ジョーカー

2019年10月9日

『ジョーカー』
トッド・フィリップス
監督
Joker 2019年 米 2時間02分
109シネマズ川崎
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「弱者」ではなく、ここでは「笑い者」と呼ぼう。

「笑い者」とは、実は「笑われる者」だ。
では、「笑い者」を笑うのは誰だ?

ここにはいくつもの種類の笑いが登場する。

これは、「笑い者」が笑うときの笑い(自嘲)と、
「笑い者」を笑うときの嗤い(嘲笑)の話だ。

ジョーカーすなわちアーサー・フレックは、テッテーテキに弱者として育ち、弱者の要件を満たしたまま、社会人になれずに笑い者になった。
人を笑わす役になりきろうとすればするほど、嗤われ、嘲笑されつづけて、自分を嘲る引き攣った笑いをする者になった。

こうさせているのは誰なのか?

まず冒頭から子供たちからの暴行略奪に遭うところから始まる。
雇い主からはハラスメントと首切りに、同僚からも罠にかけられる。
通行人や乗客からも蔑まれ、そのストレスが身体反応を生み、さらに嫌悪される悪循環。
そして家族と出生の秘密にもトラウマが隠されている。

この“魔境”ゴッサムシティが元凶なのか。

そこは魔窟でもない、NYかシカゴか、いや東京か大阪か、あなたの住むその街のように見えるだろう。
僕には今住んでいるこの国のこの街にしか見えない。

では一体、このゴッサムシティはどうやってできたのか?

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あなたの少し上に立つ権力者があなたを笑う。
そのまた少し上の権力者が彼を笑う。
そうして、行き着く元凶は、この映画にも姿を見せない、世界のピラミッドのトップに位置する見えない強大な権力である。

いま全世界に渦巻く「新自由主義」による極端な格差社会、それによって生まれた「自己責任社会」「排外主義社会」「権利剥奪社会」「個人封殺社会」
そのまんまの映し絵だ。
ということを、コメディ映画出身の監督が脚本を一から立ち上げて、最も深刻な社会問題を全世界に投げ掛けてくれた。

ここ数年の日本国内で起きている事件を思い出すだけでもわかるはずだ。

「死にたいならひとりで死ねよ。他人を巻き込むな」
そう声高に言い捨てた人は、ジョーカーを観るときにだけ弱者に肩入れするんじゃないよ。
ジョーカーに同じことを言えるか?ってんだ。
同じ道化(CLOWN)の顔した群衆が蜂起して、ジョーカーを闇のヒーローとしてまつり上げたとき、胸のすく思いがしただろうってんだ。

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こんなに暗く悲しく重い作品を、「バットマン」の看板のおかげで政治のことなど考えたことのない人たちや若いカップルが大挙して劇場に押しかけている。
すばらしい貢献だ。

そもそも、ジョーカーという存在は、「怒り」と「悲しみ」と同時に「笑い」を加えた三要素を兼ね備えているという点で、潜在的にヨーロッパ三大賞にふさわしい主役だったのだ。

「怒り」と「悲しみ」によってトラウマや社会を告発する作品は数多ある。
最近では同じホアキン・フェニックスが主演した『ビューティフル・デイ』(リン・ラムジー)もそうだし、日本ではたとえばその名もまさに『怒り』『悪人』(李相日)など、枚挙に暇がない。
しかし、「笑い」を兼ね備え、効果的に使っているものは少ない。

劇中映画に出てくるチャップリンは、笑いと哀しみで世界を語る象徴。

「笑い」は、「怒り」や「悲しみ」を増幅する触媒になる。
ホラーまでもが、道化の力を借りている。
そして訴えたいことを伝えるために最大の効果をあげてくれるのだ。

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ロバート・デニーロを大物コメディアンとして登場させ、彼に憧れ一緒に出演することを夢見る設定は、『キング・オブ・コメディ』においてデニーロが演じた役と真逆のパターンで面白い。
オマージュは、『タクシー・ドライバー』のデニーロを意識したかのようなホアキンの演技にも現れている。
物語も『タクシー・ドライバー』をグレードアップさせたかのような構造だ。

今あの時のデニーロにいちばん近いアブナイ男といえば、まず名前が挙がるのはホアキン・フェニックスだろう。
3か月で24kg痩せ、8カ月かけて人間アーサーを探求し、突発的に笑ってしまう症状を実際に見知らぬ人前で出すことができるくらいに成り切ったホアキンあっての『ジョーカー』だ。

鬼気迫るホアキンを使って、個人の生を掘り下げ、感情を掘り下げ、潜在心理の由来をしっかり解き明かす。
そうすることで背景の世界の凶々しさが色濃く浮き彫りにされる。
見事な脚本だ。


始まりから負のエネルギーの圧がじわじわと高まり続け、終盤になって俄然勢いがつき、ラストにスパートをかけてついに暴発する。
熱狂の中でモンスター=ヒーローが生まれる瞬間はカタルシス。
そこに到る過程は最高の展開。

そして最後はバットマンの発露を垣間見せて着地する。

聖も邪もない、善も悪もない、絶望と絶望の闘いのはじまりだ。

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劇伴が大仰なのは「スリラー系」作品の常だが、三大映画祭系では珍しい。
音による盛り上げ方がやや耳につくが、ジョーカーの演技への楽曲の当て方は実にセンスがいい。

「アメコミ系」が三大映画賞を獲るのは初だろうが、ベネチアはカンヌやベルリンよりも比較的俗っぽい作品も好まれるから、不思議ではない。
だいいち、この映画は「ジャンル映画」では決してない。

ただ、コメディ映画『ハングオーバー!』シリーズが代表作の通俗的なイメージのあるトッド・フィリップス監督が、いきなりこの『ジョーカー』を世に突きつけたことにいちばん驚く。
『バットマン』シリーズをこんなにもジャンル映画から脱却させて、社会的に硬派な問題作を作り上げたことに。

彼に監督を抜擢した製作者は誰だったのか?
という点をいちばん知りたかったのだが、実は彼自身だった。
トッド・フィリップスは監督業以上に製作を中心にキャリアを積み上げてきた人だったので、盟友である俳優ブラッドリー・クーパーらと共同で製作し、スコット・シルヴァーと共同で脚本を立ち上げた。
つまり、彼ら自身でこの大それた企画を通したということらしい。
監督も、
「いちばん大胆なのはワーナーとDCコミックスだよ」
と語っているくらいなのだ。

★★★★☆

宮本から君へ/エイス・グレード/ある船頭の話/見えない目撃者/天気の子/アンナ

2019年9月29日~10月6日

ウソと痛さとみずみずしさについて。


『宮本から君へ』
真利子哲也
監督
2019年 日本 2時間9分
角川シネマ有楽町
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宮本(池松)、ダサくてダサくて、チョーかっけーーー‼️
クッサすぎるセリフの中に、ガチでふるえる言葉がいくつもあったぞ。
大声張り上げたオーバーアクションとオーバーリアクションとはいえ、ドタバタ喜劇や浪花節とは似て非なり。
だってどんなに池松がバカやっても、蒼井優は怒り狂ったり号泣したり、ドスきかしたり呆れ果てたり、うれし泣きしたり至福の笑顔をしたり、そんだけ動かしてんだってことだ、ココロを!

でもって、エンディング曲が宮本浩次(エレファント・カシマシ)だ。
あー、コーフンがおさまらねえ。

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かといって、原作マンガを読みたいとはまったく思わない。
絵や作風が好みじゃないから。
むしろ嫌いなタイプなので、まるで読む気にならないのだ。
その点では『ヒミズ』とおなじだ。
映画がこれだけ泥臭いのであれば、漫画はもっとなんだろうと想像する。
でも、普通は映画化によってグレードダウンするはずが、役者の演技でここまで泥臭さが行き切っちゃってるんであれば、たぶん映画表現としてはここがテッペンなんだろうということも想像がつく。

女優は脱げば、あるいは汚れ役をやれば評価が上がるということも実際は否定できないし、男優だろうが女優だろうが、派手な役ほど演技も(演出も)しやすいと思われがちだ。

でも問題は、オーバーな表現で、伝わってくるものがどれだけあるのか、そこにウソは見えるのか、ということだ。

蒼井優池松壮亮はオーバーな演技を強いられながらも、監督の「伝えたい」という気迫の演出と役者二人の「伝えるぞこのやろう」という気魄が見事にシンクロした場面で、結果、ビリビリと何かが伝わってくるのだ波動砲のように。

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ヤスコ役は、ここまで感情をほとばしらせながらなおかつナイーブな気持ちの泡立ちをシュアに表現できるのは蒼井優をおいてほかにいないだろう。
あらためて女優として面白いと見直した。

ラスト近くのクライマックスで、宮本がヤスコに満身創痍で結果を報告に来るシーンはこの映画の真骨頂だ。
バカな宮本は、愛想を尽かして怒るヤスコに、満面の笑みで「ほめてもらいたかったから」と言う。
そのウソのない100%の言葉と顔面に、おいらはシビレたんだよ。

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最初から最後まで痛くてイタくてしょうがない映画だけど、最後の一瞬まで見逃さないでほしい。

★★★★



『エイス・グレード 世界でいちばんクールな君へ』
ボー・バーナム
監督
Eighth Grade 2018年 米 1時間33分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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僕の中学時代も暗黒だったが、僕の娘もそうだったらしい。
思い出したくもない黒歴史ではあったが、重要な意味を持つ濃密な時間だったこともたしかだ。

主人公は8th gradeつまり8年生。
日本で言えば中2だが、あちらではもうすぐ卒業して高校生。

猫背でニキビ顔でぽっちゃり型のケイラ(エルシー・フィッシャー)は、学校では無口で仲間に入れずイケてない存在。
僕らから見れば、まったくフツウにかわいいのだが、空気読み至上主義のスクール・カーストの中ではシビアな位置につけている。
イジメられもしないが、ほぼ無視に近い状態の中で単独行動を強いられている。

そんなケイラは、PC画面(観客正面)に向かって
「Hey, Guys !」
「グッチ~!」
と明るく元気に語りかける。
YouTubeで同世代へ「自分らしくあるために」などのアドバイス番組を配信しているのだ。
アドバイスと言っても、自分ができてないからこそ、自分に言い聞かせるようにカメラの正面に向かって発信している。
イタイながらも、イタイケにポジティブになり切ろうとするケイラが、なんとも切なく愛おしい。

お父さんなら尚更100倍だ。
登場するお父さんはなんとも頼りない。
食事中にずっとスマホをいじってる娘に対しても注意できない。
でもケイラのことが心配で心配で仕方がない。
それなりに見守っては、ウザがられ、しばしば信頼を失墜させる。

「無口ナンバー1」に選ばれてしまいながらも、ふてくされずにアクションを起こすケイラはえらい。
「ふだんしないことをあえてやってみよう!」などの、自分発のリア充YouTubeや、「なりたい自分になる」目標を書いたTo Do Listに従って、冴えないながらも、時にとんでもなく大胆な試みに一歩踏み出したりする。
「彼氏を作る」ためにどんなきわどいことを実行するのかは、見てのお楽しみ!

中学生は要するに、自分、自我、自己承認欲求だ。
自意識過剰なのはみな同じ。
その中で自分がどう生き抜くかは、その後の人生のサバイバル術になるのもまた確か。

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終盤、父は娘とさしで語る。
「お母さんが出て行ってしまったとき、お父さんは怖かったんだ。お前をちゃんと育てられるかって」
「でも、でも・・・・・」
そこからの語りはパパさん必涙だから、ぜひスクリーンで見てもらいたい!

父は娘が頑張っていることをわかっていたし、娘も父がちゃんと見てくれていることがわかっていた。
ただし、14歳の少女だ。
父親に見られることやまともな会話をすることさえも、眼中にない、あるいは眼中にないポーズをしたい。

ダサいけど、愛おしい。
それは、お互いさまだ。
愛おしいから、ダサくない。
それも、わかってる。

それを確認できた時、それだけで十分満ち足りたのだった。

この世界の誰よりも、娘が可愛くてしかたがない。
そこに、ウソは全くない。
この映画は、実は半分は、世のお父さんを泣かせるための、お父さんにこそ見てもらうための映画だったのだ。

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監督ボー・バーナムはユーチューバーとしてブレイクし、ミュージシャン、コメディアン、俳優としてキャリアを積んできて今回監督デビュー。
自らの体験を元に脚本から書いたという。
男性だから、父親からの視点で作ったのかと思ったのだが、まだ28歳。
中学校の体験を書いたにしては、女子や父親の心理をみごとに描写できていてびっくり。

★★★★



『ある船頭の話』
オダギリ ジョー
監督
2019年 日本 2時間17分
キノシネマみなとみらい
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冒頭の水面の美しさからして尋常ではなかった。

邦画特有の暗い画面から完全に逸脱したコントラストと色彩。

雄大な自然を存分に映す。
ゆっくり流れながら煌めく波光の群れは黄金色にさえ見え、真夏の日射しに河岸の岩肌は苔色と白色に縁どられ眩しく映えている。

言葉を失うほどに目を奪われ、そのままいつまでも見ていたかった。

自然そのままというよりは、地上(ここ)ではない涅槃のような、一瞬の幻かと思わせる場所。
不思議なほど鮮やかな光の色彩空間は、監督オダギリジョーのこだわり以上に、クリストファー・ドイルの撮影によるマジカルな手腕だろう。


灼けつくような日射しに、けたたましい蝉の絶唱、それらが山々の緑とゆったりとした川の波紋に溶けていく。

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新潟県の山深い阿賀地区。
阿賀野川の中流の、ある一点が舞台。
そこに小さな木舟を渡す老人ひとり。
川の彼岸と此岸を行き来する人々。
カメラはそこしか映さない。
人が住む場所も生活も見せない。

その後第二水俣病にみまわれたこの川の、災厄に苛まれる100年くらい前の話。
(終盤に福島・奥会津の霧幻峡のロケも入れている)

きわめて限定されたこの舞台設定は、『ボーダレス ぼくの船の国境線』『とうもろこしの島』と似ている。

老人と、若者と、流れ着いた謎の少女。
川のほとりの老人の掘立て小屋に、赤い服の少女は住みつく。
その状況設定は、『祖谷物語―おくのひと―』田中泯が落ちてきた赤子を拾い、育った武田梨奈と暮らし、落人の若者がやってくる設定と似ている。

かぐや姫や桃太郎をも連想させるシンプルでシンボリックでミニマルな設定は、なにかとこちらのイマジネーションを膨らませる。

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終盤は季節が一転して、厳寒の雪深い情景となる。

文明は開化し、橋ができれば渡し船も無用となる。
便利と引き換えに、蛍も消える。
人も何かを失い、壊れていく。

そんなメッセージはあえて説明するまでもなく自明のことだ。
あるいは諸行無常。
善悪の彼岸。
ニンゲンの業。
色即是空。

絶世の美景は、皮膜を剥がしたところにある悲劇によって裏打ちされる。
いくつもの陰翳が見え隠れするからこその美しさだ。
桜の木の下に死体が埋まっているように。

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言葉や情報の少ないエンプティな空間に、いろんな意味や因果が飽和してくる。

