
Eighth Grade 2018年 米 1時間33分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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僕の中学時代も暗黒だったが、僕の娘もそうだったらしい。
思い出したくもない黒歴史ではあったが、重要な意味を持つ濃密な時間だったこともたしかだ。

主人公は8th gradeつまり8年生。
日本で言えば中2だが、あちらではもうすぐ卒業して高校生。

猫背でニキビ顔でぽっちゃり型のケイラ(エルシー・フィッシャー)は、学校では無口で仲間に入れずイケてない存在。
僕らから見れば、まったくフツウにかわいいのだが、空気読み至上主義のスクール・カーストの中ではシビアな位置につけている。
イジメられもしないが、ほぼ無視に近い状態の中で単独行動を強いられている。

そんなケイラは、PC画面(観客正面)に向かって
「Hey, Guys !」
「グッチ~!」
と明るく元気に語りかける。
YouTubeで同世代へ「自分らしくあるために」などのアドバイス番組を配信しているのだ。
アドバイスと言っても、自分ができてないからこそ、自分に言い聞かせるようにカメラの正面に向かって発信している。
イタイながらも、イタイケにポジティブになり切ろうとするケイラが、なんとも切なく愛おしい。

お父さんなら尚更100倍だ。
登場するお父さんはなんとも頼りない。
食事中にずっとスマホをいじってる娘に対しても注意できない。
でもケイラのことが心配で心配で仕方がない。
それなりに見守っては、ウザがられ、しばしば信頼を失墜させる。

「無口ナンバー1」に選ばれてしまいながらも、ふてくされずにアクションを起こすケイラはえらい。
「ふだんしないことをあえてやってみよう!」などの、自分発のリア充YouTubeや、「なりたい自分になる」目標を書いたTo Do Listに従って、冴えないながらも、時にとんでもなく大胆な試みに一歩踏み出したりする。
「彼氏を作る」ためにどんなきわどいことを実行するのかは、見てのお楽しみ!

中学生は要するに、自分、自我、自己承認欲求だ。
自意識過剰なのはみな同じ。
その中で自分がどう生き抜くかは、その後の人生のサバイバル術になるのもまた確か。

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終盤、父は娘とさしで語る。
「お母さんが出て行ってしまったとき、お父さんは怖かったんだ。お前をちゃんと育てられるかって」
「でも、でも・・・・・」
そこからの語りはパパさん必涙だから、ぜひスクリーンで見てもらいたい!

父は娘が頑張っていることをわかっていたし、娘も父がちゃんと見てくれていることがわかっていた。
ただし、14歳の少女だ。
父親に見られることやまともな会話をすることさえも、眼中にない、あるいは眼中にないポーズをしたい。

ダサいけど、愛おしい。
それは、お互いさまだ。
愛おしいから、ダサくない。
それも、わかってる。

それを確認できた時、それだけで十分満ち足りたのだった。

この世界の誰よりも、娘が可愛くてしかたがない。
そこに、ウソは全くない。
この映画は、実は半分は、世のお父さんを泣かせるための、お父さんにこそ見てもらうための映画だったのだ。

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監督ボー・バーナムはユーチューバーとしてブレイクし、ミュージシャン、コメディアン、俳優としてキャリアを積んできて今回監督デビュー。
自らの体験を元に脚本から書いたという。
男性だから、父親からの視点で作ったのかと思ったのだが、まだ28歳。
中学校の体験を書いたにしては、女子や父親の心理をみごとに描写できていてびっくり。

★★★★



『ある船頭の話』
オダギリ ジョー
監督
2019年 日本 2時間17分
キノシネマみなとみらい
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冒頭の水面の美しさからして尋常ではなかった。

邦画特有の暗い画面から完全に逸脱したコントラストと色彩。

雄大な自然を存分に映す。
ゆっくり流れながら煌めく波光の群れは黄金色にさえ見え、真夏の日射しに河岸の岩肌は苔色と白色に縁どられ眩しく映えている。

言葉を失うほどに目を奪われ、そのままいつまでも見ていたかった。

自然そのままというよりは、地上(ここ)ではない涅槃のような、一瞬の幻かと思わせる場所。
不思議なほど鮮やかな光の色彩空間は、監督オダギリジョーのこだわり以上に、クリストファー・ドイルの撮影によるマジカルな手腕だろう。


灼けつくような日射しに、けたたましい蝉の絶唱、それらが山々の緑とゆったりとした川の波紋に溶けていく。

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新潟県の山深い阿賀地区。
阿賀野川の中流の、ある一点が舞台。
そこに小さな木舟を渡す老人ひとり。
川の彼岸と此岸を行き来する人々。
カメラはそこしか映さない。
人が住む場所も生活も見せない。

その後第二水俣病にみまわれたこの川の、災厄に苛まれる100年くらい前の話。
(終盤に福島・奥会津の霧幻峡のロケも入れている)

きわめて限定されたこの舞台設定は、『ボーダレス ぼくの船の国境線』『とうもろこしの島』と似ている。

老人と、若者と、流れ着いた謎の少女。
川のほとりの老人の掘立て小屋に、赤い服の少女は住みつく。
その状況設定は、『祖谷物語―おくのひと―』田中泯が落ちてきた赤子を拾い、育った武田梨奈と暮らし、落人の若者がやってくる設定と似ている。

かぐや姫や桃太郎をも連想させるシンプルでシンボリックでミニマルな設定は、なにかとこちらのイマジネーションを膨らませる。

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終盤は季節が一転して、厳寒の雪深い情景となる。

文明は開化し、橋ができれば渡し船も無用となる。
便利と引き換えに、蛍も消える。
人も何かを失い、壊れていく。

そんなメッセージはあえて説明するまでもなく自明のことだ。
あるいは諸行無常。
善悪の彼岸。
ニンゲンの業。
色即是空。

絶世の美景は、皮膜を剥がしたところにある悲劇によって裏打ちされる。
いくつもの陰翳が見え隠れするからこその美しさだ。
桜の木の下に死体が埋まっているように。

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言葉や情報の少ないエンプティな空間に、いろんな意味や因果が飽和してくる。

そこに、水、陽光、緑、雪が彩り、そして炎が染める。
自然元素が息づく画面構成は万物を流転させ、ニンゲンの意味ありげな浮世の価値も追いやってしまう。

ラストの老人と娘の一見悲愴な光景が、圧巻の感動を催させるのは、凄惨な現実から彼岸にも此岸にも逃げることができず、ただ下流へと漕ぎ出すしかなかった宿命だけではない。
水墨画のような夢幻の氷の世界をバックに降りしきる雪と突如現れた燃え盛る炎が、宗教的なまでに厳粛な川の様相をスクリーンに印画・刻印していたからだ。
その遠景画の鮮烈さと充実感は、言葉や意味を超えた物語性を湧出していたと言うほかない。
(ラストショットはタルコフスキーに匹敵。『バーニング』とも類似。)

「今年いちばんの美しい映画」が、ついに7本目になってしまった。
(『バーニング』『ローマ』『私の20世紀』『COLD WAR』『パラダイス・ネクスト』『聖なる泉の少女』につづき。)

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柄本明は期待通りの名演。
含蓄ある存在感は、故・樹木希林のレベルに近づいている。

しかし不思議なのは、シナリオになぜあえて意味ありげな謎めいたファクターを入れたのだろう。
ラストのセンセーショナルな展開には、少女の神秘性や惨殺事件の伏線が必要だったのはわかるが、トイチ(柄本)に関しては、彼のトラウマと思われる白日夢、亡霊のような少年などは必要だったのだろうか。
不吉で思わせぶりなサスペンス要素にすぎないのか。

ここで描かれたのは最後まで、浮世ならぬトイチの虚実を往復する半分妄想の世界だったのかもしれない。

でも、そういった裏物語はあえて作ろうとしなくても、この映画は十分に自然の要素と空間が物語っているのである。

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そしてはかないものは朽ち、朽ちるものは燃え落ち、落ちたものは流れるのだ。

★★★★



『見えない目撃者』
森淳一
監督
2019年 日本 2時間8分
丸の内TOEI
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心臓が弱い人は見るのをおよしなさいとキッパリと言う。
そのくらいサスペンス好きには最後までハラハラヒヤヒヤさせてくれるし、ストーリー的にも飽きさせないことは確かだ。

ただし、サスペンス好きの色眼鏡をとれば、節操がなかった。
なんでもかんでも怖がらせればいいというものではない。
それではホラーになってしまう。

肝心の人物が、死に過ぎだったり。
警察ならそんなことはしないだろうとか、警察なしのその状況で一般人がそんなことしないだろう、とかいうことが多い。
そして犯人が過度なサイコパス

すべてが過剰で、抑制がない。

主役の視覚障碍者(吉岡里帆)が知力・推理力が高いのはいいにしても、聴覚・嗅覚・第六感などの能力が高すぎ。
一方で、警察の推理力は低すぎ、固定観念が強すぎで、吉岡里帆の能力に比べるとなおさらマヌケでイライラする。

物語の骨格はまずまずとしても、正確性に欠けると説得力がパーになる。

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韓国映画『ブラインド』(2011)が原作で、それを中国版(2015)に続き日本でリメイクした作品。
韓国製の「過剰さ」を受け継いでしまったようだ。

★★★



『天気の子』
新海誠
監督
2019年 日本 1時間54分
109シネマズ川崎
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もはや背景は絵と写真の区別さえ無化して、アニメの概念を開拓してきた世界のトップリーダー新海誠は、今回も期待にたがわずお家芸の光と水の魔術師としての役割を存分に発揮している。

なかでも「水の跳ね方」の描写は写実的すぎて、実写を合成したものでもよいのでは?という禁断の疑問さえ湧いてくる。

一方で、今作は全編雨の情景が続くので、霧や靄がずっと空間を占めていて、スクリーン全体がもわっとした湿気に包まれていた。
つまり、あの新海マジックの鮮やかな青空と雲、光線と影のコントラストが鳴りを潜めている時間が長かった。
そのせいなのか、同じ雨の情景が印象的な『言の葉の庭』よりもみずみずしさが物足りなかったように感じたのは僕だけなのか。
それとも、もう見慣れてしまったのか。

でも、花火の打ちあがる中をすり抜けてゆく空中遊泳を視覚体験できたのはうれしかった。

また、背景に比して前面にあるキャラクターが平板なのは、アニメが開発してきた技法ではあるが、新海作品の背景の超絶さに到っては普段感じない人物描写との落差を意識してしまう。
それはいいとしても、気になるのはあのネコの動きと造形。
あまりにも現実的でない、いいかげんな描写(スケッチ)はどうにかならなかったのだろうか。

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新海誠の映画には物語的には特筆すべきものは見当たらないので期待はしていないが、前作『君の名は。』があまりにも筋が錯綜していたために、今回はシンプルで落ち着いて楽しめてよかった。
サントラもRADWIMPSが始終ボーカルでじゃますることなく、ほどほどだったので助かった。

「晴れ女」という意味では、俗に言われるような「あんたが来るときはいっつも晴れてくれるわー」的なテキトーな晴れ女ではなく、「真の晴れ女」を主題にしたという点で称賛したい。
「天気を変える」ということの大それたスピリチュアリズムを批評的に語っているようにも見える。
なおかつ、俗世間の身勝手な期待に対する一人の「人柱」という象徴的な構図は、現代社会への痛烈な風刺になっていて、この映画の肝と言える。

そして何といっても、この地球の異常気象という今ここにある現実世界の危機において、このスクリーンの中の出来事は単なる「絵空事」として境界線を引くことはできない。
だいぶ前から僕らはこの作品とシンクロし、同じ空気の気象の流れのなかで生きてきた。
ましてや、この9月の台風災害の直後で、生々しい。
この映画はこのSF的な現実の中のひとつのサンプルに過ぎず、寝ても覚めてもこのプレパラートから逃れることはできないのかもしれない。

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この映画を見たあと、一晩中雨が強く降り、朝になった途端にきれいに晴れた。
晴れ女のヒナが天に召されてしまったのだと、目を覚ましながら自然とものがなしく思えた。

雨の情景が頭の中で十分すぎるほど湿り気をもたせていたのだ。

これはアフターシネマの拡張現実だった。

★★★☆



『アンナ(1966)』
ピエール・コラルニック
監督
Anna 1966年 仏 1時間26分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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パリの空気がこんなにもみずみずしいなんて。

言わずと知れたゴダールのミューズの一人、アンナ・カリーナの絶頂期。
『気狂いピエロ』の2年後、PV的に作られたミュージカル風のTV映画。

フランス国営放送が初のカラー作品として放送した記念碑的作品を、4Kデジタルリマスターして復活。

内容的には物足りないが、そういうことであれば納得。
この新鮮な画質は当時を知らない人々にも憧れを与えるファンタジー映画として余りあるヴァリューを誇っている。

ビニール素材をやたらと使った衣装や色彩はポップでキッチュ。
全編スタジオ外のロケ撮影。
ヌーヴェル・ヴァーグが肌で感じられて、シンプルに楽しい。

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マリアンヌ・フェイスフルも絶頂期のあやういコケティッシュさで唄う。
楽曲はすべてセルジュ・ゲーンズブールで、ハンパにやらしい視線で出演もする。
無駄なほど二枚目のジャン・クロード・ブリアリはアンナの幻を追いかけるだけの主演。

★★☆





サタンタンゴ/沖縄列島/アイム・ノット・ゼア

2019年9月16日~23日

モノクロばかり見て、目を白黒。



『サタンタンゴ』
タル・ベーラ
監督
Satantango 1994年 ハンガリー・独・スイス 7時間18分
イメージフォーラム
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どんなに雨が降っても傘をささない人たちが、無闇矢鱈と濡れている。

一か所も舗装されてない泥道をどこまでもぬかるみながら歩く男たちの後ろ姿をどこまでもカメラは追いかける。

遮るもののない広大な荒野は霧にけぶり、果てしない地平線はあるはずなのに曖昧で見えない。

土地も時代も人物も何も特定されないそこには、あまりにも普遍的な抑圧と迎合とコンフォルミストたちがいた。

弱き者はより弱き者を弾圧し、その理由を知らぬまま死ぬ。

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前半約4時間半のうち、物語が動くのは猫と少女の章。
家族にネグレクトされた少女は飼い猫に「強さ」を誇示し、虐待し、ふたりで心中する。

映画の画力は、それが意味を持ちうる以前に、瞬間的に脳を打つ、目を撃つ、鬱を討つ。

スクリーンに人物が動けば、それを観る者は見る以上に見せつけられ、人物は動き以上の価値を持とうとする。

高貴なモノクロは、ときに痛快なヒーロー活劇のように躍動して魅せる。

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後半、ある男が村に帰還すると物語は急展開し、テンションが高まる。
彼は救世主なのか、不穏分子なのか?
という疑問は鼓動を高鳴らせる。
理知的な物言いとふるまいに、カリスマ的魅力が香る。

村人は信じるのか、信じないのか。
最後までサスペンションは持続する。


紹介記事よりもう少しネタを明かせば、この背景には東欧社会の、<社会主義/資本主義>のジレンマがある。
冷戦が終わっても終わらなくても、ファシズムに対するレジスタンスの疲弊はつづく。
その大きな失望と諦念が、庶民を覆い尽くしている。

農場は解散、従事者は1年分の給金と退職金を手にしていたが、先の見えない状況で彼らは堕落し倦んでいた。

そんななかで、2年前に「労働忌避者」というレッテルを貼られて警察に連行された男が帰ってくる。
このイリミアーシュという人物の象徴的役割は大きい。
ドキッとしたあとにズッシリとずっと尾を引く大きさと重さだ。

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上からのファシズム、下からのファシズム。
それは、どこからでもやってくる。
人々は、気づいていた。

どこの国でも、それはやってくる。
気がつけば、廊下の奥に立っていた。
タル・ベーラの意図していることは、容易に汲み取れるだろう。
僕らの国でも、見渡せばわかることだ。


タル・ベーラに心酔したという監督たちも多い。
そうか、言われてみればガス・ヴァン・サント『エレファント』はカメラが少年の背中をずっと追いかけた。
そういえばフー・ボー『象は静かに座っている』ではやはりずっと雨か曇りで、人々の歩く姿を追い回し、説明を排した長回しで大きな円環をつくっていた。

タル・ベーラの映画がタルコフスキーに似ているとすれば、水や長回しもそうだが、何よりも切実なレジスタンスであり、哲学的までに寡黙なプロテストであり、明瞭な黙示録だということだ。

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それにしても、不必要な長回しが多くないか。
たとえばダンスシーンは15分くらいあったと思うが、半分あれば十分。
酩酊の医師の迷走に1章45分くらいを使っているが、15分で足りるでしょう。
あまりに各シーンのショットに集中力を使わせられると、全体の物語の構成やテーマを理解するのに遠回りしなくてはいけないし、疲れる。

『倫敦から来た男』の長いズームイン/アウトは生理的に耐えがたく、それよりは今回はいいけれども。
過度なものは、逆にあざとさが生まれるのでねえ。

『ニーチェの馬』はその年のたぴおかベスト1に選出したが、2時間半であそこまで感動させられたのだし。
『象は静かに座っている』も4時間弱で贅沢な群像劇に仕上がっていた。


それでも、「映画とは何か?」とボーダーを揺るがしつつ大きな問いかけをしてくる作品には、つねに全面支持をして高評価を与えたい。

★★★★



『沖縄列島』
東陽一
監督
1969年 日 1時間30分 ドキュメンタリー
ラピュタ阿佐ヶ谷
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また見つけた。
何を。
返還前の沖縄の日常を撮ったドキュメントフィルムを。

1968年10月から12月の3カ月間。
米軍占領下、返還まであと3年半。
時はベトナム戦争真っ盛り。

制約の多い現地で、果敢に撮影したのは、当時34歳の東陽一監督。
なんと長編第一作はこのノンフィクションだった。
オトナのエロスを描くのが得意という印象があっただけに、この硬派なデビューは意外だ。

単なる記録資料映像や報道素材、あるいは米政権側の撮った映像なら山ほどあるだろうが、個人が個人の日常を撮るという意図で撮られたものは稀有で貴重。


コカ・コーラのビンを砕いては溶鉱炉に入れる作業を映すシーンから始まる。
「本土がいくら繁栄してるったって、沖縄をアメリカに売り払ったんだから。娘を売り払った親みたいなことして、恥ずかしくないのか」
と工場の男の声。

基地の周りで米兵相手のバーとホステスたちがひしめく。

基地反対運動に反対するデモの列。

「床屋になりたいの」と将来の夢を語る少女。

宮古島のサトウキビ農家、石垣島のパイナップル農家が立ち行かない。

台湾から出稼ぎにきてパイナップル工場で立ち働く若い女性たちの笑顔。

「混血児」の多い小学校の運動会。

ガマから奇跡的に助かって生き延びた老婆も語る。


轟音の巨体・B52は沖縄の基地から戦地へ、次々と出撃。

※折も折、東アジア最大の米軍基地・嘉手納飛行場でB52の離陸失敗・墜落・炎上事故が起きた。近くの核弾頭格納庫に激突スレスレで、核爆発の可能性さえあったことがあとでわかった。映画ではB52反対運動が映されていたが、事故についての説明はなかったように記憶している。
この2年後、嘉手納基地の門前町でコザ暴動が勃発。核や化学兵器の存在は誰もが知るところとなっていた。

68年当時は、やはり現地で取材・撮影して映画にするには検閲や障害があったのだろうか。


原子力潜水艦の船体外部を清掃する潜水夫は、放射能漏れで被曝している可能性が指摘される。しかし十分な検査ができる本土の病院に行くことは許されず、島内の米軍関係病院での診察のみ受けさせられ、結果も曖昧なまま放置されている。
潜水夫は取材に黙して語らず、子供たちとの朝食シーンなどは撮らせるが、日々の暮らしのために今日も潜水艦のある港に出かけていく。


伊江島の基地として接収された土地を取り返そうと非暴力不服従の座り込み運動を続ける老人―――すなわち阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)氏が登場。
本島での「乞食行進」を始めて「島ぐるみ闘争」に影響を与え、さらになお伊江島の「団結道場」を拠点に闘争を続ける。彼の語りがこれだけしっかり収められた映像は他では見たことがない。

ロケ中に初の選挙で行政主席として当選し、復帰後は知事となった屋良朝苗氏が語る。
基地内の労働運動に尽力した上原康助氏も語る。
瀬長亀次郎氏の映像はむしろほんの一瞬。

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戦闘機の轟音と演習場の射撃音と怒りのデモとマイクで拡声される演説と武器兵器を作る工場の機械音と街頭の米兵にまとわりつく嬌声と子供たちの歓声とで騒々しい。
小さな列島の広い範囲から採取した乱反射する断片たち。

それは寄せ集めのように見えて、きわめてメッセージ色が強い。

ナレーションや字幕で問題意識を煮沸させる監督の疼きと義憤が感じられる。




『アイム・ノット・ゼア』
トッド・ヘインズ
監督
I'm Not There 2007年 2時間16分 米 録画
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ったくしてやられたぜ。

いけすかないほど粋でスカしてやがる。

ハメられたって言ってもいい。

予告編を見ずに、全く予備知識なしで見たらさ。


「ウディ・ガスリーだ」って名乗る黒人の少年がボブ・ディランだっていうんだから(笑)

主役が6人いて、それが全部ディランだって。
そりゃあまあ途中から気づき始めたけど、エンドロールで、・・・まさかね。

まさか、1行目に
「ケイト・ブランシェット」
って名前があるとは、
「?」
だってば。

え??
出てた?
どこに?