そこに、水、陽光、緑、雪が彩り、そして炎が染める。
自然元素が息づく画面構成は万物を流転させ、ニンゲンの意味ありげな浮世の価値も追いやってしまう。

ラストの老人と娘の一見悲愴な光景が、圧巻の感動を催させるのは、凄惨な現実から彼岸にも此岸にも逃げることができず、ただ下流へと漕ぎ出すしかなかった宿命だけではない。
水墨画のような夢幻の氷の世界をバックに降りしきる雪と突如現れた燃え盛る炎が、宗教的なまでに厳粛な川の様相をスクリーンに印画・刻印していたからだ。
その遠景画の鮮烈さと充実感は、言葉や意味を超えた物語性を湧出していたと言うほかない。
(ラストショットはタルコフスキーに匹敵。『バーニング』とも類似。)

「今年いちばんの美しい映画」が、ついに7本目になってしまった。
(『バーニング』『ローマ』『私の20世紀』『COLD WAR』『パラダイス・ネクスト』『聖なる泉の少女』につづき。)

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柄本明は期待通りの名演。
含蓄ある存在感は、故・樹木希林のレベルに近づいている。

しかし不思議なのは、シナリオになぜあえて意味ありげな謎めいたファクターを入れたのだろう。
ラストのセンセーショナルな展開には、少女の神秘性や惨殺事件の伏線が必要だったのはわかるが、トイチ(柄本)に関しては、彼のトラウマと思われる白日夢、亡霊のような少年などは必要だったのだろうか。
不吉で思わせぶりなサスペンス要素にすぎないのか。

ここで描かれたのは最後まで、浮世ならぬトイチの虚実を往復する半分妄想の世界だったのかもしれない。

でも、そういった裏物語はあえて作ろうとしなくても、この映画は十分に自然の要素と空間が物語っているのである。

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そしてはかないものは朽ち、朽ちるものは燃え落ち、落ちたものは流れるのだ。

★★★★



『見えない目撃者』
森淳一
監督
2019年 日本 2時間8分
丸の内TOEI
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心臓が弱い人は見るのをおよしなさいとキッパリと言う。
そのくらいサスペンス好きには最後までハラハラヒヤヒヤさせてくれるし、ストーリー的にも飽きさせないことは確かだ。

ただし、サスペンス好きの色眼鏡をとれば、節操がなかった。
なんでもかんでも怖がらせればいいというものではない。
それではホラーになってしまう。

肝心の人物が、死に過ぎだったり。
警察ならそんなことはしないだろうとか、警察なしのその状況で一般人がそんなことしないだろう、とかいうことが多い。
そして犯人が過度なサイコパス

すべてが過剰で、抑制がない。

主役の視覚障碍者(吉岡里帆)が知力・推理力が高いのはいいにしても、聴覚・嗅覚・第六感などの能力が高すぎ。
一方で、警察の推理力は低すぎ、固定観念が強すぎで、吉岡里帆の能力に比べるとなおさらマヌケでイライラする。

物語の骨格はまずまずとしても、正確性に欠けると説得力がパーになる。

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韓国映画『ブラインド』(2011)が原作で、それを中国版(2015)に続き日本でリメイクした作品。
韓国製の「過剰さ」を受け継いでしまったようだ。

★★★



『天気の子』
新海誠
監督
2019年 日本 1時間54分
109シネマズ川崎
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もはや背景は絵と写真の区別さえ無化して、アニメの概念を開拓してきた世界のトップリーダー新海誠は、今回も期待にたがわずお家芸の光と水の魔術師としての役割を存分に発揮している。

なかでも「水の跳ね方」の描写は写実的すぎて、実写を合成したものでもよいのでは?という禁断の疑問さえ湧いてくる。

一方で、今作は全編雨の情景が続くので、霧や靄がずっと空間を占めていて、スクリーン全体がもわっとした湿気に包まれていた。
つまり、あの新海マジックの鮮やかな青空と雲、光線と影のコントラストが鳴りを潜めている時間が長かった。
そのせいなのか、同じ雨の情景が印象的な『言の葉の庭』よりもみずみずしさが物足りなかったように感じたのは僕だけなのか。
それとも、もう見慣れてしまったのか。

でも、花火の打ちあがる中をすり抜けてゆく空中遊泳を視覚体験できたのはうれしかった。

また、背景に比して前面にあるキャラクターが平板なのは、アニメが開発してきた技法ではあるが、新海作品の背景の超絶さに到っては普段感じない人物描写との落差を意識してしまう。
それはいいとしても、気になるのはあのネコの動きと造形。
あまりにも現実的でない、いいかげんな描写(スケッチ)はどうにかならなかったのだろうか。

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新海誠の映画には物語的には特筆すべきものは見当たらないので期待はしていないが、前作『君の名は。』があまりにも筋が錯綜していたために、今回はシンプルで落ち着いて楽しめてよかった。
サントラもRADWIMPSが始終ボーカルでじゃますることなく、ほどほどだったので助かった。

「晴れ女」という意味では、俗に言われるような「あんたが来るときはいっつも晴れてくれるわー」的なテキトーな晴れ女ではなく、「真の晴れ女」を主題にしたという点で称賛したい。
「天気を変える」ということの大それたスピリチュアリズムを批評的に語っているようにも見える。
なおかつ、俗世間の身勝手な期待に対する一人の「人柱」という象徴的な構図は、現代社会への痛烈な風刺になっていて、この映画の肝と言える。

そして何といっても、この地球の異常気象という今ここにある現実世界の危機において、このスクリーンの中の出来事は単なる「絵空事」として境界線を引くことはできない。
だいぶ前から僕らはこの作品とシンクロし、同じ空気の気象の流れのなかで生きてきた。
ましてや、この9月の台風災害の直後で、生々しい。
この映画はこのSF的な現実の中のひとつのサンプルに過ぎず、寝ても覚めてもこのプレパラートから逃れることはできないのかもしれない。

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この映画を見たあと、一晩中雨が強く降り、朝になった途端にきれいに晴れた。
晴れ女のヒナが天に召されてしまったのだと、目を覚ましながら自然とものがなしく思えた。

雨の情景が頭の中で十分すぎるほど湿り気をもたせていたのだ。

これはアフターシネマの拡張現実だった。

★★★☆



『アンナ(1966)』
ピエール・コラルニック
監督
Anna 1966年 仏 1時間26分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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パリの空気がこんなにもみずみずしいなんて。

言わずと知れたゴダールのミューズの一人、アンナ・カリーナの絶頂期。
『気狂いピエロ』の2年後、PV的に作られたミュージカル風のTV映画。

フランス国営放送が初のカラー作品として放送した記念碑的作品を、4Kデジタルリマスターして復活。

内容的には物足りないが、そういうことであれば納得。
この新鮮な画質は当時を知らない人々にも憧れを与えるファンタジー映画として余りあるヴァリューを誇っている。

ビニール素材をやたらと使った衣装や色彩はポップでキッチュ。
全編スタジオ外のロケ撮影。
ヌーヴェル・ヴァーグが肌で感じられて、シンプルに楽しい。

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マリアンヌ・フェイスフルも絶頂期のあやういコケティッシュさで唄う。
楽曲はすべてセルジュ・ゲーンズブールで、ハンパにやらしい視線で出演もする。
無駄なほど二枚目のジャン・クロード・ブリアリはアンナの幻を追いかけるだけの主演。

★★☆





サタンタンゴ/沖縄列島/アイム・ノット・ゼア

2019年9月16日~23日

モノクロばかり見て、目を白黒。



『サタンタンゴ』
タル・ベーラ
監督
Satantango 1994年 ハンガリー・独・スイス 7時間18分
イメージフォーラム
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どんなに雨が降っても傘をささない人たちが、無闇矢鱈と濡れている。

一か所も舗装されてない泥道をどこまでもぬかるみながら歩く男たちの後ろ姿をどこまでもカメラは追いかける。

遮るもののない広大な荒野は霧にけぶり、果てしない地平線はあるはずなのに曖昧で見えない。

土地も時代も人物も何も特定されないそこには、あまりにも普遍的な抑圧と迎合とコンフォルミストたちがいた。

弱き者はより弱き者を弾圧し、その理由を知らぬまま死ぬ。

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前半約4時間半のうち、物語が動くのは猫と少女の章。
家族にネグレクトされた少女は飼い猫に「強さ」を誇示し、虐待し、ふたりで心中する。

映画の画力は、それが意味を持ちうる以前に、瞬間的に脳を打つ、目を撃つ、鬱を討つ。

スクリーンに人物が動けば、それを観る者は見る以上に見せつけられ、人物は動き以上の価値を持とうとする。

高貴なモノクロは、ときに痛快なヒーロー活劇のように躍動して魅せる。

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後半、ある男が村に帰還すると物語は急展開し、テンションが高まる。
彼は救世主なのか、不穏分子なのか?
という疑問は鼓動を高鳴らせる。
理知的な物言いとふるまいに、カリスマ的魅力が香る。

村人は信じるのか、信じないのか。
最後までサスペンションは持続する。


紹介記事よりもう少しネタを明かせば、この背景には東欧社会の、<社会主義/資本主義>のジレンマがある。
冷戦が終わっても終わらなくても、ファシズムに対するレジスタンスの疲弊はつづく。
その大きな失望と諦念が、庶民を覆い尽くしている。

農場は解散、従事者は1年分の給金と退職金を手にしていたが、先の見えない状況で彼らは堕落し倦んでいた。

そんななかで、2年前に「労働忌避者」というレッテルを貼られて警察に連行された男が帰ってくる。
このイリミアーシュという人物の象徴的役割は大きい。
ドキッとしたあとにズッシリとずっと尾を引く大きさと重さだ。

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上からのファシズム、下からのファシズム。
それは、どこからでもやってくる。
人々は、気づいていた。

どこの国でも、それはやってくる。
気がつけば、廊下の奥に立っていた。
タル・ベーラの意図していることは、容易に汲み取れるだろう。
僕らの国でも、見渡せばわかることだ。


タル・ベーラに心酔したという監督たちも多い。
そうか、言われてみればガス・ヴァン・サント『エレファント』はカメラが少年の背中をずっと追いかけた。
そういえばフー・ボー『象は静かに座っている』ではやはりずっと雨か曇りで、人々の歩く姿を追い回し、説明を排した長回しで大きな円環をつくっていた。

タル・ベーラの映画がタルコフスキーに似ているとすれば、水や長回しもそうだが、何よりも切実なレジスタンスであり、哲学的までに寡黙なプロテストであり、明瞭な黙示録だということだ。

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それにしても、不必要な長回しが多くないか。
たとえばダンスシーンは15分くらいあったと思うが、半分あれば十分。
酩酊の医師の迷走に1章45分くらいを使っているが、15分で足りるでしょう。
あまりに各シーンのショットに集中力を使わせられると、全体の物語の構成やテーマを理解するのに遠回りしなくてはいけないし、疲れる。

『倫敦から来た男』の長いズームイン/アウトは生理的に耐えがたく、それよりは今回はいいけれども。
過度なものは、逆にあざとさが生まれるのでねえ。

『ニーチェの馬』はその年のたぴおかベスト1に選出したが、2時間半であそこまで感動させられたのだし。
『象は静かに座っている』も4時間弱で贅沢な群像劇に仕上がっていた。


それでも、「映画とは何か?」とボーダーを揺るがしつつ大きな問いかけをしてくる作品には、つねに全面支持をして高評価を与えたい。

★★★★



『沖縄列島』
東陽一
監督
1969年 日 1時間30分 ドキュメンタリー
ラピュタ阿佐ヶ谷
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また見つけた。
何を。
返還前の沖縄の日常を撮ったドキュメントフィルムを。

1968年10月から12月の3カ月間。
米軍占領下、返還まであと3年半。
時はベトナム戦争真っ盛り。

制約の多い現地で、果敢に撮影したのは、当時34歳の東陽一監督。
なんと長編第一作はこのノンフィクションだった。
オトナのエロスを描くのが得意という印象があっただけに、この硬派なデビューは意外だ。

単なる記録資料映像や報道素材、あるいは米政権側の撮った映像なら山ほどあるだろうが、個人が個人の日常を撮るという意図で撮られたものは稀有で貴重。


コカ・コーラのビンを砕いては溶鉱炉に入れる作業を映すシーンから始まる。
「本土がいくら繁栄してるったって、沖縄をアメリカに売り払ったんだから。娘を売り払った親みたいなことして、恥ずかしくないのか」
と工場の男の声。

基地の周りで米兵相手のバーとホステスたちがひしめく。

基地反対運動に反対するデモの列。

「床屋になりたいの」と将来の夢を語る少女。

宮古島のサトウキビ農家、石垣島のパイナップル農家が立ち行かない。

台湾から出稼ぎにきてパイナップル工場で立ち働く若い女性たちの笑顔。

「混血児」の多い小学校の運動会。

ガマから奇跡的に助かって生き延びた老婆も語る。


轟音の巨体・B52は沖縄の基地から戦地へ、次々と出撃。

※折も折、東アジア最大の米軍基地・嘉手納飛行場でB52の離陸失敗・墜落・炎上事故が起きた。近くの核弾頭格納庫に激突スレスレで、核爆発の可能性さえあったことがあとでわかった。映画ではB52反対運動が映されていたが、事故についての説明はなかったように記憶している。
この2年後、嘉手納基地の門前町でコザ暴動が勃発。核や化学兵器の存在は誰もが知るところとなっていた。

68年当時は、やはり現地で取材・撮影して映画にするには検閲や障害があったのだろうか。


原子力潜水艦の船体外部を清掃する潜水夫は、放射能漏れで被曝している可能性が指摘される。しかし十分な検査ができる本土の病院に行くことは許されず、島内の米軍関係病院での診察のみ受けさせられ、結果も曖昧なまま放置されている。
潜水夫は取材に黙して語らず、子供たちとの朝食シーンなどは撮らせるが、日々の暮らしのために今日も潜水艦のある港に出かけていく。


伊江島の基地として接収された土地を取り返そうと非暴力不服従の座り込み運動を続ける老人―――すなわち阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)氏が登場。
本島での「乞食行進」を始めて「島ぐるみ闘争」に影響を与え、さらになお伊江島の「団結道場」を拠点に闘争を続ける。彼の語りがこれだけしっかり収められた映像は他では見たことがない。

ロケ中に初の選挙で行政主席として当選し、復帰後は知事となった屋良朝苗氏が語る。
基地内の労働運動に尽力した上原康助氏も語る。
瀬長亀次郎氏の映像はむしろほんの一瞬。

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戦闘機の轟音と演習場の射撃音と怒りのデモとマイクで拡声される演説と武器兵器を作る工場の機械音と街頭の米兵にまとわりつく嬌声と子供たちの歓声とで騒々しい。
小さな列島の広い範囲から採取した乱反射する断片たち。

それは寄せ集めのように見えて、きわめてメッセージ色が強い。

ナレーションや字幕で問題意識を煮沸させる監督の疼きと義憤が感じられる。




『アイム・ノット・ゼア』
トッド・ヘインズ
監督
I'm Not There 2007年 2時間16分 米 録画
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ったくしてやられたぜ。

いけすかないほど粋でスカしてやがる。

ハメられたって言ってもいい。

予告編を見ずに、全く予備知識なしで見たらさ。


「ウディ・ガスリーだ」って名乗る黒人の少年がボブ・ディランだっていうんだから(笑)

主役が6人いて、それが全部ディランだって。
そりゃあまあ途中から気づき始めたけど、エンドロールで、・・・まさかね。

まさか、1行目に
「ケイト・ブランシェット」
って名前があるとは、
「?」
だってば。

え??
出てた?
どこに?