録画だから、巻き戻せた。
「!」
静かな衝撃の笑みを浮かべるオレ。

イケすぎてやがるぜ、ベイビー、ケイト、クール、ブランシェット、ヒップ、&ビューティホー!
たしかに、どう見ても彼女だよ。
まちがいない。
しかしわかんないもんだなー。
ずいぶんキャシャなヤサオトコだとは思ったさ。
そりゃ。

さてもぜいたくな。
スターのポエティックな競演。

ヒース・レジャー!
クリスチャン・ベール!
リチャード・ギア!
シャルロット・ゲーンズブール!
ジュリアン・ムーア!
ミシェル・ウィリアムズがココだって?!
メイクでわかんなかったよ。

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事前にトレイラーを見れば一目瞭然だったんだな。
見ないとずいぶんカオスだったぜよ、トッド・ヘインズさん。

それでもそれでも、このアーティスティックなまでにスタイリッシュでポエティックなイメージの波状攻撃に、右脳と左脳は衝突しあってバチバチしてた。

ディランさん、あなたってそういう人なのね。

★★★☆



『野いちご』 イングマール・ベルイマン監督
Smultronstallet 1957年 1時間29分 スウェーデン ベルリン金熊賞 録画
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★★★☆

おしえて!ドクター・ルース/ザ・パシフィック

2019年9月11日~16日


『おしえて! ドクター・ルース』
ライアン・ホワイト
監督
Ask Dr.Ruth 2019年 米 1時間40分 ドキュ
新宿ピカデリー
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現在91歳の小さくて元気なおばあちゃんは、セックスの相談役。
アメリカで活躍してきた超人気者だというけど、僕は残念ながら知らなかった。
NYにいた当時、相談したかったな。

映画は、性のお悩みをQ&Aでケース・スタディするタイプのものではなく、ルースばあちゃんの人となりを追いかける。
分厚い人物史を記録映像で紹介する硬さはまるでなく、深刻な部分はアニメをふんだんに使い、音楽も笑いも存分にとりいれたポップなエンターテインメントになっているのは、ルース本人がエンターテイナーであるがゆえの必然だ。

気さくな笑顔と快活さの陰に秘められた、ドイツ生まれのユダヤ人の悲劇がひもとかれていく。
両親をホロコーストで亡くし、戦後イスラエルに移住する。
ドイツ名だと憎まれるとのことで改名し、10代からなんとスナイパーとして兵役に加わる。

銃器のコレクションを懐かしそうに見入るルースには驚いたけれども、悲嘆にくれた当時のルースの内心は僕らには想像しようもない。
両親が亡くなった事実だけ知らされた少女時代。
そしてつい最近やっとその気になって、いつどこでどうやって亡くなったか調べた結果、曖昧な事実しか残されていないことを知る。
「ドイツ系ユダヤ人は人前では泣かないの。あとで泣くわ」
とポツリ。

140cmの小さな身体からは、
「悲劇を体験した私たちには、人を幸せにする義務があるのよ」
と偉大な言動と行動をみなぎらせる。

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それでいて、「政治は語らない」と断言するのは意外。
共和党か民主党か、という直接的なことは言わないものの、彼女の活動自体が十分すぎるほど政治的であることは、映画内でも言われていた通り、誰の目にも明らかだ。
「政治的なことで相談相手と距離をつくってしまうのがイヤなの」
というが、「中絶反対に断固反対」することは「反共和党」だし、赤裸々な性解放論のスピーチには、激高した聴衆が壇上に上がってきたりするなど、主張に相容れない人をたくさん生みだしている。

娘や孫との会話で、
「おばあちゃんはフェミニストでしょ?」
と訊かれて、断固として
「NO.私はフェミニストじゃないわ」
と答えるのも面白い。
追及されて、最終的に「それをフェミニストと呼ぶのよ」とフェミニストである孫たちに結論づけられて、笑っている。

わかる気がする。
ジェンダーが平等であること、ノーマルやアブノーマルなんてないこと、性についてオープンであること、AIDSを差別しないこと、などは、政治的な立場を云々する以前の、もっとフラットな問題だからだ。

真理はひとつ。
「大人がお互いに合意してするならベッドで何をしてもよい。キッチンでも床でも(笑)」

様々な場面で見知らぬ人から声をかけられ、
「おかげで救われたんです」
「自殺しなくて済んだ。命の恩人です」
と感謝される。

そんな彼女はニコニコして、
「もう食べた?」「これ食べる?」
と口癖のように、会う人に気を遣って声をかける。

一度死んだつもりの戦争体験者が、その後どう人生を生きるか。
このキャラクターあってこその功績だが、何度も生き地獄を歩んできた末の、このキャラクターであることに、また感動する。

父親から生前、「教育」「知識」の大切さを強く言われていた通り、意地でも学問を追求し、当時珍しかった「シングルマザー」になりながらも、全身で万人に説いてフロンティアを歩く姿は、旧約聖書の救世主さながらだ。

91歳の今も予定表はぎっしり埋まっている。

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僕としては、現代の性の悩み相談を問答するケーススタディや難問の提示をしてくれるものだと期待していたので、その点では残念。




『ザ・パシフィック』
The Pacific 2010年 米
制作 HBO
Amazon プライム・ビデオ
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S.スピルバーグ、トム・ハンクスらが製作総指揮した10回シリーズのTVドラマ。
200億円の巨費をかけて、太平洋戦争を描いたアメリカ作品。

米海兵隊の南太平洋~硫黄島・沖縄戦線。
つまり敵は日本軍=ジャップである。

世界大戦の映画のほとんどはヨーロッパ戦線だ。
日本を敵にしたアメリカの戦争映画は意外と少ない。

ざっと調べてみると、最近では『シン・レッド・ライン』『ハクソー・リッジ』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』ぐらい。
昔をさかのぼっても、『地上より永遠に』(1953)、『トラ・トラ・トラ!』(1970)、『ミッドウェイ』(1976)くらいしかない。

その意味で、このTVドラマはとりわけ日本人にとって貴重。
「ジャップ」という呼称が一般名称として飛び交い、「ヒロヒト」の元に「神の赤子」として狂信徒たちが特攻する「神国日本」のおぞましさや、それに対する米兵たちの驚愕も描かれている。

もちろん、スピルバーグだけに日本兵をモンスターや亡者のようにデフォルメするような演出は皆無であるし、戦争によって気がふれていくという病理、殺人鬼に変貌していく必然は米兵も同様であることが克明に描かれている。

原作は、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』ロバート・レッキー『南太平洋戦記―ガダルカナルからペリリューへ』
すなわち、ドラマの主役のうちの二人によって書かれたノンフィクションを中心にまとめられた実録もの。
登場人物の名前はすべてそのままで、最終話のエンディングには後日譚が紹介される。

すべて海兵隊のなかの話であり、「海兵隊」というものが陸・海・空軍とちがってどういう役割と特徴を持ったものなのかが自ずとわかる。
「ならず者集団」だという固定観念も一旦捨てさせられる。

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なんといっても、戦場をリアルに再現した精細な映像技術は見もの。
ただし、すでに『プライベート・ライアン』が高度なCG映像で1998年に世界を驚嘆させているだけに、その10年後のものとしては、それと「同等」の高いレベルという言い方で褒めるしかない。

実話を元にしているということもあり、いわゆる映画的な奥行きや深さと比べると、人間関係とくに男女の物語は浅く、TVの限界が感じられる。
監督は各回持ち回り制になっていて、均質さが求められてしまう。

たとえばテレンス・マリック監督による『シン・レッド・ライン』のように、人間の愚かで理不尽な行いに対する嘆きや問いかけ、神の視点や哲学的洞察を一貫して追究するほどの執拗さは持ちえない。

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日本から見た太平洋戦争ものの映画では、日本軍特有の「バンザイ」特攻精神や、食料なしで戦闘続行を強いられる絶対服従や、戦闘より飢餓で死ぬ実態や、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓による集団自決や、捕虜や女・子供を含む民間人までも虐殺する蛮行が描かれてきた。

その点、この米映画が描く戦場では、米軍の狂気は狂気でも、「ジャップだから殺すんだ!」と叫びながらも、民間人を一人殺しただけで口論になる程度の一線は保たれている。

上官には歯向かうこともあるし、腹はへっていても飢餓で死ぬほどではなく時折そこそこの食事がふるまわれる。
その辺はやはり日本軍とは優に差がある。
小綺麗な看護婦や綺麗すぎる女軍曹までいる。
主役のひとりはその美人サージェントと恋仲になって戦地で結婚しちゃうんだから、なんて余裕なんだ(笑)

ただし、あらためて気づくことがある。
主人公が米兵で、敵がジャップなら、日本兵が現れるとつい「撃て!」と反射的に反応してしまう。
恐るべきニンゲンの本能。
だからサバゲーとかシミュレーションゲームは嫌なんだ。

全10編を通していちばんのクライマックスは第9章の沖縄編だろう。
米軍にとっても3か月近くの沖縄戦は永遠に続くかと思われたほど長く苛酷なものだったらしい。
本土の捨て石になり、文字通り捨て身で向かってくる民間人たちの鬼気迫る様相を知るには、この9章を見るだけでも価値がある。

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のちに『ボヘミアン・ラプソディ』で米アカデミー賞主演男優賞を受賞することになるラミ・マレックが、部隊の主たる一員として粗野な役柄で味を出している。

公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/thepacific/mainsite/

★★★☆

ドッグマン/聖なる泉の少女/火口のふたり

2019年9月1日~8日

今年いちばんの殺伐と静謐と猥褻と。


『ドッグマン』
マッテオ・ガローネ
監督
Dogman 2018年 伊・仏 1時間43分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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得体が知れない。
迫力だけでグイグイ押し込んでくる。
「この映画がスゴイ!」と叫ばれるタイプ。

このマッシヴな圧力をどっちに逃がそうか、勘がつかめずに迷っているうちにさらに攻め込まれる。

からんでくるマッチョな男は不可解な異界人。
しかし、からまれる主人公は、何を考えどう感じているのか、尚更わからない。

さびれた風景がうすら寒い海辺の町。
工事が頓挫したらしい建設物の錆びついた脚の下、浜辺のように水たまりの多い殺伐とした吹きっさらしに商店が幾つか並び、その端に「ドッグマン」という犬のトリミングサロンがある。

店主マルチェロはねずみ男のような声と風貌の小男で、店内も殺風景だが、真面目に仕事をこなし、小学低学年くらいの娘とは仲がよく、二人で旅行に出るなど一見幸せな生活を送っている。

しかしシモーネという「友人」がやってくると瞬く間に反転する。
暴力とドラッグに溺れ、思考回路が極端に短い彼は、衝動のおもむくままに素行不良と破壊を繰り返す。
シモーネは本当にマルチェロの友達なのだろうか?

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シモーネは「ダチだよな?」と言って何かにつけマルチェロを利用しようとするが、マルチェロはいつでも初めは友達としてつき合おうとした結果、毎回裏切られたり後始末をつけさせられたりする。
弱みを握られているわけでもないのに、なぜかおどおどしながらつき合っている。
街では知られた厄介者で、近所でも「もうあいつは殺すしかない」と本気で考えられているにもかかわらず。

理不尽な圧に耐えたり耐えかねたりする主人公の心理が、こちらの理解を超えていて、なかなか感情移入ができない。
常識的に拒否するレベルから、その閾をいつのまにか超えていき、服従モードに入る。
積極的に服従するかのように見えるときもある。
ただ単に金の分け前がほしいという動機もある。

それにしてもなぜ、最愛の娘がいながら、その幸せを放棄してまでもシモーネとの関係を保とうとするのか。
しまいには、とんでもない自己犠牲までして奉仕する。
相互依存にしても度を超している。
そして、行き着くところ、マルチェロも暴力の果てに、狂気に走る。

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得体のしれない強力なものに翻弄されるということ。
それは、自ら服従するということと不可分なのか。
損得とは無関係なのか。

理解はできないが、人によってまったく異なった解釈やいろんな感情を生むだろう。

犬の吠える声と、表裏反転する劇伴が未開の地へ連れて行く。

ラストのマルチェロの、茫然としながらとる行動は、狂気に混じった自己承認欲求が浮き出てきて、切ない。
我に返ったのか返っていないのか悄然として宙を見つめる彼を、長回しで捉えるラストショットは、シモーネのモンスターぶりよりはるかに印象に残る。
カンヌ映画祭主演男優賞を受賞するのもうなずける。

★★★★



『聖なる泉の少女』
ザザ・ハルヴァシ
監督
Namme 2017年 グルジア・リトアニア 1時間31分
岩波ホール
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今年最も美しい映画のひとつ。
5本の指におさまらないが。
(これまでは『ローマ』『私の20世紀』『COLD WAR』『バーニング』『パラダイス・ネクスト』

グルジアの田舎に、靄がたちこめる。
山々に、荒野に、湖に。
雪の大地に、黒の衣装。
モノクロのトーンは水墨画のよう。

神々しくも美少女は白と黒のあいだに憂い、色に浮き立つ。
聖なる力を呼び起こす、静かなひとり謡い。
民族の快活な音楽とのコントラスト。

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極端に少ないセリフ。
映像が物語る自然と霊性。
家族が映されるだけで、懊悩が沁みてくる。

無駄な文明による自然破壊も、ワンショットで暗示する。
人間の短絡な合理性と、自然との不調和。

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グルジアの訴える命題と、映画の持つ美の使命が、一つの地平に重なる。
映像の美しさのみならず、映画の原型と理想が何たるかを物語ってくれているのだ。

★★★★☆



『火口のふたり』
荒井晴彦
監督・脚本
白石一文・原作
2019年 日本 1時間55分
アップリンク渋谷
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荒井晴彦の脚本は、いつだって昭和の香り。
今回も、劇伴が下田逸郎というのはなぜなんだ。
湿っぽくなりがちでかなわない。

ところが意外なほどあっけらかんと明るく、会話のユーモアで思わぬ笑いが客席から何度も起こるほど。
男女たった二人だけの演技は、女がやたらと過去を引っ張り出してくる時点では、荒井晴彦お得意の情念の世界への導きかと思われたが、進行するにつれて、きわめて“今”の男女が納得しやすいダイアログの応酬でできあがっていく。

瀧内公美演じるナオコが、強引に柄本佑演じるケンジとの肉体関係を再燃させる序盤では、ケンジも内心ナオコの心が摑み切れていなかったが、「火口」の写真が徐々に二人のあいだの過去の空洞を埋めていき、3.11の災害や「自衛隊」の存在も、二人の運命的な物語の上書きを補強する。

結果、元々「いとこ同士」という因縁や、もうすぐ結婚する新郎の存在が阻んでいた障壁さえ取っ払い、新たな運命共同体を結び合う。

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「子どもを産むために結婚すること」のどこがわるいのか。
「子供がいるのに離婚すること」のなにがいいのか。
自衛隊と結婚することは、大震災を他人事としてきた自分への罪滅ぼしか。
など、きわめて現代の宿痾をもつ男女が「今」の自分を見つめ直す。

その決定的なきっかけとなったのが、終盤に例の「火口」が物理的に再燃することだというのが面白い。
少し現実から浮かした設定のおかげで、関係性も浮き立ち始める。

セリフやPRで言われているように「身体の言い分に身をゆだねる」ことがテーマなのか。
僕には少し違うように思える。
結婚前の最後の5日間に、肉体的に親密になったことを通して、それぞれの過去を清算し現在を見つめ直し、むしろメンタル的に自然な方向へと舵を切ったということだろう。

今回、二人の間には、過去の背景に悲劇的な宿命や切実なメロドラマはない。
ふたりの関係性のドラマとしては深みに欠けるかもしれない。
でも、それが「情念の荒井」の看板ぽくなくて、3.11以後のドライな「今」の新しさと、スッキリとした後味を生んでいるとも言える。

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原作から脚本を立ち上げるにあたって、舞台を福岡から秋田へ移し、地元の盆踊りを取り入れた。
エロチックな白黒写真を刺激的にフィーチャーしたのも映画的にイケてる。
食べるシーンがセックスシーンと同じくらい多いのは、多分意識してる。
原作とのちがいは詳らかではないが、発想が面白い物語だ。

★★★★



■他の鑑賞作品■

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
クエンティン・タランティーノ監督
Once Upon a Time... in Hollywood 2019年 米 2時間41分
TOHOシネマズ川崎
★★★

『白い沈黙』
アトム・エゴイヤン監督
Captive 2014年 加 1時間52分 放送録画
★★★★

カメジロー2/ひろしま

2019年8月24~31日


『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
佐古忠彦
監督
2019年 日本 2時間8分 ドキュメンタリー
ユーロスペース

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カメジローのいた沖縄

沖縄にカメジローあり。
カメジローなくして沖縄の自治なし。

「不屈」
という言葉を体現している強い志のウチナンチュは多いが、みな瀬長亀次郎の手書きの「不屈」二文字を励みにしたのだろう。

勝つということは、あきらめないということ。
それが精神論ではなく、七転び八起き以上の排除と再起、その実行と継続によって実証されてきたことに、ウチナンチュは勿論、この映画を見る本土の人間も勇気づけられる。

沖縄史を描いたものにしては奇跡的に、観る者におのずと元気をもたらしてくれるのだ。

2年前の第1弾と比してとくべつ目新しい事実はないものの、カメジローの残した膨大な日記を今回すべて繙いた佐古監督は、当時の彼の頭の中で起きていた内面の事象を探り、掘り起こし、もうひとつの親近感あるカメジロー像を追うことに成功している。

全編を通して印象に残るのは、日記の手書きの字面と、彼のインタビューやスピーチの映像である。

たとえば米国民政府から那覇市長職を無理やり剥奪され刑務所に入れられた当時の、幼い娘や妻とのやりとりが、本人の走り書きした文字や親しい間柄の証言や手紙で明かされるが、どれも悲しみや怒りよりも誇りや親愛の情の方がこぼれてきて余りある。

とくに娘・千尋さんが父親としてのカメジローを思い返して語る表情もいい。
(彼女とは那覇の「不屈館」でお会いできますよ)

演説だけではなくて、カメジローが気さくに語る話しっぷりもまたいい。

亀次郎氏が晴れて衆議院議員として沖縄返還前の国会質問に立ち、佐藤首相に対して決然と詰め寄り、堂々と沖縄の血の涙を代弁する意気高らかな弁舌を聞いてほしい、見てほしい。前作よりも長いフッテージを目撃できる。


「基地を沖縄に存続させ、いざという時には核をも持ち込める」という密約を米国とかわしたうえでの「返還」だ。
そこを事前に追及するカメジローと、しらばっくれて「核なし、基地本土並み」を押し通す佐藤。
そんな裏切りの「政治屋」が、よくぞノーベル平和賞など獲ったものだ。
(ただし、甥の安倍晋三と人格的にちがうところは、亀次郎の著書『民族の怒り』『民族の悲劇』の2冊を「貸してくれ」と頼み、「あげます」と差し出されると、「佐藤の名を入れてサインを」と頼んだというエピソードだ。敵に敬意を抱くことができる人ではあったらしい)
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大袈裟太郎のいる沖縄

同じ日の昼間、新宿歌舞伎町の「ロックカフェ ロフト」にて、大袈裟太郎×石原岳 ライブトーク・イベントに参加してきた。
二人とも本土から沖縄に移住したミュージシャンかつ民主活動家で、大袈裟太郎氏は3~4年前から(石原岳氏は高江ヘリパッドの話が持ち上がる20数年前から)、基地反対運動や選挙活動に加わり、身体を張った取材や、映像やSNSを駆使して、現地からの生の情報を送り届けてくれている闘士たち。
僕にとっても大袈裟太郎のレポートや映像は、見えないところを見せてくれる「窓」として機能してくれている。
彼の直近の動向としては、香港の「反中送」デモにしばらく身を投じて取材・ネット投稿をつづけ、帰国したところ。

現在の沖縄の現実は、この3~4年だけでも日本政府からの横暴と弾圧、理不尽な憲法無視、選挙や住民投票の民意無視が当たり前のようになっている。
「オール沖縄」という、保守もリベラルも巻き込んだ共闘を実現してきた翁長知事亡きあと、共闘体制の地盤もやや不安定になりつつあるようだ。
元々「オール沖縄」には「高江」が含まれていない、などの矛盾も孕んでいる。

そんな中で市民側の立場で、遊撃手のように動き、犠打やダブルスチールを狙うようなサポートをする大袈裟太郎だが、「一歩踏み出すごとに地雷を踏む(笑)」(石原氏の弁)ようにネトウヨからの攻撃やリベラル同士の分断や内紛に巻き込まれて、いまどきの市民運動の難しさを極端な形で体現する体験レポートともなってしまっている。

いまやフェイクニュースの主戦場である沖縄では、今年あたりから選挙前は相手陣営のネット・デマ戦術に対抗するために、デマ元を発見ししだい根拠を見せて叩く、というカウンター戦術を若者たちが主導して組織立てた。
大袈裟氏も中心になり、明らかに結果につながっているようで、そこは希望が持てる。
選挙戦も市民運動も新たなフェイズに入っている。

精魂尽きてノイローゼ状態で台湾に目を向けた大袈裟氏は、石垣島からは台湾が目と鼻の先で、沖縄本島に行くよりも断然近いということをあらためて発見。
3万年前に台湾から渡ってきた日本人の祖先と同じルートを逆にたどることに図らずしてなった道程が面白い。
香港・台湾から、沖縄そして日本を臨み思いを馳せるとき、その視線は東アジアから見たアジアの交流の必然であり、国境のない海洋交易を憧れる眼差しではなかったかと勝手に共感する。
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カメジローのいない沖縄

それはさておき、カメジローが今の沖縄を見たらどう思うだろうか。

ある意味、何も変わっていない。
それどころか、基地の占有面積は本土に対して増加の一途だった。
もちろん、「不屈」の精神で辺野古新基地建設や高江ヘリパッド工事を命がけで阻もうとするウチナンチュには、「二度とこの島を戦場にしない」という堅い約束が貫かれてはいる。
しかし、若い世代の無関心、目の前の生活や利得にだけ向かう関心、という人々の状況は本土と五十歩百歩だ。

「Protester」を「暴徒」と訳す香港メディア。
火炎瓶を投げたのは実は市民に変装した警官だった。
韓国の「反アベ」を「反日」と訳す日本メディア。
辺野古ゲート前での座り込み活動も常に本土では「反乱分子」「暴徒」と見なされる。
運動のリーダーを見せしめ逮捕して不当拘束5カ月。

ゲート前で座り込みをする「仕事」には中国共産党から「日給と弁当が出る」という根も葉もないウワサが、高江住民のあいだでさえも信じ込まれていたという仰天のエピソードを、石原岳氏は語った。

国権濫用による住民買収と分断、抗議活動の弾圧。

「米国民政府が去っても、代わりに日本政府が支配・弾圧し、捨て駒にするだけ」とカメジローの予測していた通りになった。

大袈裟氏の香港のリアルタイムの映像を見て、こうも思う。

あれだけ警察が市民に対して発砲したり暴力を振るったりすることは、さすがに今の日本ではないな。
いやいやしかし、沖縄では戦後ずっと米国民政府や琉球政府によって続けられてきたのだし、今も米兵らによるレイプや軍機墜落は引きも切らない。

瀬長亀次郎や阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)という融和的な抵抗のカリスマがいなかったら、沖縄の抵抗運動は成功しなかっただろうが、今回のドキュメントフィルムを見てあらためて不思議に思う。
よく米軍に潰されなかったな。
カメジローはいつ暗殺されてもおかしくなかった。
でも、それをしたら収拾のつかない暴動に発展するだろうと米国民政府が判断したのだ。
コザ暴動が死者を出さずに済んだのも、民衆側に自制能力があったからと言われている。
亀次郎・阿波根らによる自律的運動メソッドが、最低限の秩序を守ったのではないか。