録画だから、巻き戻せた。
「!」
静かな衝撃の笑みを浮かべるオレ。

イケすぎてやがるぜ、ベイビー、ケイト、クール、ブランシェット、ヒップ、&ビューティホー!
たしかに、どう見ても彼女だよ。
まちがいない。
しかしわかんないもんだなー。
ずいぶんキャシャなヤサオトコだとは思ったさ。
そりゃ。

さてもぜいたくな。
スターのポエティックな競演。

ヒース・レジャー!
クリスチャン・ベール!
リチャード・ギア!
シャルロット・ゲーンズブール!
ジュリアン・ムーア!
ミシェル・ウィリアムズがココだって?!
メイクでわかんなかったよ。

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事前にトレイラーを見れば一目瞭然だったんだな。
見ないとずいぶんカオスだったぜよ、トッド・ヘインズさん。

それでもそれでも、このアーティスティックなまでにスタイリッシュでポエティックなイメージの波状攻撃に、右脳と左脳は衝突しあってバチバチしてた。

ディランさん、あなたってそういう人なのね。

★★★☆



『野いちご』 イングマール・ベルイマン監督
Smultronstallet 1957年 1時間29分 スウェーデン ベルリン金熊賞 録画
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★★★☆

おしえて!ドクター・ルース/ザ・パシフィック

2019年9月11日~16日


『おしえて! ドクター・ルース』
ライアン・ホワイト
監督
Ask Dr.Ruth 2019年 米 1時間40分 ドキュ
新宿ピカデリー
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現在91歳の小さくて元気なおばあちゃんは、セックスの相談役。
アメリカで活躍してきた超人気者だというけど、僕は残念ながら知らなかった。
NYにいた当時、相談したかったな。

映画は、性のお悩みをQ&Aでケース・スタディするタイプのものではなく、ルースばあちゃんの人となりを追いかける。
分厚い人物史を記録映像で紹介する硬さはまるでなく、深刻な部分はアニメをふんだんに使い、音楽も笑いも存分にとりいれたポップなエンターテインメントになっているのは、ルース本人がエンターテイナーであるがゆえの必然だ。

気さくな笑顔と快活さの陰に秘められた、ドイツ生まれのユダヤ人の悲劇がひもとかれていく。
両親をホロコーストで亡くし、戦後イスラエルに移住する。
ドイツ名だと憎まれるとのことで改名し、10代からなんとスナイパーとして兵役に加わる。

銃器のコレクションを懐かしそうに見入るルースには驚いたけれども、悲嘆にくれた当時のルースの内心は僕らには想像しようもない。
両親が亡くなった事実だけ知らされた少女時代。
そしてつい最近やっとその気になって、いつどこでどうやって亡くなったか調べた結果、曖昧な事実しか残されていないことを知る。
「ドイツ系ユダヤ人は人前では泣かないの。あとで泣くわ」
とポツリ。

140cmの小さな身体からは、
「悲劇を体験した私たちには、人を幸せにする義務があるのよ」
と偉大な言動と行動をみなぎらせる。

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それでいて、「政治は語らない」と断言するのは意外。
共和党か民主党か、という直接的なことは言わないものの、彼女の活動自体が十分すぎるほど政治的であることは、映画内でも言われていた通り、誰の目にも明らかだ。
「政治的なことで相談相手と距離をつくってしまうのがイヤなの」
というが、「中絶反対に断固反対」することは「反共和党」だし、赤裸々な性解放論のスピーチには、激高した聴衆が壇上に上がってきたりするなど、主張に相容れない人をたくさん生みだしている。

娘や孫との会話で、
「おばあちゃんはフェミニストでしょ?」
と訊かれて、断固として
「NO.私はフェミニストじゃないわ」
と答えるのも面白い。
追及されて、最終的に「それをフェミニストと呼ぶのよ」とフェミニストである孫たちに結論づけられて、笑っている。

わかる気がする。
ジェンダーが平等であること、ノーマルやアブノーマルなんてないこと、性についてオープンであること、AIDSを差別しないこと、などは、政治的な立場を云々する以前の、もっとフラットな問題だからだ。

真理はひとつ。
「大人がお互いに合意してするならベッドで何をしてもよい。キッチンでも床でも(笑)」

様々な場面で見知らぬ人から声をかけられ、
「おかげで救われたんです」
「自殺しなくて済んだ。命の恩人です」
と感謝される。

そんな彼女はニコニコして、
「もう食べた?」「これ食べる?」
と口癖のように、会う人に気を遣って声をかける。

一度死んだつもりの戦争体験者が、その後どう人生を生きるか。
このキャラクターあってこその功績だが、何度も生き地獄を歩んできた末の、このキャラクターであることに、また感動する。

父親から生前、「教育」「知識」の大切さを強く言われていた通り、意地でも学問を追求し、当時珍しかった「シングルマザー」になりながらも、全身で万人に説いてフロンティアを歩く姿は、旧約聖書の救世主さながらだ。

91歳の今も予定表はぎっしり埋まっている。

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僕としては、現代の性の悩み相談を問答するケーススタディや難問の提示をしてくれるものだと期待していたので、その点では残念。




『ザ・パシフィック』
The Pacific 2010年 米
制作 HBO
Amazon プライム・ビデオ
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S.スピルバーグ、トム・ハンクスらが製作総指揮した10回シリーズのTVドラマ。
200億円の巨費をかけて、太平洋戦争を描いたアメリカ作品。

米海兵隊の南太平洋~硫黄島・沖縄戦線。
つまり敵は日本軍=ジャップである。

世界大戦の映画のほとんどはヨーロッパ戦線だ。
日本を敵にしたアメリカの戦争映画は意外と少ない。

ざっと調べてみると、最近では『シン・レッド・ライン』『ハクソー・リッジ』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』ぐらい。
昔をさかのぼっても、『地上より永遠に』(1953)、『トラ・トラ・トラ!』(1970)、『ミッドウェイ』(1976)くらいしかない。

その意味で、このTVドラマはとりわけ日本人にとって貴重。
「ジャップ」という呼称が一般名称として飛び交い、「ヒロヒト」の元に「神の赤子」として狂信徒たちが特攻する「神国日本」のおぞましさや、それに対する米兵たちの驚愕も描かれている。

もちろん、スピルバーグだけに日本兵をモンスターや亡者のようにデフォルメするような演出は皆無であるし、戦争によって気がふれていくという病理、殺人鬼に変貌していく必然は米兵も同様であることが克明に描かれている。

原作は、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』ロバート・レッキー『南太平洋戦記―ガダルカナルからペリリューへ』
すなわち、ドラマの主役のうちの二人によって書かれたノンフィクションを中心にまとめられた実録もの。
登場人物の名前はすべてそのままで、最終話のエンディングには後日譚が紹介される。

すべて海兵隊のなかの話であり、「海兵隊」というものが陸・海・空軍とちがってどういう役割と特徴を持ったものなのかが自ずとわかる。
「ならず者集団」だという固定観念も一旦捨てさせられる。

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なんといっても、戦場をリアルに再現した精細な映像技術は見もの。
ただし、すでに『プライベート・ライアン』が高度なCG映像で1998年に世界を驚嘆させているだけに、その10年後のものとしては、それと「同等」の高いレベルという言い方で褒めるしかない。

実話を元にしているということもあり、いわゆる映画的な奥行きや深さと比べると、人間関係とくに男女の物語は浅く、TVの限界が感じられる。
監督は各回持ち回り制になっていて、均質さが求められてしまう。

たとえばテレンス・マリック監督による『シン・レッド・ライン』のように、人間の愚かで理不尽な行いに対する嘆きや問いかけ、神の視点や哲学的洞察を一貫して追究するほどの執拗さは持ちえない。

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日本から見た太平洋戦争ものの映画では、日本軍特有の「バンザイ」特攻精神や、食料なしで戦闘続行を強いられる絶対服従や、戦闘より飢餓で死ぬ実態や、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓による集団自決や、捕虜や女・子供を含む民間人までも虐殺する蛮行が描かれてきた。

その点、この米映画が描く戦場では、米軍の狂気は狂気でも、「ジャップだから殺すんだ!」と叫びながらも、民間人を一人殺しただけで口論になる程度の一線は保たれている。

上官には歯向かうこともあるし、腹はへっていても飢餓で死ぬほどではなく時折そこそこの食事がふるまわれる。
その辺はやはり日本軍とは優に差がある。
小綺麗な看護婦や綺麗すぎる女軍曹までいる。
主役のひとりはその美人サージェントと恋仲になって戦地で結婚しちゃうんだから、なんて余裕なんだ(笑)

ただし、あらためて気づくことがある。
主人公が米兵で、敵がジャップなら、日本兵が現れるとつい「撃て!」と反射的に反応してしまう。
恐るべきニンゲンの本能。
だからサバゲーとかシミュレーションゲームは嫌なんだ。

全10編を通していちばんのクライマックスは第9章の沖縄編だろう。
米軍にとっても3か月近くの沖縄戦は永遠に続くかと思われたほど長く苛酷なものだったらしい。
本土の捨て石になり、文字通り捨て身で向かってくる民間人たちの鬼気迫る様相を知るには、この9章を見るだけでも価値がある。

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のちに『ボヘミアン・ラプソディ』で米アカデミー賞主演男優賞を受賞することになるラミ・マレックが、部隊の主たる一員として粗野な役柄で味を出している。

公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/thepacific/mainsite/

★★★☆

ドッグマン/聖なる泉の少女/火口のふたり

2019年9月1日~8日

今年いちばんの殺伐と静謐と猥褻と。


『ドッグマン』
マッテオ・ガローネ
監督
Dogman 2018年 伊・仏 1時間43分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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得体が知れない。
迫力だけでグイグイ押し込んでくる。
「この映画がスゴイ!」と叫ばれるタイプ。

このマッシヴな圧力をどっちに逃がそうか、勘がつかめずに迷っているうちにさらに攻め込まれる。

からんでくるマッチョな男は不可解な異界人。
しかし、からまれる主人公は、何を考えどう感じているのか、尚更わからない。

さびれた風景がうすら寒い海辺の町。
工事が頓挫したらしい建設物の錆びついた脚の下、浜辺のように水たまりの多い殺伐とした吹きっさらしに商店が幾つか並び、その端に「ドッグマン」という犬のトリミングサロンがある。

店主マルチェロはねずみ男のような声と風貌の小男で、店内も殺風景だが、真面目に仕事をこなし、小学低学年くらいの娘とは仲がよく、二人で旅行に出るなど一見幸せな生活を送っている。

しかしシモーネという「友人」がやってくると瞬く間に反転する。
暴力とドラッグに溺れ、思考回路が極端に短い彼は、衝動のおもむくままに素行不良と破壊を繰り返す。
シモーネは本当にマルチェロの友達なのだろうか?

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シモーネは「ダチだよな?」と言って何かにつけマルチェロを利用しようとするが、マルチェロはいつでも初めは友達としてつき合おうとした結果、毎回裏切られたり後始末をつけさせられたりする。
弱みを握られているわけでもないのに、なぜかおどおどしながらつき合っている。
街では知られた厄介者で、近所でも「もうあいつは殺すしかない」と本気で考えられているにもかかわらず。

理不尽な圧に耐えたり耐えかねたりする主人公の心理が、こちらの理解を超えていて、なかなか感情移入ができない。
常識的に拒否するレベルから、その閾をいつのまにか超えていき、服従モードに入る。
積極的に服従するかのように見えるときもある。
ただ単に金の分け前がほしいという動機もある。

それにしてもなぜ、最愛の娘がいながら、その幸せを放棄してまでもシモーネとの関係を保とうとするのか。
しまいには、とんでもない自己犠牲までして奉仕する。
相互依存にしても度を超している。
そして、行き着くところ、マルチェロも暴力の果てに、狂気に走る。

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得体のしれない強力なものに翻弄されるということ。
それは、自ら服従するということと不可分なのか。
損得とは無関係なのか。

理解はできないが、人によってまったく異なった解釈やいろんな感情を生むだろう。

犬の吠える声と、表裏反転する劇伴が未開の地へ連れて行く。

ラストのマルチェロの、茫然としながらとる行動は、狂気に混じった自己承認欲求が浮き出てきて、切ない。
我に返ったのか返っていないのか悄然として宙を見つめる彼を、長回しで捉えるラストショットは、シモーネのモンスターぶりよりはるかに印象に残る。
カンヌ映画祭主演男優賞を受賞するのもうなずける。

★★★★



『聖なる泉の少女』
ザザ・ハルヴァシ
監督
Namme 2017年 グルジア・リトアニア 1時間31分
岩波ホール
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今年最も美しい映画のひとつ。
5本の指におさまらないが。
(これまでは『ローマ』『私の20世紀』『COLD WAR』『バーニング』『パラダイス・ネクスト』

グルジアの田舎に、靄がたちこめる。
山々に、荒野に、湖に。
雪の大地に、黒の衣装。
モノクロのトーンは水墨画のよう。

神々しくも美少女は白と黒のあいだに憂い、色に浮き立つ。
聖なる力を呼び起こす、静かなひとり謡い。
民族の快活な音楽とのコントラスト。

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極端に少ないセリフ。
映像が物語る自然と霊性。
家族が映されるだけで、懊悩が沁みてくる。

無駄な文明による自然破壊も、ワンショットで暗示する。
人間の短絡な合理性と、自然との不調和。

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グルジアの訴える命題と、映画の持つ美の使命が、一つの地平に重なる。
映像の美しさのみならず、映画の原型と理想が何たるかを物語ってくれているのだ。

★★★★☆



『火口のふたり』
荒井晴彦
監督・脚本
白石一文・原作
2019年 日本 1時間55分
アップリンク渋谷
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荒井晴彦の脚本は、いつだって昭和の香り。
今回も、劇伴が下田逸郎というのはなぜなんだ。
湿っぽくなりがちでかなわない。

ところが意外なほどあっけらかんと明るく、会話のユーモアで思わぬ笑いが客席から何度も起こるほど。
男女たった二人だけの演技は、女がやたらと過去を引っ張り出してくる時点では、荒井晴彦お得意の情念の世界への導きかと思われたが、進行するにつれて、きわめて“今”の男女が納得しやすいダイアログの応酬でできあがっていく。

瀧内公美演じるナオコが、強引に柄本佑演じるケンジとの肉体関係を再燃させる序盤では、ケンジも内心ナオコの心が摑み切れていなかったが、「火口」の写真が徐々に二人のあいだの過去の空洞を埋めていき、3.11の災害や「自衛隊」の存在も、二人の運命的な物語の上書きを補強する。

結果、元々「いとこ同士」という因縁や、もうすぐ結婚する新郎の存在が阻んでいた障壁さえ取っ払い、新たな運命共同体を結び合う。

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「子どもを産むために結婚すること」のどこがわるいのか。
「子供がいるのに離婚すること」のなにがいいのか。
自衛隊と結婚することは、大震災を他人事としてきた自分への罪滅ぼしか。
など、きわめて現代の宿痾をもつ男女が「今」の自分を見つめ直す。

その決定的なきっかけとなったのが、終盤に例の「火口」が物理的に再燃することだというのが面白い。
少し現実から浮かした設定のおかげで、関係性も浮き立ち始める。

セリフやPRで言われているように「身体の言い分に身をゆだねる」ことがテーマなのか。
僕には少し違うように思える。
結婚前の最後の5日間に、肉体的に親密になったことを通して、それぞれの過去を清算し現在を見つめ直し、むしろメンタル的に自然な方向へと舵を切ったということだろう。

今回、二人の間には、過去の背景に悲劇的な宿命や切実なメロドラマはない。
ふたりの関係性のドラマとしては深みに欠けるかもしれない。
でも、それが「情念の荒井」の看板ぽくなくて、3.11以後のドライな「今」の新しさと、スッキリとした後味を生んでいるとも言える。

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原作から脚本を立ち上げるにあたって、舞台を福岡から秋田へ移し、地元の盆踊りを取り入れた。
エロチックな白黒写真を刺激的にフィーチャーしたのも映画的にイケてる。
食べるシーンがセックスシーンと同じくらい多いのは、多分意識してる。
原作とのちがいは詳らかではないが、発想が面白い物語だ。

★★★★



■他の鑑賞作品■

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
クエンティン・タランティーノ監督
Once Upon a Time... in Hollywood 2019年 米 2時間41分
TOHOシネマズ川崎
★★★

『白い沈黙』
アトム・エゴイヤン監督
Captive 2014年 加 1時間52分 放送録画
★★★★

カメジロー2/ひろしま

2019年8月24~31日


『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
佐古忠彦
監督
2019年 日本 2時間8分 ドキュメンタリー
ユーロスペース

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カメジローのいた沖縄

沖縄にカメジローあり。
カメジローなくして沖縄の自治なし。

「不屈」
という言葉を体現している強い志のウチナンチュは多いが、みな瀬長亀次郎の手書きの「不屈」二文字を励みにしたのだろう。

勝つということは、あきらめないということ。
それが精神論ではなく、七転び八起き以上の排除と再起、その実行と継続によって実証されてきたことに、ウチナンチュは勿論、この映画を見る本土の人間も勇気づけられる。

沖縄史を描いたものにしては奇跡的に、観る者におのずと元気をもたらしてくれるのだ。

2年前の第1弾と比してとくべつ目新しい事実はないものの、カメジローの残した膨大な日記を今回すべて繙いた佐古監督は、当時の彼の頭の中で起きていた内面の事象を探り、掘り起こし、もうひとつの親近感あるカメジロー像を追うことに成功している。

全編を通して印象に残るのは、日記の手書きの字面と、彼のインタビューやスピーチの映像である。

たとえば米国民政府から那覇市長職を無理やり剥奪され刑務所に入れられた当時の、幼い娘や妻とのやりとりが、本人の走り書きした文字や親しい間柄の証言や手紙で明かされるが、どれも悲しみや怒りよりも誇りや親愛の情の方がこぼれてきて余りある。

とくに娘・千尋さんが父親としてのカメジローを思い返して語る表情もいい。
(彼女とは那覇の「不屈館」でお会いできますよ)

演説だけではなくて、カメジローが気さくに語る話しっぷりもまたいい。

亀次郎氏が晴れて衆議院議員として沖縄返還前の国会質問に立ち、佐藤首相に対して決然と詰め寄り、堂々と沖縄の血の涙を代弁する意気高らかな弁舌を聞いてほしい、見てほしい。前作よりも長いフッテージを目撃できる。


「基地を沖縄に存続させ、いざという時には核をも持ち込める」という密約を米国とかわしたうえでの「返還」だ。
そこを事前に追及するカメジローと、しらばっくれて「核なし、基地本土並み」を押し通す佐藤。
そんな裏切りの「政治屋」が、よくぞノーベル平和賞など獲ったものだ。
(ただし、甥の安倍晋三と人格的にちがうところは、亀次郎の著書『民族の怒り』『民族の悲劇』の2冊を「貸してくれ」と頼み、「あげます」と差し出されると、「佐藤の名を入れてサインを」と頼んだというエピソードだ。敵に敬意を抱くことができる人ではあったらしい)
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大袈裟太郎のいる沖縄

同じ日の昼間、新宿歌舞伎町の「ロックカフェ ロフト」にて、大袈裟太郎×石原岳 ライブトーク・イベントに参加してきた。
二人とも本土から沖縄に移住したミュージシャンかつ民主活動家で、大袈裟太郎氏は3~4年前から(石原岳氏は高江ヘリパッドの話が持ち上がる20数年前から)、基地反対運動や選挙活動に加わり、身体を張った取材や、映像やSNSを駆使して、現地からの生の情報を送り届けてくれている闘士たち。
僕にとっても大袈裟太郎のレポートや映像は、見えないところを見せてくれる「窓」として機能してくれている。
彼の直近の動向としては、香港の「反中送」デモにしばらく身を投じて取材・ネット投稿をつづけ、帰国したところ。

現在の沖縄の現実は、この3~4年だけでも日本政府からの横暴と弾圧、理不尽な憲法無視、選挙や住民投票の民意無視が当たり前のようになっている。
「オール沖縄」という、保守もリベラルも巻き込んだ共闘を実現してきた翁長知事亡きあと、共闘体制の地盤もやや不安定になりつつあるようだ。
元々「オール沖縄」には「高江」が含まれていない、などの矛盾も孕んでいる。

そんな中で市民側の立場で、遊撃手のように動き、犠打やダブルスチールを狙うようなサポートをする大袈裟太郎だが、「一歩踏み出すごとに地雷を踏む(笑)」(石原氏の弁)ようにネトウヨからの攻撃やリベラル同士の分断や内紛に巻き込まれて、いまどきの市民運動の難しさを極端な形で体現する体験レポートともなってしまっている。

いまやフェイクニュースの主戦場である沖縄では、今年あたりから選挙前は相手陣営のネット・デマ戦術に対抗するために、デマ元を発見ししだい根拠を見せて叩く、というカウンター戦術を若者たちが主導して組織立てた。
大袈裟氏も中心になり、明らかに結果につながっているようで、そこは希望が持てる。
選挙戦も市民運動も新たなフェイズに入っている。

精魂尽きてノイローゼ状態で台湾に目を向けた大袈裟氏は、石垣島からは台湾が目と鼻の先で、沖縄本島に行くよりも断然近いということをあらためて発見。
3万年前に台湾から渡ってきた日本人の祖先と同じルートを逆にたどることに図らずしてなった道程が面白い。
香港・台湾から、沖縄そして日本を臨み思いを馳せるとき、その視線は東アジアから見たアジアの交流の必然であり、国境のない海洋交易を憧れる眼差しではなかったかと勝手に共感する。
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カメジローのいない沖縄

それはさておき、カメジローが今の沖縄を見たらどう思うだろうか。

ある意味、何も変わっていない。
それどころか、基地の占有面積は本土に対して増加の一途だった。
もちろん、「不屈」の精神で辺野古新基地建設や高江ヘリパッド工事を命がけで阻もうとするウチナンチュには、「二度とこの島を戦場にしない」という堅い約束が貫かれてはいる。
しかし、若い世代の無関心、目の前の生活や利得にだけ向かう関心、という人々の状況は本土と五十歩百歩だ。

「Protester」を「暴徒」と訳す香港メディア。
火炎瓶を投げたのは実は市民に変装した警官だった。
韓国の「反アベ」を「反日」と訳す日本メディア。
辺野古ゲート前での座り込み活動も常に本土では「反乱分子」「暴徒」と見なされる。
運動のリーダーを見せしめ逮捕して不当拘束5カ月。

ゲート前で座り込みをする「仕事」には中国共産党から「日給と弁当が出る」という根も葉もないウワサが、高江住民のあいだでさえも信じ込まれていたという仰天のエピソードを、石原岳氏は語った。

国権濫用による住民買収と分断、抗議活動の弾圧。

「米国民政府が去っても、代わりに日本政府が支配・弾圧し、捨て駒にするだけ」とカメジローの予測していた通りになった。

大袈裟氏の香港のリアルタイムの映像を見て、こうも思う。

あれだけ警察が市民に対して発砲したり暴力を振るったりすることは、さすがに今の日本ではないな。
いやいやしかし、沖縄では戦後ずっと米国民政府や琉球政府によって続けられてきたのだし、今も米兵らによるレイプや軍機墜落は引きも切らない。

瀬長亀次郎や阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)という融和的な抵抗のカリスマがいなかったら、沖縄の抵抗運動は成功しなかっただろうが、今回のドキュメントフィルムを見てあらためて不思議に思う。
よく米軍に潰されなかったな。
カメジローはいつ暗殺されてもおかしくなかった。
でも、それをしたら収拾のつかない暴動に発展するだろうと米国民政府が判断したのだ。
コザ暴動が死者を出さずに済んだのも、民衆側に自制能力があったからと言われている。
亀次郎・阿波根らによる自律的運動メソッドが、最低限の秩序を守ったのではないか。

では、僕らはカリスマが必要なのだろうか。

いや、カメジローのような人物はもう出てこないだろう。
待っていても埒があかない。
それよりも、彼の名言を思い出そう。

「小異を捨てて大同につく」ではなく、
「小異を残して大同につく」のだ。

政治の世界では前者が普通のように言われてきたが、よく考えれば、一般的にはたとえば結婚とか、仲間内で何かをやろうとするときには後者が普通だ。

オール沖縄じゃなくても何でもいいけれど、国会会派でも野党連合でも、「小異」を捨てようとしてるから共闘できないのだろうから、小異を前提に話を進め、ぜひ大同団結してもらいたい。
そして市民レベルまで巻き込んで「オールジャパン」として日米地位協定の平等化や基地削減に取り組んでもらいたい。
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「瀬長亀次郎」という名前を知らずに、沖縄に遊び行くことは許されない。
僕も50代まで知らなかったが、だからこそ言うのである。
知る前と知ってからとでは、見える風景が違うのだから。
「知らない」ということは「罪」だと、何度も思い知るのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=TX2aK9tuxIk
予告編動画です。


   ~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~

過去長いあいだ、自主上映に任せられてきた幻の名作が、ついにNHK地上波で放映された。


『ひろしま』
関川秀雄
監督
1953年 日本 1時間44分
TV録画
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原爆投下後8年目で、
被爆者自らが多数ボランティアで出演し、
市民エキストラ8万8千人で広島の阿鼻叫喚の惨状をリアルに再現する、
という離れ業をやってのけた。

地獄絵図の記憶が強烈に残っている時期に、わざわざトラウマによるフラッシュバックを呼び起こすかのようなことをさせるのは、本来は公衆衛生上も教育上も勧められないことだろう。

しかし、製作は日教組だ。
長田新が編纂した文集「原爆の子」が原作だが、新藤兼人のシナリオを「リアルじゃない」という理由で拒否し、独自に企画。
結果、壮大な規模の、精緻な美術の、鬼気迫る演技の、世界に誇れる超大作となった。

同時に、一方でこの作品をとりまく日本映画界は、映画史的に恥ずべき汚点を残してしまった。
国内での配給・上映が拒否されるという事態になり、以降お蔵入りの幻の作品となってしまったのだ。
当時はすでにGHQの統治からは解放されていたものの、「反米色が濃い」と米国を気にして大手が自主規制したという。
国内外に原爆と為政者の非人道性をアピールする最良の手段を作り上げたにもかかわらず、自らその宝を日の当たらない水底に沈めてしまった。

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前半の大半を、被爆直後の再現シーンが占める。
観ているこちらは唖然として口が半開きになったままだ。

実際の撮影現場では、トラウマ発症の事態があったのかどうかは知るところではないが、被災した一般人がなぜここまでできたのか、不思議でしょうがない。
幼い子供から老人まで、あの光景を多くの人に知ってもらいたいという気迫がこもっていたとしか思えない。

映像技術的には今ならいくらでも精密にVR的に作ることはできるだろう。
しかし、体験者自らが生々しく脳裡に、肌の感触に残るできごとをありのままに再現することに勝る表現方法は、後にも先にもないだろう。

モノクロで、焦げた死屍累々がつづき、黒煙がたなびき、真っ黒な血と、墨のような雨と、暗灰色の川が流れている。
そこにまた人の群れが自ら入って沈みつつ流れていく。

もっと残酷でグロテスクなことは実際には勿論たくさんあったろう。
皮膚はもっと爛れてぶら下がっていただろうし、もっと焼け焦げていただろう。
月丘夢路は、顔だけはきれいなまま見せていた。でもこの広島出身のスター女優は松竹専属のところを会社に嘆願してノーギャラで出演したのだった。)
でも、さすがに作品として公開するには、描写できる限界はある。
その点でも漫画『はだしのゲン』の右に出るものはないのでは。
実写なら目を覆うシーンも、絵でふんだんに盛り込まれている。

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前半の被爆の惨状以外にも、注目すべきポイントは数多ある。

この惨状を前にしてもなお、原爆投下自体を隠そうとする。
玉音放送前の大本営だけではない。
戦後統治したGHQしかり。
原爆症治療を度外視して、人体実験としての米政府の特命を優先し、研究者レベルでも政治レベルでも長年色々なことが伏せられていた。

中学校の教室のシーンでは、戦後5年くらいなのに原爆症について知っている人が殆どおらず、担任の先生でさえ、よそから赴任してきたために知らなかった。
白血病を発症した生徒を、知らずにからかう生徒たち。

原爆症の級友を見舞いに行った病室で、仲間が集まって原爆の真相が書かれた書物を読む会を開いているシーンがある。
「あっさりと新兵器のモルモット実験に使われてしまった」
「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」
というセリフなども含め、こうしたアメリカの非人道的な部分が自主検閲で削除要求されたらしい。(製作者側は断固突っぱねて削除しなかったが)