では、僕らはカリスマが必要なのだろうか。

いや、カメジローのような人物はもう出てこないだろう。
待っていても埒があかない。
それよりも、彼の名言を思い出そう。

「小異を捨てて大同につく」ではなく、
「小異を残して大同につく」のだ。

政治の世界では前者が普通のように言われてきたが、よく考えれば、一般的にはたとえば結婚とか、仲間内で何かをやろうとするときには後者が普通だ。

オール沖縄じゃなくても何でもいいけれど、国会会派でも野党連合でも、「小異」を捨てようとしてるから共闘できないのだろうから、小異を前提に話を進め、ぜひ大同団結してもらいたい。
そして市民レベルまで巻き込んで「オールジャパン」として日米地位協定の平等化や基地削減に取り組んでもらいたい。
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「瀬長亀次郎」という名前を知らずに、沖縄に遊び行くことは許されない。
僕も50代まで知らなかったが、だからこそ言うのである。
知る前と知ってからとでは、見える風景が違うのだから。
「知らない」ということは「罪」だと、何度も思い知るのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=TX2aK9tuxIk
予告編動画です。


   ~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~

過去長いあいだ、自主上映に任せられてきた幻の名作が、ついにNHK地上波で放映された。


『ひろしま』
関川秀雄
監督
1953年 日本 1時間44分
TV録画
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原爆投下後8年目で、
被爆者自らが多数ボランティアで出演し、
市民エキストラ8万8千人で広島の阿鼻叫喚の惨状をリアルに再現する、
という離れ業をやってのけた。

地獄絵図の記憶が強烈に残っている時期に、わざわざトラウマによるフラッシュバックを呼び起こすかのようなことをさせるのは、本来は公衆衛生上も教育上も勧められないことだろう。

しかし、製作は日教組だ。
長田新が編纂した文集「原爆の子」が原作だが、新藤兼人のシナリオを「リアルじゃない」という理由で拒否し、独自に企画。
結果、壮大な規模の、精緻な美術の、鬼気迫る演技の、世界に誇れる超大作となった。

同時に、一方でこの作品をとりまく日本映画界は、映画史的に恥ずべき汚点を残してしまった。
国内での配給・上映が拒否されるという事態になり、以降お蔵入りの幻の作品となってしまったのだ。
当時はすでにGHQの統治からは解放されていたものの、「反米色が濃い」と米国を気にして大手が自主規制したという。
国内外に原爆と為政者の非人道性をアピールする最良の手段を作り上げたにもかかわらず、自らその宝を日の当たらない水底に沈めてしまった。

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前半の大半を、被爆直後の再現シーンが占める。
観ているこちらは唖然として口が半開きになったままだ。

実際の撮影現場では、トラウマ発症の事態があったのかどうかは知るところではないが、被災した一般人がなぜここまでできたのか、不思議でしょうがない。
幼い子供から老人まで、あの光景を多くの人に知ってもらいたいという気迫がこもっていたとしか思えない。

映像技術的には今ならいくらでも精密にVR的に作ることはできるだろう。
しかし、体験者自らが生々しく脳裡に、肌の感触に残るできごとをありのままに再現することに勝る表現方法は、後にも先にもないだろう。

モノクロで、焦げた死屍累々がつづき、黒煙がたなびき、真っ黒な血と、墨のような雨と、暗灰色の川が流れている。
そこにまた人の群れが自ら入って沈みつつ流れていく。

もっと残酷でグロテスクなことは実際には勿論たくさんあったろう。
皮膚はもっと爛れてぶら下がっていただろうし、もっと焼け焦げていただろう。
月丘夢路は、顔だけはきれいなまま見せていた。でもこの広島出身のスター女優は松竹専属のところを会社に嘆願してノーギャラで出演したのだった。)
でも、さすがに作品として公開するには、描写できる限界はある。
その点でも漫画『はだしのゲン』の右に出るものはないのでは。
実写なら目を覆うシーンも、絵でふんだんに盛り込まれている。

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前半の被爆の惨状以外にも、注目すべきポイントは数多ある。

この惨状を前にしてもなお、原爆投下自体を隠そうとする。
玉音放送前の大本営だけではない。
戦後統治したGHQしかり。
原爆症治療を度外視して、人体実験としての米政府の特命を優先し、研究者レベルでも政治レベルでも長年色々なことが伏せられていた。

中学校の教室のシーンでは、戦後5年くらいなのに原爆症について知っている人が殆どおらず、担任の先生でさえ、よそから赴任してきたために知らなかった。
白血病を発症した生徒を、知らずにからかう生徒たち。

原爆症の級友を見舞いに行った病室で、仲間が集まって原爆の真相が書かれた書物を読む会を開いているシーンがある。
「あっさりと新兵器のモルモット実験に使われてしまった」
「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」
というセリフなども含め、こうしたアメリカの非人道的な部分が自主検閲で削除要求されたらしい。(製作者側は断固突っぱねて削除しなかったが)

被曝した人骨を掘り出して、米国人に売りに行くシーンもある。

両親を亡くし戦災孤児(浮浪児)となった少年が辿る苦難は、後半のメインストーリーとなっていて、ドラマとしてもしっかりできている。
子どもも大人も、素人にしては演技がうまかった。

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当時36歳のスター山田五十鈴も出演していて、けっこう汚れ役の覚悟で臨んでいる。
(彼女は夫・加藤嘉の影響で「人民女優」と呼ばれ、レッドパージにあっていた時期があった)

日教組がこのようなすばらしい作品を製作したという点は、再評価されるべきだと思う。
ただし、だからこそ忌避する人もいるだろうけれどもね。

★★★★☆

熱帯魚/ラブゴーゴー/永遠に僕のもの

台湾映画といえば、いまや胸キュン青春ドラマのメッカ。
その流れの先駆け的存在と銘打たれているのが、チェン・ユーシュン監督なのだそうだ。
その90年代の代表作2作品がデジタル・リストアされ、このたび劇場公開された。

80年代から90年代半ばまでは、ホウ・シャオシェンエドワード・ヤンツァイ・ミンリャンたちが「台湾ニューシネマ」と称されるムーブメントの中で社会派・芸術派作品を輩出したが、それが過渡期に入る頃、チェン・ユーシュン監督が出現。
それまでとは一線を画す親しみやすい作風で新風を吹かせたが、95~97年に2作品を残しただけで、なんと映画界から長い間姿を消してしまった。(20年後の2015年に『祝宴!シェフ』で復活)

すぐ後にイー・ツーイェン監督がピュアな思春期物語の金字塔『藍色夏恋』(02)を発表したが、やはりこの1作で沈黙してしまう。

二人ともCM制作に移ったらしいのだが、奇しくも台湾国産映画が10年間ほど低迷期に入った時期と重なる。

そして、『海角7号』(08)『あの頃、君を追いかけた』(11)あたりから、瑞々しさが売りの青春映画がブレイクしていく。
アイドル的ヒロインを起用した直系のルーツは『藍色夏恋』かもしれない。

チェン・ユーシュンの2作は、「親しみやすさ」という点では先駆者だろうが、作風のタッチはそれほど大衆向けの俗っぽさはなく、エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』風の落ち着いた編集センスが残っている。
そして、アイドル的主役を置いていない。
目立つのはむしろアマチュア感であり、素人を多用しているのも特徴。


『熱帯魚』
チェン・ユーシュン
監督
熱蔕魚 Tropical Fish 1995年 台湾 108分
K'sシネマ
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東アジアでは学歴社会化が急速に進んでいるらしいが、台湾のそれは四半世紀以上も前にここまで過熱しているのか??と、映画で見る限り椅子からズレ落ちそうになる。

それは風刺デフォルメなのか、真偽が不明な点がまた、すっトボケたB級のオフビート感として楽しめる。

高校受験が一生を左右する一大事とされる社会で中3生をやっている少年。
そういえば、始まりの設定はツァイ・ミンリャン監督の『青春神話』と同じだ。
しかし、そこからの破天荒で無軌道な道筋は、正反対のノリ。
青春神話の主人公が不機嫌にドロップアウトし、自らフラストレーションを街の暗部で吐き出すのに対し、この熱帯魚好きの夢見がちなツーチャン少年は、ボーっとしているうちに誘拐事件に巻き込まれてしまい、ずっとその後も受動的な巻き込まれ型の話が進行する。

裕福な一家の小学生を誘拐したものの身代金の受け取りがうまくいかない誘拐犯は、思わぬ事態でやむなくツーチャンを巻き添えに、台北から南部の田舎の実家に向けて逃避行する。実行犯自身も消極的で、人のよさばかりが目立ってしまう。田舎の家族たちは祭りのいかがわしい興行師たちで、自分たちも誘拐の共犯者になりながら、事件がTVで報道されると手を叩いて大喜びするお調子者ぶり。

一方で台北のツーチャンの両親はごく一般的な核家族で、受験を目の前にした誘拐事件に卒倒しそうな慌てぶり。それは当然なのだが、「命だけは助けて」という声があまり聞こえない。報道が過熱するにつれ、社会の声は国中を巻き込んで、
「受験に間に合うか」
という一点に集中するようになる。

のんびりした田舎の犯人側家族も、「そりゃ大変だ」とばかりに、受験用参考書を買ってツーチャンに勉強させる。少年も言われるままに勉強を始める。
身代金も大事だが、受験も大事だ。世界は少年の受験を中心に動いているのだが、当の本人は犯人家族や小学生との交流で、夏のリゾート気分だ。
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ここにツーチャンの純愛ストーリーがからむ。
犯人家族には、受験を諦めさせられた少し年上の少女が家事専業で働いていて、少女には少年や家族に対する複雑な思いが去来していた。
少年と少女の熱帯魚をめぐる手紙が切なさを刻み付ける。

結末は、犯人家族がヒーローになったりする波乱もいい味付けで、無事ハッピーエンドを迎えるのも見事な予定調和。

この「おもしろかなしずむ」は、北野武『菊次郎の夏』に通じるが、こちらの方が数段面白い。

★★★☆


『ラブゴーゴー』
チェン・ユーシュン
監督
愛情来了 Love Go Go 1997年 台湾 1時間55分
K'sシネマ
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「ダサい」が「ウザい」に変わる一歩手前で「カワイイ」になる。

登場人物はおしなべてショボくてショッパイ。
例外的な美女は不倫で泥沼にドボドボ、かわいい系イケメンは不器用で仕事がダメダメ。
なんといっても主役のケーキ職人はどこから見てもサエない容姿。
パン屋のお母ちゃんはお喋りで声張りすぎ。
若いオデブちゃんは食い意地はりすぎ。

しかし、誰もが恋をする。
懸命に恋をするときは、失敗しても笑えない。

主に3つのストーリーが、主役を替えて人物を交錯させながら、群像劇のように進行する。

ブサカワ・ケーキ職人が、TV画面から片想いの相手に愛の歌を歌い上げる終盤のシーンは、ダサさを極限まで引き上げたうえで、美女に泣き笑いさせる。
愚直に頑張った末の勝利だ。

小市民の恋は、かなしくもあたたかい。
恋じゃないところでは笑わせ、恋のところではホロリとさせる。
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手紙がここでも効果的に使われている。
文面を読み上げるときに何を映すかという点では、様々な技法が学べるはず。