被曝した人骨を掘り出して、米国人に売りに行くシーンもある。

両親を亡くし戦災孤児(浮浪児)となった少年が辿る苦難は、後半のメインストーリーとなっていて、ドラマとしてもしっかりできている。
子どもも大人も、素人にしては演技がうまかった。

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当時36歳のスター山田五十鈴も出演していて、けっこう汚れ役の覚悟で臨んでいる。
(彼女は夫・加藤嘉の影響で「人民女優」と呼ばれ、レッドパージにあっていた時期があった)

日教組がこのようなすばらしい作品を製作したという点は、再評価されるべきだと思う。
ただし、だからこそ忌避する人もいるだろうけれどもね。

★★★★☆

熱帯魚/ラブゴーゴー/永遠に僕のもの

台湾映画といえば、いまや胸キュン青春ドラマのメッカ。
その流れの先駆け的存在と銘打たれているのが、チェン・ユーシュン監督なのだそうだ。
その90年代の代表作2作品がデジタル・リストアされ、このたび劇場公開された。

80年代から90年代半ばまでは、ホウ・シャオシェンエドワード・ヤンツァイ・ミンリャンたちが「台湾ニューシネマ」と称されるムーブメントの中で社会派・芸術派作品を輩出したが、それが過渡期に入る頃、チェン・ユーシュン監督が出現。
それまでとは一線を画す親しみやすい作風で新風を吹かせたが、95~97年に2作品を残しただけで、なんと映画界から長い間姿を消してしまった。(20年後の2015年に『祝宴!シェフ』で復活)

すぐ後にイー・ツーイェン監督がピュアな思春期物語の金字塔『藍色夏恋』(02)を発表したが、やはりこの1作で沈黙してしまう。

二人ともCM制作に移ったらしいのだが、奇しくも台湾国産映画が10年間ほど低迷期に入った時期と重なる。

そして、『海角7号』(08)『あの頃、君を追いかけた』(11)あたりから、瑞々しさが売りの青春映画がブレイクしていく。
アイドル的ヒロインを起用した直系のルーツは『藍色夏恋』かもしれない。

チェン・ユーシュンの2作は、「親しみやすさ」という点では先駆者だろうが、作風のタッチはそれほど大衆向けの俗っぽさはなく、エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』風の落ち着いた編集センスが残っている。
そして、アイドル的主役を置いていない。
目立つのはむしろアマチュア感であり、素人を多用しているのも特徴。


『熱帯魚』
チェン・ユーシュン
監督
熱蔕魚 Tropical Fish 1995年 台湾 108分
K'sシネマ
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東アジアでは学歴社会化が急速に進んでいるらしいが、台湾のそれは四半世紀以上も前にここまで過熱しているのか??と、映画で見る限り椅子からズレ落ちそうになる。

それは風刺デフォルメなのか、真偽が不明な点がまた、すっトボケたB級のオフビート感として楽しめる。

高校受験が一生を左右する一大事とされる社会で中3生をやっている少年。
そういえば、始まりの設定はツァイ・ミンリャン監督の『青春神話』と同じだ。
しかし、そこからの破天荒で無軌道な道筋は、正反対のノリ。
青春神話の主人公が不機嫌にドロップアウトし、自らフラストレーションを街の暗部で吐き出すのに対し、この熱帯魚好きの夢見がちなツーチャン少年は、ボーっとしているうちに誘拐事件に巻き込まれてしまい、ずっとその後も受動的な巻き込まれ型の話が進行する。

裕福な一家の小学生を誘拐したものの身代金の受け取りがうまくいかない誘拐犯は、思わぬ事態でやむなくツーチャンを巻き添えに、台北から南部の田舎の実家に向けて逃避行する。実行犯自身も消極的で、人のよさばかりが目立ってしまう。田舎の家族たちは祭りのいかがわしい興行師たちで、自分たちも誘拐の共犯者になりながら、事件がTVで報道されると手を叩いて大喜びするお調子者ぶり。

一方で台北のツーチャンの両親はごく一般的な核家族で、受験を目の前にした誘拐事件に卒倒しそうな慌てぶり。それは当然なのだが、「命だけは助けて」という声があまり聞こえない。報道が過熱するにつれ、社会の声は国中を巻き込んで、
「受験に間に合うか」
という一点に集中するようになる。

のんびりした田舎の犯人側家族も、「そりゃ大変だ」とばかりに、受験用参考書を買ってツーチャンに勉強させる。少年も言われるままに勉強を始める。
身代金も大事だが、受験も大事だ。世界は少年の受験を中心に動いているのだが、当の本人は犯人家族や小学生との交流で、夏のリゾート気分だ。
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ここにツーチャンの純愛ストーリーがからむ。
犯人家族には、受験を諦めさせられた少し年上の少女が家事専業で働いていて、少女には少年や家族に対する複雑な思いが去来していた。
少年と少女の熱帯魚をめぐる手紙が切なさを刻み付ける。

結末は、犯人家族がヒーローになったりする波乱もいい味付けで、無事ハッピーエンドを迎えるのも見事な予定調和。

この「おもしろかなしずむ」は、北野武『菊次郎の夏』に通じるが、こちらの方が数段面白い。

★★★☆


『ラブゴーゴー』
チェン・ユーシュン
監督
愛情来了 Love Go Go 1997年 台湾 1時間55分
K'sシネマ
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「ダサい」が「ウザい」に変わる一歩手前で「カワイイ」になる。

登場人物はおしなべてショボくてショッパイ。
例外的な美女は不倫で泥沼にドボドボ、かわいい系イケメンは不器用で仕事がダメダメ。
なんといっても主役のケーキ職人はどこから見てもサエない容姿。
パン屋のお母ちゃんはお喋りで声張りすぎ。
若いオデブちゃんは食い意地はりすぎ。

しかし、誰もが恋をする。
懸命に恋をするときは、失敗しても笑えない。

主に3つのストーリーが、主役を替えて人物を交錯させながら、群像劇のように進行する。

ブサカワ・ケーキ職人が、TV画面から片想いの相手に愛の歌を歌い上げる終盤のシーンは、ダサさを極限まで引き上げたうえで、美女に泣き笑いさせる。
愚直に頑張った末の勝利だ。

小市民の恋は、かなしくもあたたかい。
恋じゃないところでは笑わせ、恋のところではホロリとさせる。
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手紙がここでも効果的に使われている。
文面を読み上げるときに何を映すかという点では、様々な技法が学べるはず。

ブサカワの二人、ケーキ職人の主役男性は裏方スタッフで、オデブちゃんはTV業界のマネージャー。
この大抜擢がいい味を出している。

★★★☆

※こんな記事を見つけました。
なかなかの選択ではないかと。

「見ておきたい台湾映画ベスト10」
https://www.taipeinavi.com/special/5047162



『永遠に僕のもの』
ルイス・オルテガ
監督
El Angel 2018年 アルゼンチン・スペイン 1時間55分
109シネマズ川崎
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鮮烈な主人公の破天荒なストーリー。
この主役のロレンソ・フェロ20歳を発掘した時点でこの映画は約束されたと言ってもいいだろう。

17歳の“黒い天使/紅い悪魔”カルリートス(ロレンソ・フェロ)はきわめて中性的でむしろアンドロジーナス的(両性的)容姿だが、実際年齢20歳のフェロの体型はもっちりのしもぶくれでむしろ幼児体型なのでセクシーなのかどうか僕にはまったくわからない。
だからではないだろうが、濡れ場が一回も出てこないのはファンを失望させはしないかと、僕は勝手に気にしている。
それどころか彼の備え持つ魅惑の紅いくちびるにだれもフィジカルに触れていないのは想定を大きく外している。
嫉妬を徒らに呼び込まないためにはよかったのかな。

表情は見るたびに変化(へんげ)し、かわいくも奇抜にもなるのが魅力でもあり、カジュアルにドロボーし、面白半分に銃を撃ち、平然と人を殺す実在のモデルのキャラをデフォルメするにはうってつけなのだろう。
真っ赤なフェミニンなセーターに赤いブリーフ、車の内装も赤。
そして濃いピンクのくちびるにコケティッシュなファニーフェイスは、僕から言わせればフェロは「赤いオバQ」あるいは「チブル星人」と呼ぶのがお似合い。

そんなカルリートスをいちばん映画的にグッと来させたのは、部屋で一人で身体をくねらせて踊るシーン。
冒頭だけでなく、ラストはとくにいい。
スペイン語の歌曲が頻繁に使われ、ポップさと情緒が加味される。
ゲイ(バイセクシュアル)としての刺激的な描写は排し、カルリートス(カルロスちゃん)の孤独を最終的にきわだたせた切なさが光っていた。
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相手役のラモンは対照的なタイプ。
「どちらがタイプか」という話に自ずとなるが、もちろん僕としてはどうでもよくて、その二人が鏡の前で並んで「チェとフィデル」と言ってゲバラとカストロを気取ってポーズをとるところにはシビレた。
どちらも全然似てないんだもん(笑)
でも、二人には彼らがヒーローだったんだな、と明快にわかる。

ペドロ・アルモドバルがプロデュースしたアルゼンチン映画。
いかにもペドロ的な内容を、次世代の39歳が演出した。
ルイス・オルテガ監督も音楽を惜しみなく使い、色彩や刺激に満ちた映像表現は得意のようだが、過剰なドギツサ、鮮烈で切実な息苦しさは、ペドロやグザヴィエ・ドランほどには到っていない。

★★★☆


I’m sorry, but
個人的な判断基準としては、地味に静かに人の奥底を暗示しドキリとさせる映画か、予測不可能で常識外れなギリギリ・ワクワク感で痺れさせる映画のどちらか両極に振れた作品に高評価を与えたいのです。

メランコリック/隣の影

2019年8月3~4日

ブラック・サマー、ひんやりサマー

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『メランコリック』
田中征爾
監督
2018年 日本 1時間54分
アップリンク渋谷
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お風呂屋さんの雰囲気とは対極に、真夜中は殺人処理場。

宣材のグロっぽい写真とは掛け離れて、むしろゆるゆる温泉気分。

オタクでコミュ障の東大ニートかと思いきや、意外と恋愛上手。

裏稼業に手を染める男は、家に帰ればほのぼの家族。

金髪バイト仲間は、切れ味鋭いプロの殺し屋。

主役・和彦は、現実世界ではイケメンでプロデューサー。

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いろんな意味でギャップばかりの、想定外に笑える映画。

ブラックジョークかというと、そうでもない。
笑える部分は、ほとんどが「ほんわか」したハートウォーミングなユーモアなのである。

特筆すべきは、会話のセンス。
間が抜けていながら、気の利いたやりとりに、新人監督の類まれな才能をみる。

主人公和彦のキャラにも笑えるし、オフビートな話と、セリフのセンスに、二ヒヒヒヒーーーっと、何度もこみあげてくる。

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★★★★



『隣の影』
ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン
監督
Under The Tree 2017年 アイスランド・デンマーク・ポーランド・独 1時間29分
ユーロスペース
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あえて暗い室内。
冷え切った関係、煮詰まった閉塞感。
笑えないブラックセンス。
そして引き攣るような劇伴。

同じサスペンスやクライムものでも、たとえば中南米の熱気と陽気でカラッと(またはジトっと)したノリと空気感とは、こうも真逆にできるものなのかと。
対比してみれば圧巻の北欧ムード。

アイスランド映画。
『馬々と人間たち』は滑稽さやブラックな苦笑が勝っていた。
『ひつじ村の兄弟』では、滑稽さと悲哀が表裏一体のグレーで、笑いまでいかなかった。

この『隣の影』は、完全に墨のようなブラックである。
途中までは、オセロが引っくり返るときが来るのかな、と淡い期待もあった。
「普通ならここからはブラックジョークにするよな」という形勢でも、笑えないどころか、ドミノ倒しで最後までいく。

カタストロフィだ。
とくに終盤は、あれあれ、あれれ、とついに加速度的に阿鼻叫喚に達する。

「エントロピー」の増大というほどの熱量は感じられないまま、冷たい憎悪が冷え切った末に破裂する。

ラストのオチも、さらに凍りつかせるのみ。

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隣人トラブルというのは、どこでもよくある話。
たいてい、小さなことだったはずが、コミュニケーション不足で妄想や恨みを増幅させていく。
うちのとなりもそうだ(苦笑)。軽いレベルで。
隣国もそうだ。重いレベルで。
今の日韓は政府レベルで何をやってるんだか。

監督は
「これは僕なりの反戦映画だ」
と言っている。

★★★☆

『軍旗はためく下に』

2019年8月3日

『軍旗はためく下に』
深作欣二
監督
1972年 日本 1時間36分
新文芸坐
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いわゆる戦争映画とは異なり、1971年から物語は始まる。
黒沢の『羅生門』つまり芥川の『藪の中』の手法。
内容はなんと『ゆきゆきて神軍』だった。

結城昌治の直木賞受賞作を深作欣二が熱望して映画化し、米アカデミー賞日本代表にノミネートされた作品。

原作の小説を読んでいないので新藤兼人らとの共同脚本でどこまで構成を変えたのかはわからないが、戦争の惨禍のさらなる裏の暗闇にスポットを当てるために、鮮烈な効果を生み出している。

記録映像(写真)とナレーションを多用しドキュメントタッチで進めながら、戦後26年たっても戦争未亡人サキエ(左幸子)が夫の死因を追い求める姿を追う。

夫・勝男(丹波哲郎)の戦死通知ハガキには「戦死」が「死亡」に書き変えられ、「戦没者リスト」に載っていないため、靖国に祀られず、遺族者年金ももらえないまま。
「敵前逃亡として現地で軍法会議にかけられて処刑された」と告げられるだけ。
裁判の記録も何も残っていない。

「お金がほしいわけじゃないんです。ただ、どうやって死んだか、事実が知りたいんです」
「戦没者慰霊式で、天皇陛下と一緒に花を手向けたいんです」
と毎年終戦記念日に役所に訴えつづけるサキエ。

その年、例外的に、部隊の生存者で当局の照会に返信しない4人を教えられ、直接訊いてみては?と苦肉の策を示される。

闇を暴くサキエの全国行脚がスタートする。

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ところが、ある人は勝男を「すばらしい人物だった」と言い、また他の人は「窃盗した」だの「人肉を捌いていた」だのと言い、事実があまりにも不明確で藪の中。
誰もが多かれ少なかれ嘘をついていることがわかり、ついに衝撃の事実をつきとめる。

「当時の軍法を破ったんだから仕方がない」
「戦後の秩序を保つためにはそうするしかない」
などと自己弁護と責任放棄して憚らない元上官。

戦争は国家が天皇の名のもとに「人を殺せ」と強制するもの。
「殺せ」と命令する者が罰せられずに、「殺させられた」者が罰せられ、中には死刑に処されるものもいた。
名誉回復もされない。
『私は貝になりたい』(1958年)で描かれた通り。
片や、A級戦犯が首相になっている国。

勝男の最後の絶叫が
「天皇陛下~~!」
だったこと、それが「万歳!」ではなくて抗議するように聞こえたという証言から、サキエは
「夫は天皇陛下に参拝されたくなどないはず」
と確信したのだった。

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ジミヘンばりのギターのディストーション「君が代」が劇伴でかかっていたのにはブッ飛んだ。
音楽は林光。

ジミ・ヘンドリックスがウッドストックで「星条旗よ永遠なれ」をノイジーに演奏してベトナム戦争への抗議を示したのは有名だが、それをパロって忌野清志郎が「君が代」をパンク風に歌って風刺したら発売中止になったのは1999年。
1972年にここで同じようなことをやっていたのに、なぜ過剰反応したのでしょうね。

★★★★

この映画、今はAMAZON Primeで見られるようです。

よこがお/存在のない子供たち/沖縄/パラダイス・ネクスト/ゴールデン・リバー

2019年7月24日~8月1日


『よこがお』
深田晃司
監督
2019年 日・仏 1時間51分
角川シネマ有楽町
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筒井真理子の背後で、美容師・池松壮亮が髪をケアしている。
白のカットクロスを外し、代わりに黒のクロスを2重に着せる。
冒頭の美容室でのショットが、やけに奥行きが深く妖しい陰翳を感じさせる。

深田監督のお家芸である「闖入譚」が始まる不穏な予感。

バッハの「ゴルトベルグ変奏曲」も除幕式のようにスクリーンを引き締める。

しかし、物語は時系列を前後させていて、なかなか筋がつかめない。
しばらくずっと、「これは前」「これは後」というように、頭の中はパズルの整理であくせく。
もちろん、監督の巧妙な魂胆。

あれ?
闖入者=異人の訪問がない?
出てきそうで出てこない、いつもとややちがうパターンにさまよう。

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後半もだいぶ深まってくると、
「あ」
ここから冒頭につながるのだ、という折り返し点が見つかる。
この映画の構造が、複雑そうでありながら実に明快に二つの流れを作っていたのだと留飲を下げる。

ある事件=ターニングポイントを境に、前と後で明確に区別される主人公の内面のストーリー。
右からの横顔と左からの横顔を交互に見るように、並走して進む。

一方は看護師のまとう白衣を基調とし、もう一方は冒頭の美容院で強調された黒のカットクロスがイメージされる。
サスペンス・ホラー大作『ブラック・スワン』と言ったら大仰だけれど、つつましやかにそれに近いことをサブリミナルにやっている。
さあ、ここから復讐を始めるぞ、と白から黒に衣替えしたのだ。

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そして、闖入者=異人の訪問は、やはり存在した。
主人公の訪問先にいつもいる人物が、あるとき突然主人公の中に侵入してきた。
もう一人は、主人公自身。
親密な訪問者のはずだったのが、突然闖入者扱いされる。
人格を壊された後は、あえて闖入者に変身する。

被害者と加害者がスルッと反転する。
第三者から見える立場も反転し、主人公の内面も反転しつつ揺れ動く。
自分は被害者なのか加害者なのか。

いつのまにか、私はあなたの加害者になっているかもしれない、という過去の不安の記憶が、観る者の脳裡でよぎる。
わけのわからない異質なものに対する恐怖ではなく、誰しも感じたことのある、もう一人の自分との対峙。

ここまでくると、前々作『淵に立つ』とかなり似ていることがわかる。

狂気の淵にまで何度も行くが、しかし彼女は渡り切らない。
川の途中まで行っても、なんとか戻ってくる。
自分の人生を破壊した張本人たちを前に苦渋を嘗めながら、理性で先に進もうとする。

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粗筋だけ読むと、ソープオペラか「火サス」でよくありそう、と初めは思ってしまうが、勿論全く趣は異なる。
サスペンスのジャンル映画にも落とし込まない、なんとも複雑な人間の葛藤を、筒井真理子という役者の髄まで借りて、これでもかと描いた純文学だ。

人間誰でも、いつどこで誰に陥れられ、人生をズタズタにされるか、わからない。
そんなテーマの映画を、皆いくつか思い出すはず。
『偽りなき者』(トマス・ヴィンターベア)、『父の秘密』(ミシェル・フランコ)、『飢えたライオン』(緒方貴臣)、『淵に立つ』(深田晃司)・・・まだまだ尽きない。

この類の物語は、「火サス」にもなりやすいが、純文学としても掘り下げやすいのだということがわかった。
作家のスタイルも千差万別だ。

★★★★☆



『存在のない子供たち』
ナディーン・ラバキー
監督
Capharnaum 2018年 レバノン 2時間5分
シネスイッチ銀座
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目をそむけることもできず、口は塞がらず、胸を潰され、打ちのめされ、腰は砕けて立ち上がれなかった。

レバノンで、実在の路上生活者たちを使い、限りなくノンフィクショナルな生活実態を暴いた、悲しくも偉大な作品ができてしまったことを、手放しで賞賛すべきなのだろうが、この子供たちにとっての地獄を前にして、どんな顔をして立ち去ればよいのだろうか。


演技ともつかぬ、リアルで自然な演技の子どもたち。
子どもだからこそ、演出なしのドキュメンタリーに限りなく近づくことができる。

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「両親を訴えます。僕を産んだ罪で」
この衝撃的なセリフに、まずツカまれる。
強烈なキャッチコピーでもある。

そこから、そうなるに至った経緯が、少年の視点でつぶさに描かれる。

実際のベイルートで同様の境遇にあった、「演技素人」たちを使った。
『ブランカとギター弾き』同様、これが最大限に功を奏した
子どもたちの表情がすばらしいことといったら!

とくに主役の少年ゼインの澄んだ瞳は、今にも悲しみの限度を超え、諦めと絶望で壊れてしまいそう。
純粋な瞳だからこそ、パッシヴで、もはや澄んでいないのだ。

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ドキュメンタリーかと思わせるリアルさは、子どもたちのすばらしさも勿論だが、それ以上に監督の演出と場づくりが物を言う。

ベイルートの街中で3年間のリサーチを監督自ら行ったという。
見える不幸から、普段は隠されて見えない不幸まで、入念に事例を掘り出していったのだろう。

貧困、多産、人身売買、若年強制結婚、難民の不法滞在・不法労働、戦災孤児、子どもの労働・無教育、ドラッグ売買・・・

ディテールにこだわり、少年の視点から世界を見つめることを徹底してカメラに命じ、道路や床に這いつくばり、ゴミと同化し、駆け回るときは子供同等の躍動感を見せる。

喋れない0歳のヨチヨチ歩きの乳呑み児ですら圧巻だ。
演技ではない演技が、信じがたいレベルだった。
「いつものミルクじゃない!」と呑んで気づいて怒りで泣く場面。
ママのおっぱいがなくて泣き疲れて諦めてゼインの胸に手をやって眠るシーン。
少しでも愛情が欲しいとゼインにやさしさを求めるあどけない瞳。
それに応えて、子連れ狼よろしく大きな鍋に入れて台車に乗っけて引きずり、外を連れ回す「義兄弟」のショットは、映画史に残るだろう。

会ったばかりで血がつながっていないどころかアフリカ系難民に対して「親心」をもって世話する12歳の少年。
互いに肉親の愛を求め、路上を彷徨う。

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タイミングも絶妙に、生き生きとした嘘のない表情と動作とケミストリーを逃さず撮る。
お涙頂戴や感動をことさらに誘う演出が見えてしまうと、途端に迫真性が消える。

子供が主役の映画で記憶に強く残るのは、いずれも子供たちが大人社会の犠牲になるものばかり。
大人たちが子供っぽすぎて無責任である一方、子どもたちはそのぶん賢くて責任感があり、いたいけに奮闘し、大人よりも大人であることを強いられている。
親と子の対照がことさら際立つ。

最近のものだけでも、『ブランカとギター弾き』『僕の帰る場所』『ボーダレス』『金の鳥籠』『ガラスの城の約束』『荒野にて』『ワイルドライフ』、あるいは是枝裕和監督では『誰も知らない』『万引き家族』などなど。

またドキュメンタリーも含めれば、『トトとふたりの姉』『祝福~ニコとオラデムの家~』なども身につまされて泣ける。

子どもたちはしかし同時に、その過酷な状況を強いられていることで、愛情に飢えている。
世の中の矛盾と、大人たちの無責任と、自分の運命の不条理を呪っている。

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エンディングのラストショットは、ゼイン少年の顔がスマイルに変わったところでストップモーション。

笑顔だと余計にこちらは笑えないよ。
正視できなかった。


『映画ドットコム』で、評価4.5なんて高得点、見たことない。

★★★★★



『沖縄』
武田敦
監督
1969年 日本 3時間15分
ポレポレ東中野
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1969年本土復帰前、米軍施政下のオキナワでロケが敢行された、製作50年目の貴重な劇映画。

当時の沖縄の街並みがたっぷり映っていて、数ある沖縄関係のドキュメンタリーよりも、ある意味、記録映像的価値の高いフィルムとも言える。
基地のバー街、ベトナム出撃のB52、サトウキビ農業、バラックのような民家・・・

映画初主演・地井武男さんの、この真っ黒な好青年の姿を見てください。
当時27歳で高校生役(笑)
『宝島』(真藤順丈)で描かれた「戦果アギヤー」(米軍所有の物資を取り上げる活動)をやっているシーンから始まる。

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もちろん、ドラマとはいっても、すべて史実に基づいている。

第一部は昭和30年代、「銃剣とブルドーザー」で先祖代々の住民の土地やお墓を根こそぎにされ、戦闘機の演習場として使われるなかで、伊江島の阿波根昌鴻氏が開始した抵抗運動を彷彿とする運動が描かれる。

第2部では昭和40年代、基地内で働らかざるをえない労働者たちの屈辱と労使闘争の盛り上がり(上原康助氏を彷彿とする)や、そこからつながる本土復帰運動、米国民政府車両による轢死事件・その非民主的裁判などが描かれる。

全編を通して、憲法不在の人権蹂躙や、「混血児」への差別や、ウチナンチュ同士の分断や、沖縄だけが犠牲になる怒りと悲しみと諦めと不屈の精神が、見事な脚本でわかりやすく訴えられている。

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地井武男の熱血漢ぶり、相手役・佐々木愛の糸満女の強さ、加藤嘉の計算高い狡猾さ・・・
デモの再現シーンも迫力十分。

これだけの熱量で撮られた3時間20分だが、当時本土では自主上映運動として回らねばならなかったのだとか。

小説『宝島』を彷彿とさせるが、僕は『宝島』の映画化もひそかに切望している。
もし映画化するならば、この『沖縄』の1.5倍の尺は最低必要だろう。
『あゝ荒野』と同じくらいの、前/後編2時間半ずつという感じか。

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最後を飾る運動歌『沖縄を返せ』は、今も辺野古や高江で歌い継がれるシンボル曲の一つ。
現地で僕らが真似事で歌うのも恥ずかしく思われるほど、この歌一つとっても、血と涙の歴史が沁み込んでいるのだなあと、しみじみ感じ入るエンディングでした。

『沖縄』ラストシーンの5分間です。
DVD化されていません。
https://www.youtube.com/watch?v=cmBEmVBEhNw&fbclid=IwAR0JArOgmdDflyh3IXT8W0G6oQT_st52F1zj-VMikLhFS-SGcteeU6fg_WE

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『沖縄を返せ』(作詞:全司法福岡支部、作曲:荒木栄)
https://www.youtube.com/watch?v=kmigP1jacbY&list=RDkmigP1jacbY&start_radio=1&t=105
かたき土を破りて 民族のいかりにもゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

(現在は山城博治氏の提案で「民族のいかり」を「県民のいかり」に変えている)

★★★★



『パラダイス・ネクスト』
半野喜弘
監督 
2019年 日・台 1時間40分
新宿武蔵野館
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今年観たもっとも美しい映画の5本に入れよう。
モノクロの『ローマ』『COLD WAR』『私の20世紀』につづいて、カラーの『バーニング』と同列。

映像美だけでなく、音楽も環境音も音質も、高品質ぞろい。
いつまでも見ていられるくらい堪能できる。

ただし、それがすべてかもしれない。

音楽は、坂本龍一のテーマ曲は深く埋没させてくれて心地良いことこの上ないのだが、荘厳すぎて、この作品のテーマの掘り下げ方の浅さには不釣り合い。

物語は、ほぼない。
「映像そのものが物語性を語る」と言いたいのだろうが、それはPVレベルなら物を言う。
人物背景は奥行きがある設定にしてはいるが、謎を明かさなければ思わせぶりなだけ。
役者たちは奮闘しているが、演技が意味ありげなレベルで終わってしまう。
実に勿体ない。

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映像も音楽も演技も、切実なテーマと物語があってこそ、感動の触媒となるのだ。

(映画ドットコムで評価2.2という低さも珍しい)

★★★☆



『ゴールデン・リバー』
ジャック・オーディアール
監督
The Sisters Brothers 2018年 仏・スペイン・ルーマニア・ベルギー・米 2時間2分
TOHOシネマズ・シャンテ
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「一攫千金のウェスタン・サスペンス」で、ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッドという4人の共演とくれば、最高のエンタメを期待できそうだ。

ただし、『預言者』ジャック・オーディアール監督とあれば、いわゆる「西部劇」とはちがってひとクセあると思わなければいけない。

フランスらしからぬ派手な演出で、ホアキンは狂気を迸らせていたが、ヴァイオレンスは大胆ながら品性を保っている。

シナリオは西部劇らしくなく、ヒーローはどんどん英雄らしさを自ら剥がしていき、互いに自滅しあう。

砂金を探索する秘策はファンタジックで、「マジック・リアリズム」のよう。


ラストは、こんなに限りなくバッド・エンドに近いハッピーエンドは見たことがないので笑ってしまう。
形だけハッピーエンドにしてハリウッドっぽさを皮肉ったのか。


終盤近くに出てくるルトガー・ハウアーは、棺桶の中に横たわるショットのみ。
数日前に「リアルに」逝去したばかりなので、本物かと一瞬ギョッとした。

★★★☆



『サマーフィーリング』
ミカエル・アース
監督
Ce sentiment de l'ete 2015年 仏・独 1時間46分
イメージフォーラム
★★★

花筐

2019年6月16日

『花筐 HANAGATAMI』
大林宣彦
監督
2017年 日本 2時間49分
原作:檀一雄 脚本:大林宣彦、桂千穂
出演:窪塚俊介、矢作穂香、常盤貴子、満島真之介、長塚圭史、山崎紘菜、柄本時生、門脇麦、村田雄浩、ほか
蕨市民会館映画祭
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『花筐』上映会&大林宣彦監督トークイベントに埼玉県蕨市まで行きました。
蕨市が共催して市民会館で上映する映画祭は今年で6回目。
毎回、山田洋次監督や高畑勲監督などをゲストに迎えている、頼高市長肝入りの映画愛に溢れたイベントです。