ブサカワの二人、ケーキ職人の主役男性は裏方スタッフで、オデブちゃんはTV業界のマネージャー。
この大抜擢がいい味を出している。

★★★☆

※こんな記事を見つけました。
なかなかの選択ではないかと。

「見ておきたい台湾映画ベスト10」
https://www.taipeinavi.com/special/5047162



『永遠に僕のもの』
ルイス・オルテガ
監督
El Angel 2018年 アルゼンチン・スペイン 1時間55分
109シネマズ川崎
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鮮烈な主人公の破天荒なストーリー。
この主役のロレンソ・フェロ20歳を発掘した時点でこの映画は約束されたと言ってもいいだろう。

17歳の“黒い天使/紅い悪魔”カルリートス(ロレンソ・フェロ)はきわめて中性的でむしろアンドロジーナス的(両性的)容姿だが、実際年齢20歳のフェロの体型はもっちりのしもぶくれでむしろ幼児体型なのでセクシーなのかどうか僕にはまったくわからない。
だからではないだろうが、濡れ場が一回も出てこないのはファンを失望させはしないかと、僕は勝手に気にしている。
それどころか彼の備え持つ魅惑の紅いくちびるにだれもフィジカルに触れていないのは想定を大きく外している。
嫉妬を徒らに呼び込まないためにはよかったのかな。

表情は見るたびに変化(へんげ)し、かわいくも奇抜にもなるのが魅力でもあり、カジュアルにドロボーし、面白半分に銃を撃ち、平然と人を殺す実在のモデルのキャラをデフォルメするにはうってつけなのだろう。
真っ赤なフェミニンなセーターに赤いブリーフ、車の内装も赤。
そして濃いピンクのくちびるにコケティッシュなファニーフェイスは、僕から言わせればフェロは「赤いオバQ」あるいは「チブル星人」と呼ぶのがお似合い。

そんなカルリートスをいちばん映画的にグッと来させたのは、部屋で一人で身体をくねらせて踊るシーン。
冒頭だけでなく、ラストはとくにいい。
スペイン語の歌曲が頻繁に使われ、ポップさと情緒が加味される。
ゲイ(バイセクシュアル)としての刺激的な描写は排し、カルリートス(カルロスちゃん)の孤独を最終的にきわだたせた切なさが光っていた。
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相手役のラモンは対照的なタイプ。
「どちらがタイプか」という話に自ずとなるが、もちろん僕としてはどうでもよくて、その二人が鏡の前で並んで「チェとフィデル」と言ってゲバラとカストロを気取ってポーズをとるところにはシビレた。
どちらも全然似てないんだもん(笑)
でも、二人には彼らがヒーローだったんだな、と明快にわかる。

ペドロ・アルモドバルがプロデュースしたアルゼンチン映画。
いかにもペドロ的な内容を、次世代の39歳が演出した。
ルイス・オルテガ監督も音楽を惜しみなく使い、色彩や刺激に満ちた映像表現は得意のようだが、過剰なドギツサ、鮮烈で切実な息苦しさは、ペドロやグザヴィエ・ドランほどには到っていない。

★★★☆


I’m sorry, but
個人的な判断基準としては、地味に静かに人の奥底を暗示しドキリとさせる映画か、予測不可能で常識外れなギリギリ・ワクワク感で痺れさせる映画のどちらか両極に振れた作品に高評価を与えたいのです。

メランコリック/隣の影

2019年8月3~4日

ブラック・サマー、ひんやりサマー

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『メランコリック』
田中征爾
監督
2018年 日本 1時間54分
アップリンク渋谷
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お風呂屋さんの雰囲気とは対極に、真夜中は殺人処理場。

宣材のグロっぽい写真とは掛け離れて、むしろゆるゆる温泉気分。

オタクでコミュ障の東大ニートかと思いきや、意外と恋愛上手。

裏稼業に手を染める男は、家に帰ればほのぼの家族。

金髪バイト仲間は、切れ味鋭いプロの殺し屋。

主役・和彦は、現実世界ではイケメンでプロデューサー。

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いろんな意味でギャップばかりの、想定外に笑える映画。

ブラックジョークかというと、そうでもない。
笑える部分は、ほとんどが「ほんわか」したハートウォーミングなユーモアなのである。

特筆すべきは、会話のセンス。
間が抜けていながら、気の利いたやりとりに、新人監督の類まれな才能をみる。

主人公和彦のキャラにも笑えるし、オフビートな話と、セリフのセンスに、二ヒヒヒヒーーーっと、何度もこみあげてくる。

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★★★★



『隣の影』
ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン
監督
Under The Tree 2017年 アイスランド・デンマーク・ポーランド・独 1時間29分
ユーロスペース
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あえて暗い室内。
冷え切った関係、煮詰まった閉塞感。
笑えないブラックセンス。
そして引き攣るような劇伴。

同じサスペンスやクライムものでも、たとえば中南米の熱気と陽気でカラッと(またはジトっと)したノリと空気感とは、こうも真逆にできるものなのかと。
対比してみれば圧巻の北欧ムード。

アイスランド映画。
『馬々と人間たち』は滑稽さやブラックな苦笑が勝っていた。
『ひつじ村の兄弟』では、滑稽さと悲哀が表裏一体のグレーで、笑いまでいかなかった。

この『隣の影』は、完全に墨のようなブラックである。
途中までは、オセロが引っくり返るときが来るのかな、と淡い期待もあった。
「普通ならここからはブラックジョークにするよな」という形勢でも、笑えないどころか、ドミノ倒しで最後までいく。

カタストロフィだ。
とくに終盤は、あれあれ、あれれ、とついに加速度的に阿鼻叫喚に達する。

「エントロピー」の増大というほどの熱量は感じられないまま、冷たい憎悪が冷え切った末に破裂する。

ラストのオチも、さらに凍りつかせるのみ。

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隣人トラブルというのは、どこでもよくある話。
たいてい、小さなことだったはずが、コミュニケーション不足で妄想や恨みを増幅させていく。
うちのとなりもそうだ(苦笑)。軽いレベルで。
隣国もそうだ。重いレベルで。
今の日韓は政府レベルで何をやってるんだか。

監督は
「これは僕なりの反戦映画だ」
と言っている。

★★★☆

『軍旗はためく下に』

2019年8月3日

『軍旗はためく下に』
深作欣二
監督
1972年 日本 1時間36分
新文芸坐
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いわゆる戦争映画とは異なり、1971年から物語は始まる。
黒沢の『羅生門』つまり芥川の『藪の中』の手法。
内容はなんと『ゆきゆきて神軍』だった。

結城昌治の直木賞受賞作を深作欣二が熱望して映画化し、米アカデミー賞日本代表にノミネートされた作品。

原作の小説を読んでいないので新藤兼人らとの共同脚本でどこまで構成を変えたのかはわからないが、戦争の惨禍のさらなる裏の暗闇にスポットを当てるために、鮮烈な効果を生み出している。

記録映像(写真)とナレーションを多用しドキュメントタッチで進めながら、戦後26年たっても戦争未亡人サキエ(左幸子)が夫の死因を追い求める姿を追う。

夫・勝男(丹波哲郎)の戦死通知ハガキには「戦死」が「死亡」に書き変えられ、「戦没者リスト」に載っていないため、靖国に祀られず、遺族者年金ももらえないまま。
「敵前逃亡として現地で軍法会議にかけられて処刑された」と告げられるだけ。
裁判の記録も何も残っていない。

「お金がほしいわけじゃないんです。ただ、どうやって死んだか、事実が知りたいんです」
「戦没者慰霊式で、天皇陛下と一緒に花を手向けたいんです」
と毎年終戦記念日に役所に訴えつづけるサキエ。

その年、例外的に、部隊の生存者で当局の照会に返信しない4人を教えられ、直接訊いてみては?と苦肉の策を示される。

闇を暴くサキエの全国行脚がスタートする。

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ところが、ある人は勝男を「すばらしい人物だった」と言い、また他の人は「窃盗した」だの「人肉を捌いていた」だのと言い、事実があまりにも不明確で藪の中。
誰もが多かれ少なかれ嘘をついていることがわかり、ついに衝撃の事実をつきとめる。

「当時の軍法を破ったんだから仕方がない」
「戦後の秩序を保つためにはそうするしかない」
などと自己弁護と責任放棄して憚らない元上官。

戦争は国家が天皇の名のもとに「人を殺せ」と強制するもの。
「殺せ」と命令する者が罰せられずに、「殺させられた」者が罰せられ、中には死刑に処されるものもいた。
名誉回復もされない。
『私は貝になりたい』(1958年)で描かれた通り。
片や、A級戦犯が首相になっている国。

勝男の最後の絶叫が
「天皇陛下~~!」
だったこと、それが「万歳!」ではなくて抗議するように聞こえたという証言から、サキエは
「夫は天皇陛下に参拝されたくなどないはず」
と確信したのだった。

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ジミヘンばりのギターのディストーション「君が代」が劇伴でかかっていたのにはブッ飛んだ。
音楽は林光。

ジミ・ヘンドリックスがウッドストックで「星条旗よ永遠なれ」をノイジーに演奏してベトナム戦争への抗議を示したのは有名だが、それをパロって忌野清志郎が「君が代」をパンク風に歌って風刺したら発売中止になったのは1999年。
1972年にここで同じようなことをやっていたのに、なぜ過剰反応したのでしょうね。

★★★★

この映画、今はAMAZON Primeで見られるようです。

よこがお/存在のない子供たち/沖縄/パラダイス・ネクスト/ゴールデン・リバー

2019年7月24日~8月1日


『よこがお』
深田晃司
監督
2019年 日・仏 1時間51分
角川シネマ有楽町
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筒井真理子の背後で、美容師・池松壮亮が髪をケアしている。
白のカットクロスを外し、代わりに黒のクロスを2重に着せる。
冒頭の美容室でのショットが、やけに奥行きが深く妖しい陰翳を感じさせる。

深田監督のお家芸である「闖入譚」が始まる不穏な予感。

バッハの「ゴルトベルグ変奏曲」も除幕式のようにスクリーンを引き締める。

しかし、物語は時系列を前後させていて、なかなか筋がつかめない。
しばらくずっと、「これは前」「これは後」というように、頭の中はパズルの整理であくせく。
もちろん、監督の巧妙な魂胆。

あれ?
闖入者=異人の訪問がない?
出てきそうで出てこない、いつもとややちがうパターンにさまよう。

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後半もだいぶ深まってくると、
「あ」
ここから冒頭につながるのだ、という折り返し点が見つかる。
この映画の構造が、複雑そうでありながら実に明快に二つの流れを作っていたのだと留飲を下げる。

ある事件=ターニングポイントを境に、前と後で明確に区別される主人公の内面のストーリー。
右からの横顔と左からの横顔を交互に見るように、並走して進む。

一方は看護師のまとう白衣を基調とし、もう一方は冒頭の美容院で強調された黒のカットクロスがイメージされる。
サスペンス・ホラー大作『ブラック・スワン』と言ったら大仰だけれど、つつましやかにそれに近いことをサブリミナルにやっている。
さあ、ここから復讐を始めるぞ、と白から黒に衣替えしたのだ。

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そして、闖入者=異人の訪問は、やはり存在した。
主人公の訪問先にいつもいる人物が、あるとき突然主人公の中に侵入してきた。
もう一人は、主人公自身。
親密な訪問者のはずだったのが、突然闖入者扱いされる。
人格を壊された後は、あえて闖入者に変身する。

被害者と加害者がスルッと反転する。
第三者から見える立場も反転し、主人公の内面も反転しつつ揺れ動く。
自分は被害者なのか加害者なのか。

いつのまにか、私はあなたの加害者になっているかもしれない、という過去の不安の記憶が、観る者の脳裡でよぎる。
わけのわからない異質なものに対する恐怖ではなく、誰しも感じたことのある、もう一人の自分との対峙。