今回はなんといっても、この映画クランクインの前日に余命半年と宣告されてから3年たってなお闘病と映画活動を両立させる大林監督の姿を拝見し、お話を拝聴する貴重な機会なので馳せ参じた。

プロローグとして、20分ほどのメイキングフィルムが上映される。
映画の舞台となった佐賀県唐津市の、地元の映画製作実行委員会や市民ボランティアたちの奮闘ぶりが紹介された。
監督の余命宣告やスタッフの意思統一と覚悟、伝統芸能を映画に登場させるジレンマと交渉、故郷の人々の魂を映画に入れ込むための覚悟などもよくわかり、それだけでも感動ものだった。

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映画本編の方は、予感してはいたが、ここまでの熱量とテンションとパワーで一大長編を脚本から交渉・演出・編集まで快進撃させるなんて、80歳の人間のなせるわざじゃない!
この監督、老いてますます盛ん、病んでますます充実し、晩年に過去最高の元気玉を炸裂させている。
普通は老いればそれなりの枯淡な風味や枯れたわびさびで「さすが」と言わせるものだが、若い誰よりも(昔ながらの)映像魔術を駆使して若気を漲らせてしまっている、そのことにいちばん僕は圧倒されて阿鼻叫喚なのだった。

冒頭から閉幕まで、音楽は鳴りっぱなし、役者たちの演技は演劇調、色彩や書割や大道具や80年代的な視覚効果で、大規模な舞台芸術、高尚な学芸会のようでもあるけれども、そこに貫かれたメッセージは否が応にも洪水のようにこちらに押し寄せる。

若いみそらで国のために命を捧げることを美徳として信じて疑わない、あるいは疑えども口に出せない戦時中の異常な空気が、熱気をともなったウイルスで充満している。

スクリーンも触るとアツイ、2時間50分なのだった。

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アフタートークで監督が車椅子で登場したときもびっくり。
さすがに痩せて小さくなったお姿だったが、話し始めれば進行役のお株を奪い、冒頭ツカミから最後のシメまで、滔々と映画愛を溢れさせながらの饒舌な大林調でちょうど1時間を収めたのには、みんな何度も拍手喝采が沸き起こる。

この人、長生きするぞーーー。
最後は立ち上がって花束を受け取り、サプライズで頼高市長や監督の奥様まで壇上で一緒になった。
一日一日が貴重な生きる時間でありながら、生を拡充させ、映画愛と反戦メッセージを最後まで伝授させようとするその生きざまに心を打たれた。
そしてその姿と作品が一体化することで作品の価値は一層増すのではないかと思った。

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★★★☆

ペトラは静かに対峙する/ワイルドライフ/COLD WAR

2019年7月8日~21日

『ペトラは静かに対峙する』
ハイメ・ロサレス
監督
Petra 2018年 スペイン・仏・デンマーク 1時間47分
新宿武蔵野館
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僕は目撃した。
脚本というものの威力を。
ギリシャ悲劇のような確たるプロットが重層的に連鎖することで、打ちのめされることを。

時系列の組み立て方ひとつで、予断を見事に裏切り、人物たちの関係性をひっくり返す。物語は色めき立ち、一気に急峻な起伏が生まれる。

その展開に何度も唖然とする。

映画の感動の要素をいくら集めたところで、この脚本の圧倒的な構成力にかなうものはなく、すべてはそのパワーにひれ伏すのみ。

幕が開くといきなり「第2章」と出るので、まちがいじゃないか?と驚く。
あえて章立てをしておきながら、時系列を前後させて、
2章→3章→1章→4章→6章→5章→7章
という順番に見せる。
時系列を前後させるのは映画の定石だが、あえてこの数字を見せることで、伏線や隠匿があることをこちらに身構えさせるサスペンス術だ。

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最近、『マチネの終わりに』(平野啓一郎)という小説を読んだ。 ※このページの最後に感想掲載※
そこに「現代の作品はギリシャ悲劇的な家族の「血」の宿命や破滅的運命論に回帰しがち」というようなことが書かれている通り、この映画もまさしく極めてギリシャ悲劇的だ。

平野の小説で繰り返し、
「過去は未来によって変えられる」
という主題が語られ、運命論からの脱却を図っているように、この映画もまた、
「未来は過去によって変えられてしまう」
という家族の宿命からの脱却が可能なのかどうか、未来を切り開くことができるのかを極限まで試そうともがいているかのような作品である。

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スペインのカタルーニャ地方の「乾いた大地で繰り広げられる、人間の闇をえぐる怪作サスペンス」というキャッチだけでも、そそられる準備はできていた。
その通りだった。
乾いているということは、染みわたりやすく、また発火もしやすいということだ。

カメラワークは独特で、対象をとらえながら、ドリー・イン/アウトで前後にスローに移動し、ドリー・ライト/レフトで左右にスローに移動する。

劇伴で掻き立てることなく、不穏な空気が隅々まで張り詰める。
静かだからと油断していると、隠されていたものが突然暴発したりするので要注意。

★★★★★



『ワイルドライフ』
ポール・ダノ
監督
Wildlife 2018年 米 1時間45分
新宿武蔵野館
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アメリカの荒野を背景に、描かれる家庭の不和。
子から見た、親という反面教師。

この共通項で、今年だけで3本目。
『荒野にて』
『ガラスの城の約束』

そして、この『ワイルドライフ』は、一人っ子の14歳の少年が観察する、まさしく反面教師としての父と母それぞれの「人生の負け方」に焦点を当てた作品となっている。

いずれも、大自然とはいっても裏を返せば生業もままならぬ田舎の、白人貧困層の生活実態が背景。
それは現在のアメリカを象徴するファクターとして文学や映画で取り上げられるべきテーマなのだろう。

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1960年代の、カナダに近いモンタナ州。
山火事が登場人物たちに不吉な影を、後半までもたらし続ける。
視界に入らないところでは空を暗く曇らせ、父はわざわざ危険なボランティア作業のためにその渦中に飛び込んでいき、母はあえて息子をメラメラ・パチパチ音のする間近まで連れて行く。

真面目だが甲斐性のない夫と堪え性のない妻と。
家族主義のモラルは、生きるうえでは優先度の低い、実に脆い幻想だ。
身を滅ぼすのに、理由は問わない。
誰も責められない。
少年も、茫然と、憮然と、悄然としながらも、理由は問わない。
親も所詮は人間なのだ。
男も女も所詮、弱いのだ。

親が不仲になっても、僕は子として愛されている。
理解力のある14歳のまなざしは、当惑しつつも二人にやさしく向けられる。
そして映画もそんな二人の親をやさしく見守る。

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キャリー・マリガンは劇中で、少しやさぐれた自分のことを息子に訊ねる。
「何歳に見える?」
「34よ。50くらいに見える?」と自答し、自嘲する。
役作りではあろうが、『17歳の肖像』のマリガンはいつのまにか、正直僕には40以上に見えてしまう実年齢34の大人になった。
全編を通した彼女の「劣化の熱演」は、一見の価値がある。

ラストの家族写真の場面は、息子が親と過ごした年月を刹那の一枚に封じ込めたいという自分の欲求と彼らへの思いが凝縮される切ないシーン。

カメラ正面を向いて今撮られようとしているマリガンの表情は、たとえようもなく痛切だ。

原作はアメリカの作家リチャード・フォード
これを脚本化したのが、監督のポール・ダノと、パートナーのゾーイ・カザン
『ルビー・スパークス』で主演した役者二人でもある。

音楽は控えめで、ハリウッドの派手さはまるでなく、内面への集中度合いは私小説的で、『荒野にて』同様イギリス映画かと思わせる。

★★★☆



『COLD WAR あの歌、2つの心』
パヴェウ・パヴリコフスキ
監督
Zimna wojna 2018年 ポーランド・英・仏 1時間28分
ヒューマントラストシネマ渋谷
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『ローマ』『私の20世紀』と並んで今年もっとも美しい映画に数えよう。
いずれもモノクロですね。
カラーなら『バーニング』を入れましょう。

当作品で美しいのはモノクロの映像だけではありません。
悲恋「物語」でも、それを彩色する「劇伴」でもありません。

物語をつむぐ「音楽」そのものです。
なによりも楽曲自体が主役の縦糸で、そこに恋愛ドラマが脇役の横糸としてからんでいく。
物語も役者たちも脇役なのです。

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アレンジが変わるたびに色艶も相貌も変わるテーマ曲。
「オヨヨ~」
というポーランド語版の印象的なフレーズは、なんと「意味はない」のだとか!
「二つの心、四つの瞳・・・」
と謳うその曲が、ポーランド、東ベルリン、パリ、ユーゴスラビア、と彷徨し、場所と時代と愛の状況が移り変わるとともに、フォークソングからムードジャズへとその顔と性格を変えていくようすが見どころ聴きどころで、なんとも心地よくいつまでも聴き惚れてしまいます。

もちろん、歌姫であり主役のヨアンナ・クーリクも奔放な色気と声の魅力たっぷり。
相手役トマシュ・コットの、苦悩が刻まれてゆく姿にも痺れます。

二人の「至上の愛」の遍歴は、日本で言えば高峰秀子森雅之『浮雲』(成瀬巳喜男)における宿命の愛といったところでしょうか。

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主題歌「Two Hearts Four Eyes」のポーランド語版はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=YIlTSOvBTiE

★★★☆



書籍 小説
『マチネの終わりに』
(平野啓一郎)

文春文庫
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いやあ、恐れ入った。
平野啓一郎。
なるほどー。
大人の純愛小説というものを読むのは、僕は初めてかもしれない(違うかもしれない)。
こういうことなのか。
文体自体が大人の純愛さながらに慎ましやかで、読み流せないくらい詩的で、先に進むのを躊躇する。
そのたびに、美的なフレーズを抜粋し、メモ代わりにツイートする。

主人公ふたりも、恋に謙虚で、品があり、臆病で、思慮深く、倫理的。
軽率さを抑制し、行動より想像を優先する。
だからじれったい。

しかし、その美しさに、現世界の無慈悲な悪魔的現象(ほぼ人災)が常に影を差す。
イラク戦争、ユーゴ紛争、ナガサキ、3.11、フクシマの悲劇が、のっぴきならぬ攻撃を大人の純愛に仕掛けてくる。
過去は記憶から消し去っても、PTSDや「ベニスに死す症候群」や「血」によって甦る。

「過去は未来によって変えられる」

繰り返し語られるこのテーマのように、ポジティブに切り開くか、はたまた運命論として割り切るか。
この作品は、ギリシャ悲劇的な家族の「血」の宿命や破滅的運命論に回帰しそうな現代悲劇から脱しようと懸命になる。
そして単なる大人の運命論的恋愛小説ではなく、現代社会の悲劇を網羅し、世界規模から家族単位まで、すべてを倫理的に破綻させないよう、人間としての矜持と秩序を保とうとする、壮大で切実な試みを提議しているのかもしれない。

https://k-hirano.com/lp/matinee-no-owari-ni/

これが主演・福山雅治・石田ゆり子で映画化され、秋に公開だそうです。
憚りながら言わせていただくと、小説の映画化で失敗する典型的パターンだと思われます。

アマンダと僕/ジョナサン/ガラスの城の約束

2019年6月21日~30日


『アマンダと僕』
ミカエル・アース
監督
Amanda 2018年 仏 1時間47分
109シネマズ川崎
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家族と死に別れる事件の、起きる前と起きたあと。

事件そのものはほとんど見せず。
つぶさに描くのはその前と後の気の遠くなるようなギャップ。
シチュエーションの落差。
関係性の落差。
大きな喪失そのもの。

娘と母とその弟、その恋人。
母子家庭であり、親もまた父子家庭に育った。
欠如の連鎖はあっても、家族愛は希薄には見えない。
仲睦まじい4人を中心に、
いかに愛情が生まれ、育まれ、熟していくかをじっくり見せる。

そのうえで、
世界は奈落の底にワープする。

関係性は死に、
プツンと途切れる。
余韻もなく、空虚の穴しかない。

関係性は変容し、
育まれるはずの愛情は強奪される。

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それは5歳の子どもにとってどのくらい苛酷な状態なのか。
24歳の青年が姉を失い、恋人との関係が壊され、トラウマを持つ幼い姪と親子になるということはどういうことなのか。
容易に想像できるものではないが、
この映画はそこを丹念に表現しようとしてくれる。

悲しみは、あとからやってくる。
ときに、前触れなく突然やってくる。
何かをきっかけに、ふと訪れる慟哭。

これは見てる方も嗚咽しそうに顔がゆがむ。

駐輪場に残されたままの自転車。
洗面台の使われないハブラシ。

少女も、青年も。
直後には感情はあふれ出ず、就寝中、翌朝、数日後、数か月後、数年後、抑制のきかない波が寄せては返す。

理性のきかない、その時間的な“溜め”を描写できるのは、ドキュメンタリーではなくフィクション・ドラマだ。
そして、深い悲しみや怒りに長く寄り添ったことのある作家だけだろう。

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悲劇はまず、ショックに陥らせる。
次いで、ひたすら悲しむ。
しばらくして、事実を受け入れる。
「悲しみを乗り越える」なんていう言葉はたやすく使えるものではない。
精神的な自己治癒力など、誰も想定できない。

ましてや幼い子自身は、悲しみが「癒える」なんていうことすらわからないだろう。
それが、「強さ」に見えたりもするが、たぶんちがう。
心の傷なんて、誰にも見えない。

悲しみと格闘するあいだ、
新たに生まれる関係性もある。
新たな関係に躊躇するあいだ、
断絶を経て復活する関係性もある。

希薄だった「家族関係」を見つめ直す青年ダビッド。
疎遠だった母と再会し、関係性は再建へと向かう。
同時に姪アマンダの養父となる決意に踏み切る。

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愛くるしい顔が一瞬後にはどうなるかわからない不安定さを帯びていたアマンダ。
若い叔父ダビッドと親子関係になることも受け入れなければいけないが、一種の安堵の表情も垣間見せる。

母の席が空いたまま二人でウィンブルドン観戦をするラスト。
アマンダとダビッドの再生を象徴するとてもポジティブなシーンだが、少し教訓的で惜しいなと感じてしまったのは僕だけだろうか。

感情描写が繊細で、作品だけ見ると女性作品かと思ってしまうが、ミカエル・アース監督は44歳男性。
音楽がふんだんに使われ、編集などもフランス映画特有の素っ気なさや、とっつきにくさはない。

7月から公開されている前作『サマーフィーリング』も同じテーマのようだ。

★★★★



『ジョナサン -ふたつの顔の男-』
ビル・オリバー
監督
Jonathan 2018年 米 1時間35分
シネマカリテ
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多重人格が主役の物語は、ふつう不随意に人格が入れ替わったり、同時多発的に複数の人格が出現して混乱したりするセンセーショナルなサイコスリラー的な作品となることが多い。