ここまでくると、前々作『淵に立つ』とかなり似ていることがわかる。

狂気の淵にまで何度も行くが、しかし彼女は渡り切らない。
川の途中まで行っても、なんとか戻ってくる。
自分の人生を破壊した張本人たちを前に苦渋を嘗めながら、理性で先に進もうとする。

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粗筋だけ読むと、ソープオペラか「火サス」でよくありそう、と初めは思ってしまうが、勿論全く趣は異なる。
サスペンスのジャンル映画にも落とし込まない、なんとも複雑な人間の葛藤を、筒井真理子という役者の髄まで借りて、これでもかと描いた純文学だ。

人間誰でも、いつどこで誰に陥れられ、人生をズタズタにされるか、わからない。
そんなテーマの映画を、皆いくつか思い出すはず。
『偽りなき者』(トマス・ヴィンターベア)、『父の秘密』(ミシェル・フランコ)、『飢えたライオン』(緒方貴臣)、『淵に立つ』(深田晃司)・・・まだまだ尽きない。

この類の物語は、「火サス」にもなりやすいが、純文学としても掘り下げやすいのだということがわかった。
作家のスタイルも千差万別だ。

★★★★☆



『存在のない子供たち』
ナディーン・ラバキー
監督
Capharnaum 2018年 レバノン 2時間5分
シネスイッチ銀座
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目をそむけることもできず、口は塞がらず、胸を潰され、打ちのめされ、腰は砕けて立ち上がれなかった。

レバノンで、実在の路上生活者たちを使い、限りなくノンフィクショナルな生活実態を暴いた、悲しくも偉大な作品ができてしまったことを、手放しで賞賛すべきなのだろうが、この子供たちにとっての地獄を前にして、どんな顔をして立ち去ればよいのだろうか。


演技ともつかぬ、リアルで自然な演技の子どもたち。
子どもだからこそ、演出なしのドキュメンタリーに限りなく近づくことができる。

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「両親を訴えます。僕を産んだ罪で」
この衝撃的なセリフに、まずツカまれる。
強烈なキャッチコピーでもある。

そこから、そうなるに至った経緯が、少年の視点でつぶさに描かれる。

実際のベイルートで同様の境遇にあった、「演技素人」たちを使った。
『ブランカとギター弾き』同様、これが最大限に功を奏した
子どもたちの表情がすばらしいことといったら!

とくに主役の少年ゼインの澄んだ瞳は、今にも悲しみの限度を超え、諦めと絶望で壊れてしまいそう。
純粋な瞳だからこそ、パッシヴで、もはや澄んでいないのだ。

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ドキュメンタリーかと思わせるリアルさは、子どもたちのすばらしさも勿論だが、それ以上に監督の演出と場づくりが物を言う。

ベイルートの街中で3年間のリサーチを監督自ら行ったという。
見える不幸から、普段は隠されて見えない不幸まで、入念に事例を掘り出していったのだろう。

貧困、多産、人身売買、若年強制結婚、難民の不法滞在・不法労働、戦災孤児、子どもの労働・無教育、ドラッグ売買・・・

ディテールにこだわり、少年の視点から世界を見つめることを徹底してカメラに命じ、道路や床に這いつくばり、ゴミと同化し、駆け回るときは子供同等の躍動感を見せる。

喋れない0歳のヨチヨチ歩きの乳呑み児ですら圧巻だ。
演技ではない演技が、信じがたいレベルだった。
「いつものミルクじゃない!」と呑んで気づいて怒りで泣く場面。
ママのおっぱいがなくて泣き疲れて諦めてゼインの胸に手をやって眠るシーン。
少しでも愛情が欲しいとゼインにやさしさを求めるあどけない瞳。
それに応えて、子連れ狼よろしく大きな鍋に入れて台車に乗っけて引きずり、外を連れ回す「義兄弟」のショットは、映画史に残るだろう。

会ったばかりで血がつながっていないどころかアフリカ系難民に対して「親心」をもって世話する12歳の少年。
互いに肉親の愛を求め、路上を彷徨う。

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タイミングも絶妙に、生き生きとした嘘のない表情と動作とケミストリーを逃さず撮る。
お涙頂戴や感動をことさらに誘う演出が見えてしまうと、途端に迫真性が消える。

子供が主役の映画で記憶に強く残るのは、いずれも子供たちが大人社会の犠牲になるものばかり。
大人たちが子供っぽすぎて無責任である一方、子どもたちはそのぶん賢くて責任感があり、いたいけに奮闘し、大人よりも大人であることを強いられている。
親と子の対照がことさら際立つ。

最近のものだけでも、『ブランカとギター弾き』『僕の帰る場所』『ボーダレス』『金の鳥籠』『ガラスの城の約束』『荒野にて』『ワイルドライフ』、あるいは是枝裕和監督では『誰も知らない』『万引き家族』などなど。

またドキュメンタリーも含めれば、『トトとふたりの姉』『祝福~ニコとオラデムの家~』なども身につまされて泣ける。

子どもたちはしかし同時に、その過酷な状況を強いられていることで、愛情に飢えている。
世の中の矛盾と、大人たちの無責任と、自分の運命の不条理を呪っている。

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エンディングのラストショットは、ゼイン少年の顔がスマイルに変わったところでストップモーション。

笑顔だと余計にこちらは笑えないよ。
正視できなかった。


『映画ドットコム』で、評価4.5なんて高得点、見たことない。

★★★★★



『沖縄』
武田敦
監督
1969年 日本 3時間15分
ポレポレ東中野
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1969年本土復帰前、米軍施政下のオキナワでロケが敢行された、製作50年目の貴重な劇映画。

当時の沖縄の街並みがたっぷり映っていて、数ある沖縄関係のドキュメンタリーよりも、ある意味、記録映像的価値の高いフィルムとも言える。
基地のバー街、ベトナム出撃のB52、サトウキビ農業、バラックのような民家・・・

映画初主演・地井武男さんの、この真っ黒な好青年の姿を見てください。
当時27歳で高校生役(笑)
『宝島』(真藤順丈)で描かれた「戦果アギヤー」(米軍所有の物資を取り上げる活動)をやっているシーンから始まる。

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もちろん、ドラマとはいっても、すべて史実に基づいている。

第一部は昭和30年代、「銃剣とブルドーザー」で先祖代々の住民の土地やお墓を根こそぎにされ、戦闘機の演習場として使われるなかで、伊江島の阿波根昌鴻氏が開始した抵抗運動を彷彿とする運動が描かれる。

第2部では昭和40年代、基地内で働らかざるをえない労働者たちの屈辱と労使闘争の盛り上がり(上原康助氏を彷彿とする)や、そこからつながる本土復帰運動、米国民政府車両による轢死事件・その非民主的裁判などが描かれる。

全編を通して、憲法不在の人権蹂躙や、「混血児」への差別や、ウチナンチュ同士の分断や、沖縄だけが犠牲になる怒りと悲しみと諦めと不屈の精神が、見事な脚本でわかりやすく訴えられている。

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地井武男の熱血漢ぶり、相手役・佐々木愛の糸満女の強さ、加藤嘉の計算高い狡猾さ・・・
デモの再現シーンも迫力十分。

これだけの熱量で撮られた3時間20分だが、当時本土では自主上映運動として回らねばならなかったのだとか。

小説『宝島』を彷彿とさせるが、僕は『宝島』の映画化もひそかに切望している。
もし映画化するならば、この『沖縄』の1.5倍の尺は最低必要だろう。
『あゝ荒野』と同じくらいの、前/後編2時間半ずつという感じか。

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最後を飾る運動歌『沖縄を返せ』は、今も辺野古や高江で歌い継がれるシンボル曲の一つ。
現地で僕らが真似事で歌うのも恥ずかしく思われるほど、この歌一つとっても、血と涙の歴史が沁み込んでいるのだなあと、しみじみ感じ入るエンディングでした。

『沖縄』ラストシーンの5分間です。
DVD化されていません。
https://www.youtube.com/watch?v=cmBEmVBEhNw&fbclid=IwAR0JArOgmdDflyh3IXT8W0G6oQT_st52F1zj-VMikLhFS-SGcteeU6fg_WE

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『沖縄を返せ』(作詞:全司法福岡支部、作曲:荒木栄)
https://www.youtube.com/watch?v=kmigP1jacbY&list=RDkmigP1jacbY&start_radio=1&t=105
かたき土を破りて 民族のいかりにもゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

(現在は山城博治氏の提案で「民族のいかり」を「県民のいかり」に変えている)

★★★★



『パラダイス・ネクスト』
半野喜弘
監督 
2019年 日・台 1時間40分
新宿武蔵野館
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今年観たもっとも美しい映画の5本に入れよう。
モノクロの『ローマ』『COLD WAR』『私の20世紀』につづいて、カラーの『バーニング』と同列。

映像美だけでなく、音楽も環境音も音質も、高品質ぞろい。
いつまでも見ていられるくらい堪能できる。

ただし、それがすべてかもしれない。

音楽は、坂本龍一のテーマ曲は深く埋没させてくれて心地良いことこの上ないのだが、荘厳すぎて、この作品のテーマの掘り下げ方の浅さには不釣り合い。

物語は、ほぼない。
「映像そのものが物語性を語る」と言いたいのだろうが、それはPVレベルなら物を言う。
人物背景は奥行きがある設定にしてはいるが、謎を明かさなければ思わせぶりなだけ。
役者たちは奮闘しているが、演技が意味ありげなレベルで終わってしまう。
実に勿体ない。

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映像も音楽も演技も、切実なテーマと物語があってこそ、感動の触媒となるのだ。

(映画ドットコムで評価2.2という低さも珍しい)

★★★☆



『ゴールデン・リバー』
ジャック・オーディアール
監督
The Sisters Brothers 2018年 仏・スペイン・ルーマニア・ベルギー・米 2時間2分
TOHOシネマズ・シャンテ
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「一攫千金のウェスタン・サスペンス」で、ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッドという4人の共演とくれば、最高のエンタメを期待できそうだ。

ただし、『預言者』ジャック・オーディアール監督とあれば、いわゆる「西部劇」とはちがってひとクセあると思わなければいけない。

フランスらしからぬ派手な演出で、ホアキンは狂気を迸らせていたが、ヴァイオレンスは大胆ながら品性を保っている。

シナリオは西部劇らしくなく、ヒーローはどんどん英雄らしさを自ら剥がしていき、互いに自滅しあう。

砂金を探索する秘策はファンタジックで、「マジック・リアリズム」のよう。


ラストは、こんなに限りなくバッド・エンドに近いハッピーエンドは見たことがないので笑ってしまう。
形だけハッピーエンドにしてハリウッドっぽさを皮肉ったのか。


終盤近くに出てくるルトガー・ハウアーは、棺桶の中に横たわるショットのみ。
数日前に「リアルに」逝去したばかりなので、本物かと一瞬ギョッとした。

★★★☆



『サマーフィーリング』
ミカエル・アース
監督
Ce sentiment de l'ete 2015年 仏・独 1時間46分
イメージフォーラム
★★★

花筐

2019年6月16日

『花筐 HANAGATAMI』
大林宣彦
監督
2017年 日本 2時間49分
原作:檀一雄 脚本:大林宣彦、桂千穂
出演:窪塚俊介、矢作穂香、常盤貴子、満島真之介、長塚圭史、山崎紘菜、柄本時生、門脇麦、村田雄浩、ほか
蕨市民会館映画祭
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『花筐』上映会&大林宣彦監督トークイベントに埼玉県蕨市まで行きました。
蕨市が共催して市民会館で上映する映画祭は今年で6回目。
毎回、山田洋次監督や高畑勲監督などをゲストに迎えている、頼高市長肝入りの映画愛に溢れたイベントです。

今回はなんといっても、この映画クランクインの前日に余命半年と宣告されてから3年たってなお闘病と映画活動を両立させる大林監督の姿を拝見し、お話を拝聴する貴重な機会なので馳せ参じた。

プロローグとして、20分ほどのメイキングフィルムが上映される。
映画の舞台となった佐賀県唐津市の、地元の映画製作実行委員会や市民ボランティアたちの奮闘ぶりが紹介された。
監督の余命宣告やスタッフの意思統一と覚悟、伝統芸能を映画に登場させるジレンマと交渉、故郷の人々の魂を映画に入れ込むための覚悟などもよくわかり、それだけでも感動ものだった。

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映画本編の方は、予感してはいたが、ここまでの熱量とテンションとパワーで一大長編を脚本から交渉・演出・編集まで快進撃させるなんて、80歳の人間のなせるわざじゃない!
この監督、老いてますます盛ん、病んでますます充実し、晩年に過去最高の元気玉を炸裂させている。
普通は老いればそれなりの枯淡な風味や枯れたわびさびで「さすが」と言わせるものだが、若い誰よりも(昔ながらの)映像魔術を駆使して若気を漲らせてしまっている、そのことにいちばん僕は圧倒されて阿鼻叫喚なのだった。

冒頭から閉幕まで、音楽は鳴りっぱなし、役者たちの演技は演劇調、色彩や書割や大道具や80年代的な視覚効果で、大規模な舞台芸術、高尚な学芸会のようでもあるけれども、そこに貫かれたメッセージは否が応にも洪水のようにこちらに押し寄せる。

若いみそらで国のために命を捧げることを美徳として信じて疑わない、あるいは疑えども口に出せない戦時中の異常な空気が、熱気をともなったウイルスで充満している。

スクリーンも触るとアツイ、2時間50分なのだった。

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アフタートークで監督が車椅子で登場したときもびっくり。
さすがに痩せて小さくなったお姿だったが、話し始めれば進行役のお株を奪い、冒頭ツカミから最後のシメまで、滔々と映画愛を溢れさせながらの饒舌な大林調でちょうど1時間を収めたのには、みんな何度も拍手喝采が沸き起こる。

この人、長生きするぞーーー。
最後は立ち上がって花束を受け取り、サプライズで頼高市長や監督の奥様まで壇上で一緒になった。
一日一日が貴重な生きる時間でありながら、生を拡充させ、映画愛と反戦メッセージを最後まで伝授させようとするその生きざまに心を打たれた。
そしてその姿と作品が一体化することで作品の価値は一層増すのではないかと思った。

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★★★☆

ペトラは静かに対峙する/ワイルドライフ/COLD WAR

2019年7月8日~21日

『ペトラは静かに対峙する』
ハイメ・ロサレス
監督
Petra 2018年 スペイン・仏・デンマーク 1時間47分
新宿武蔵野館
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僕は目撃した。
脚本というものの威力を。
ギリシャ悲劇のような確たるプロットが重層的に連鎖することで、打ちのめされることを。

時系列の組み立て方ひとつで、予断を見事に裏切り、人物たちの関係性をひっくり返す。物語は色めき立ち、一気に急峻な起伏が生まれる。

その展開に何度も唖然とする。

映画の感動の要素をいくら集めたところで、この脚本の圧倒的な構成力にかなうものはなく、すべてはそのパワーにひれ伏すのみ。

幕が開くといきなり「第2章」と出るので、まちがいじゃないか?と驚く。
あえて章立てをしておきながら、時系列を前後させて、
2章→3章→1章→4章→6章→5章→7章
という順番に見せる。
時系列を前後させるのは映画の定石だが、あえてこの数字を見せることで、伏線や隠匿があることをこちらに身構えさせるサスペンス術だ。

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最近、『マチネの終わりに』(平野啓一郎)という小説を読んだ。 ※このページの最後に感想掲載※
そこに「現代の作品はギリシャ悲劇的な家族の「血」の宿命や破滅的運命論に回帰しがち」というようなことが書かれている通り、この映画もまさしく極めてギリシャ悲劇的だ。

平野の小説で繰り返し、
「過去は未来によって変えられる」
という主題が語られ、運命論からの脱却を図っているように、この映画もまた、
「未来は過去によって変えられてしまう」
という家族の宿命からの脱却が可能なのかどうか、未来を切り開くことができるのかを極限まで試そうともがいているかのような作品である。

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スペインのカタルーニャ地方の「乾いた大地で繰り広げられる、人間の闇をえぐる怪作サスペンス」というキャッチだけでも、そそられる準備はできていた。
その通りだった。
乾いているということは、染みわたりやすく、また発火もしやすいということだ。

カメラワークは独特で、対象をとらえながら、ドリー・イン/アウトで前後にスローに移動し、ドリー・ライト/レフトで左右にスローに移動する。

劇伴で掻き立てることなく、不穏な空気が隅々まで張り詰める。
静かだからと油断していると、隠されていたものが突然暴発したりするので要注意。

★★★★★



『ワイルドライフ』
ポール・ダノ
監督
Wildlife 2018年 米 1時間45分
新宿武蔵野館
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アメリカの荒野を背景に、描かれる家庭の不和。
子から見た、親という反面教師。

この共通項で、今年だけで3本目。
『荒野にて』
『ガラスの城の約束』

そして、この『ワイルドライフ』は、一人っ子の14歳の少年が観察する、まさしく反面教師としての父と母それぞれの「人生の負け方」に焦点を当てた作品となっている。

いずれも、大自然とはいっても裏を返せば生業もままならぬ田舎の、白人貧困層の生活実態が背景。
それは現在のアメリカを象徴するファクターとして文学や映画で取り上げられるべきテーマなのだろう。

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1960年代の、カナダに近いモンタナ州。
山火事が登場人物たちに不吉な影を、後半までもたらし続ける。
視界に入らないところでは空を暗く曇らせ、父はわざわざ危険なボランティア作業のためにその渦中に飛び込んでいき、母はあえて息子をメラメラ・パチパチ音のする間近まで連れて行く。

真面目だが甲斐性のない夫と堪え性のない妻と。
家族主義のモラルは、生きるうえでは優先度の低い、実に脆い幻想だ。
身を滅ぼすのに、理由は問わない。
誰も責められない。
少年も、茫然と、憮然と、悄然としながらも、理由は問わない。
親も所詮は人間なのだ。
男も女も所詮、弱いのだ。

親が不仲になっても、僕は子として愛されている。
理解力のある14歳のまなざしは、当惑しつつも二人にやさしく向けられる。
そして映画もそんな二人の親をやさしく見守る。

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キャリー・マリガンは劇中で、少しやさぐれた自分のことを息子に訊ねる。
「何歳に見える?」
「34よ。50くらいに見える?」と自答し、自嘲する。
役作りではあろうが、『17歳の肖像』のマリガンはいつのまにか、正直僕には40以上に見えてしまう実年齢34の大人になった。
全編を通した彼女の「劣化の熱演」は、一見の価値がある。

ラストの家族写真の場面は、息子が親と過ごした年月を刹那の一枚に封じ込めたいという自分の欲求と彼らへの思いが凝縮される切ないシーン。

カメラ正面を向いて今撮られようとしているマリガンの表情は、たとえようもなく痛切だ。

原作はアメリカの作家リチャード・フォード
これを脚本化したのが、監督のポール・ダノと、パートナーのゾーイ・カザン
『ルビー・スパークス』で主演した役者二人でもある。

音楽は控えめで、ハリウッドの派手さはまるでなく、内面への集中度合いは私小説的で、『荒野にて』同様イギリス映画かと思わせる。

★★★☆



『COLD WAR あの歌、2つの心』
パヴェウ・パヴリコフスキ
監督
Zimna wojna 2018年 ポーランド・英・仏 1時間28分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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『ローマ』『私の20世紀』と並んで今年もっとも美しい映画に数えよう。
いずれもモノクロですね。
カラーなら『バーニング』を入れましょう。

当作品で美しいのはモノクロの映像だけではありません。
悲恋「物語」でも、それを彩色する「劇伴」でもありません。

物語をつむぐ「音楽」そのものです。
なによりも楽曲自体が主役の縦糸で、そこに恋愛ドラマが脇役の横糸としてからんでいく。
物語も役者たちも脇役なのです。

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アレンジが変わるたびに色艶も相貌も変わるテーマ曲。
「オヨヨ~」
というポーランド語版の印象的なフレーズは、なんと「意味はない」のだとか!
「二つの心、四つの瞳・・・」
と謳うその曲が、ポーランド、東ベルリン、パリ、ユーゴスラビア、と彷徨し、場所と時代と愛の状況が移り変わるとともに、フォークソングからムードジャズへとその顔と性格を変えていくようすが見どころ聴きどころで、なんとも心地よくいつまでも聴き惚れてしまいます。

もちろん、歌姫であり主役のヨアンナ・クーリクも奔放な色気と声の魅力たっぷり。
相手役トマシュ・コットの、苦悩が刻まれてゆく姿にも痺れます。

二人の「至上の愛」の遍歴は、日本で言えば高峰秀子森雅之『浮雲』(成瀬巳喜男)における宿命の愛といったところでしょうか。

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主題歌「Two Hearts Four Eyes」のポーランド語版はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=YIlTSOvBTiE

★★★☆



書籍 小説
『マチネの終わりに』
(平野啓一郎)

文春文庫
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いやあ、恐れ入った。
平野啓一郎。
なるほどー。
大人の純愛小説というものを読むのは、僕は初めてかもしれない(違うかもしれない)。
こういうことなのか。
文体自体が大人の純愛さながらに慎ましやかで、読み流せないくらい詩的で、先に進むのを躊躇する。
そのたびに、美的なフレーズを抜粋し、メモ代わりにツイートする。

主人公ふたりも、恋に謙虚で、品があり、臆病で、思慮深く、倫理的。
軽率さを抑制し、行動より想像を優先する。
だからじれったい。

しかし、その美しさに、現世界の無慈悲な悪魔的現象(ほぼ人災)が常に影を差す。
イラク戦争、ユーゴ紛争、ナガサキ、3.11、フクシマの悲劇が、のっぴきならぬ攻撃を大人の純愛に仕掛けてくる。
過去は記憶から消し去っても、PTSDや「ベニスに死す症候群」や「血」によって甦る。

「過去は未来によって変えられる」

繰り返し語られるこのテーマのように、ポジティブに切り開くか、はたまた運命論として割り切るか。
この作品は、ギリシャ悲劇的な家族の「血」の宿命や破滅的運命論に回帰しそうな現代悲劇から脱しようと懸命になる。
そして単なる大人の運命論的恋愛小説ではなく、現代社会の悲劇を網羅し、世界規模から家族単位まで、すべてを倫理的に破綻させないよう、人間としての矜持と秩序を保とうとする、壮大で切実な試みを提議しているのかもしれない。

https://k-hirano.com/lp/matinee-no-owari-ni/

これが主演・福山雅治・石田ゆり子で映画化され、秋に公開だそうです。
憚りながら言わせていただくと、小説の映画化で失敗する典型的パターンだと思われます。