一方この映画が特殊なのは、二つの人格が一日の朝と昼を完全に12時間ずつ割り当てられて医師に管理されている設定のSFになっているという点がひとつ。

そこには厳格なルールがあるから、間違いを起こさない限り、日々坦々と地味なルーティンが過ぎてゆく。

互いの人格は「兄弟」ということになっていて、朝と夕に完全に入れ替わる。
朝起きると自分が寝ている間のもう一人の自分が喋るビデオレターをチェックしてインプットし、一日の終わりには出来事や会った人との会話などをアウトプットする。

秩序と理性でできた日常には客観性がみられ、サイコな主観性で翻弄される余地はなかった。
はじめのうちは。

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ふたりの間にある対照的な人格の差異と、元々の生活上の無理が祟って、やがて、わずかずつ亀裂を生じさせることになる。
平穏な日常の陰に、実は嘘と不満がくすぶっていたことがわかってくる。

モニター上は別人が交流しているように見えるが、全く同一の身体である。
ちょっとした行動の変化が、もう一人の身体にもろに影響する。
記憶を除けば、心と体はシャム双生児のような状態かもしれない。

几帳面で奥手なジョナサンと、ややルーズで色男のジョン。
互いにどう思っていたかが、重要な鍵になる。
「恋人をつくってはいけない」という厳しいルールが守られていなかったことが発覚し、事件が起きる。

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ふたりのあいだで起きる「失踪事件」
この発想も面白いし、ここからの展開も予想外。
でも、決してめまぐるしく観客を振り回したりはしない。

表面的な感情の次元では語れない何かが潜んでいるような気にさせる。
そう。
ジョナサンとジョンとのあいだには、ぼくらには理解の及ばない密な関係があるのだ。

終盤に到るほど表面上のテンションは上がっても、水面下の見えない二人の葛藤は、まるで『わたしを離さないで』(Don't Let Me Go)のような、宿命的に逃れられない大きな幻滅と喪失感で、ラストをひたひたと静かに浸す。

「相手」を失うことと、「世界」が消えていくことが、全く同次元の同義語として、心理的にも視覚的にもクリアに明示されている。

★★★★



『ガラスの城の約束』
デスティン・ダニエル・クレットン
監督
The Glass Castle 2017年 米
109シネマズ川崎
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『アドベンチャー・ファミリー』のネガティブ・バージョン。
『はじまりへの旅』(Captain Fantastic)にもそっくりだが、もっと悲惨で、だけど結果“成功”はしている現実の物語。

社会システムの規範に逆らい、自由を追求し、夢と創造力で自給自足を目指す6人家族と言えば聞こえはいいが、なんせこの親たち、エゴが強すぎだし、そもそも大人でもない。

子育てのノウハウを知らない破天荒な両親、とくにアル中の破滅型の父親のおかげで、常に家庭放棄/崩壊の危機にさらされる。
子供たちは親を反面教師とし、なかでもジャネットは家族の親代わりとしてたくましく育つが、なんせお金も仕事も社会サポートもない環境では単なる弱者であり、ストレスは限度を超えているし、常識的には十分な虐待である。

いくら子供を“愛する”親の気持ちが確かでも、その表現や生活のし方が子供の“生”に反するものであれば、虐待であり親の資格はない。

一方で。
いくら育児に失敗し親として不適格であっても、子供への“愛情”さえしっかり伝わっていれば、親子の関係は子供が生きるうえで最低限の“泉”となりうる。

この逆説的な二つの理屈のうち、どちらを採用するか。
観る人によって違うだろう。
主人公である作者自身でさえ、そのジレンマに大きく揺さぶられて生きてきたのだから。
ただ、映画は(原作も?)後半、どうしても感動のハッピーエンドつまり後者の理屈に傾きがちではある。

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日本国内でも無念の虐待死が事欠かない昨今、パターンとしては母子家庭に入り込んだ内縁の夫が血のつながらない子を冷淡に扱うという例が多い。
そこに圧倒的に欠けているのは、やはり「愛情」に尽きる。

いくら親子仲が悪くても、親を尊敬できなくても、子供があとから振り返って、
「そういえば自分をかわいがってくれたなあ」
と思うことができれば、その親の子育ては成功と言えるだろう。
まずは第一義的に親が子供を可愛がるということ。
子供の人格形成の源に、その愛情が養分となっているのなら、子供自身がそこに気づかないのはやむを得ないにしろ、大人になっていずれは気づくときが必ずやってくる。

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2005年に出版され全米でベストセラーになった原作の実話で、日本では2019年この5月に出版されたばかり。
売れっ子コラムニストの衝撃の生い立ちとあって、エピソードが豊富にありすぎて紹介に困るほどだろう。

2時間ちょっとの尺にまとめてはいるが、幼少期の家族の逸話と、キャリアを積んで婚約した現在とのカットバックで進行するシナリオの中では、途中子どもたちがいかにして脱出を成功させたかなどの流れがつかめず、興味あるディテールは大幅に省かれている。

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まあそんな前ふりは実はどうでもよくて、僕がいちばん関心を持ったのはいわゆる「ヒルビリー」の実態。
トランプ政権を支持して実現させてしまったのは、これら「田舎者」の「白人」の格差社会の「下層民」だと言われている。
主人公の家庭は空き家を探して米国内を夜逃げのように移動し続け、母や父の実家を訪ねては、その地域の鬱屈した環境にも苛まれる。
なかでも父の実家のあるウェルチ(ウェスト・バージニア州)はアパラチャ地方にあり、炭鉱が閉鎖されたヒルビリーたちの生活圏として代表的な場所らしい。

これはそんな不遇不満にみちた人々がNYに脱出するというストーリーでもあるのだった。

劇中の家族の辿った経路はこちらを参照
   ↓            ↓
https://www.tripline.net/trip/The_Glass_Castle:_Living_Locations-55200575571410068929B3C670E57AAD

★★★☆

新聞記者

2019年7月2日

『新聞記者』
藤井道人
監督
2019年 日本 1時間53分
109シネマズ川崎
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2019年上半期、『主戦場』につづいて、安倍サポーターを震撼させ反アベ市民を狂喜させる映画が話題沸騰しヒットしている。

なんせ松坂桃李である。
なんせ現政権真っ向勝負である。
なんせ参院選直前である。

周囲のまっとうなリベラルたちの食いつきが秒速に早いだけでなく、サスペンス仕立てのドラマになっているものだから普通の売れ線映画として客が劇場へ急ぐ。

ハリウッド映画ではよくある政治内幕・真相暴露・実録ものが、この国で、この時期に、製作・公開が実現したことにまず喝采。

出来栄えは誇張なく見事なエンタメで、むしろハリウッド的な演出と編集で邦画らしからぬウェルメイド感さえあり。

ただ、裏を返せばノンフィクション性がぐっと減り、リアルさをどこまで感じてもらえるかという点はこれから常に指摘されるだろう。

知らない人には
「これって、ほんとなの?」
と思われてしまう。

僕なんかは「すべて実名でやればよかったのに」とも思ってしまうが。
それはさすがにリスクしょい過ぎか(^_^;)

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映画の「原案」とされるのはタイトル通りの東京新聞・望月衣塑子記者の著書であり、本来は自らの半生と第2次安倍政権に対峙する手記であって、全くのノンフィクション。
そこを『あゝ荒野』『かぞくのくに』などのプロデューサーでもある河村光庸氏が人物を実名のままほぼドキュメンタリーのシナリオにして藤井道人監督に持ち掛けた。

政治に興味も知識もなかった監督は2度断った末に、シナリオを全面改変するという条件で引き受けた。
「反政権の思いが強い人間が作るよりもまっさらな気持ちの人間が作る方がいい」と判断したプロデューサーと、監督のスタンスが最終的に一致。
監督自身がわかる内容にするためにフィクションドラマのジャンルに仕立て、マスコミを敵視する官僚側への取材を敢行し、官僚たちの葛藤を記者たちの葛藤と同等に描く構成に。
松坂桃李の起用は最初から決まっていたから、官僚役の彼を記者役のシム・ウンギョンと同様に心情が描かれる一人称として最大限使ったことは、作品の成功の最も大きな一因だ。

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河村プロデューサーの思惑に反してノンフィクション性をばっさり落とし、フィクションの肉付けをどんどん行ったというから監督も勝負師だ。
脚本は3人で共同開発したというが、吉岡記者の人物背景の創作などは上手いなと思った。
生物化学兵器の開発のための大学設置というところをクライマックスにもってくるなど、フィクションぽいとはいえ、逆にかなり攻めてもいる。

フィクション性や演出によって、迫真性は僕の予想を超えて高まった。
とりわけ松坂桃李の演技にはおそれいった。
役者魂に加えて、きっとこの腐った現政権に一家言もっているのだろう。

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一方で政治をよく知らない人はこの作品を観て、たとえばジャーナリスト伊藤詩織さんのレイプ事件揉み消し告発も、事実とは知らないまま終わってしまうのだろうか。
自民党ネットサポーターズが日夜、官邸に都合の悪い事実を隠蔽するため無実の人に罪をかぶせて捏造デマを拡散していることも架空のことと捉えるのだろうか。
正義のために内部告発や横流しをした人間は「家族」をダシにして脅して自殺に追い込むのも、どこかの小説から借りてきた話としか思わないかもしれない。

観る人の頭の中で全てがフィクションのままで終わってしまう危険性もある。

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ただひとつ、
「『国家』ってコワイ!!」
「『内調』ってオソロシイ!!」
ということだけは誰もがインパクトをもって思い知るだろう。

しかし、「安倍政権だからこそ、これほどの極悪非道が行われている」ということを理解してくれるところまでは、正直言って僕は期待していない。
これを見たあとに参院選で自民以外に投票しようとどれだけの人が思えるのか、懐疑的だ。

現在政権中枢で起きている、いまそこにある危機を声高に告発することで倒閣への一助となってもらいたいという思惑はもちろんある。
ふだん政治を意識しないイノセントな一般ピーポーが娯楽目的で行った先で思わぬ危機を察知するという光景をひそかに思い描くことはできる。

それはもはや映画のフィクション/ノンフィクションのよしあしではなくて、この国の大人たちがどこまで無責任に民主主義を捨てたがっているかの問題である。

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「国を守るためだ。」
という官僚のセリフが何度も出てくる。

「国のためなら国民を殺してもいい」というのが国家の正体なのだということ。
かつてヒトラーも言った。
「国民が全員死んでも国家さえ守れればいい」

その国家権力をほしいままにしている今の日本の状態もファシズムだということ。

そこに気づいてほしい。

内閣官房の上司(田中哲司)の脅し文句の一つ。
「民主主義は形だけでいいんだよ、この国は」

良心のある人ほど、身も心も殺される。
愛する妻子を前に「ごめん・・・ごめん・・・」と泣き崩れるシーン。
そして、いよいよ身の危険(家族の危険)に瀕した松坂桃李のクロースアップで終わるラストショットは、これ以上なく絶望的。
心底震撼として、好きだ。

★★★★☆

ハウス・ジャック・ビルト/ベン・イズ・バック/僕はイエス様が嫌い

2019年6月5日~15日


『ハウス・ジャック・ビルト』
ラース・フォン・トリアー
監督
The House That Jack Built 2018年 デンマーク・仏・独・スウェーデン 2時間32分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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こんな映画見ちゃいけない、こんな見ちゃいけない映画になんで初日から盛況なんだ。狂ってるぞみんな、男も女も同じ割合で、サイコパスが何人もの人を殺す過程を見ようってんだから。不快きわまりないものをどうして好きこのんでわざわざ昼間から見に来るんだ。狂うぞ、狂わせられるぞ、殺したくなるぞ、殺人衝動に火をつけられるぞ、ちょっと背中を押されるぞ、それだけで犯してしまう嗜虐性を持った人がいるんだ、きっとこの劇場の中にも。なぜ席を立たないんだ、客も狂ってるんだ、おれも狂ってんだ、サイコだ、強迫神経症だ、劇場スタッフだって狂ってんだ、上映する劇場もおかしいぞ、配給会社も狂ってんのか、アメリカでは修正版になったのに日本じゃ無修正版だ、いいのかここで火のついたサル、火のついたサルが激情を飛び出して血しぶきあげて血のついたサルが暴れまわっても?ヒッヒャーーーイ!

ラース・フォン・トリアーが狂人だってことは百も承知だが、この映画は狂ってるなんてもんじゃない、いや、狂ってるなんてもんじゃないのもいつもどおりなのだ、もんだいはこれが人を快楽殺人に向かわせないかどうかだ。『ニンフォマニアック』がいくらステイシー・マーティンシャルロット・ゲンズブールに色情狂を実践させても、ポルノの枠をはみ出ることはなかったが、これはマット・ディロンが連続殺人と死体損壊をコレクター的に嗜好するバイオレンスの枠をはみ出た快楽的な「曝し」=一種の「危険ポルノ」であり、犯罪誘発剤だよ、ファック、ファーーーック!!

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原作はないんだっていうから、やっぱりこれはトリアーのメンタリティそのまんまを仔細に映したんでしょうって思うよね、トリアーは異常者で狂人で変態でミソジニーで、狂人が狂人の頭の中を披露しているのだこの映画は!と言い放ってしまうことはたやすい。しかし、しかしながらだ、そうとも言い切れないのだ、完全なサイコパスではないみたいなのだ、もう一人と脚本を共同開発したっていうんだから。

もんだいはセンスとかディテールだよね、ここまでつぶさに妄想できるんなら常人じゃない、その意味ではまともじゃない。「美」の何たるかを知り、美しさと冷たさのバランスを計算し尽くし、こちらの感情にダメージを与えるように精緻にコントロールしているらしい、こちらを暴力の美学と快楽の館へ陶酔感のうちに導こうとしているのかもしれない、なんせ「ヒトラーに共感する」と言ってカンヌを追放された男だ。彼の(ジャックの/ディロンの/トリアーの)頭の中には残虐行為の瞬間にデヴィッド・ボウイの高揚感に満ちた『フェイム』が鳴り出すのだろうか。グレン・グールドのピアノ演奏フッテージが何度も繰り返されるのも狂気の美学を「演出」しているのか。ジャックの愛用するヴァンや地獄のガウンや狩りのときのお揃いの帽子などが、おびただしい血と同じ色なのはちょっとベタ、いや血糊のようにベタベタなのはクリシェじゃないのか、オーマイガーーー!

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手持ちカメラでホームビデオ感覚でジャックを追う映像に大半を費やしながらも、ある時はスティルにソリッドな撮影をしたり、超スローで妄想的異世界の映像を挿入したり、という「編集行為」は、狂気に半分浸かって水面を出たりもぐったりしながらもそんな自分を客観的に見る覚醒した行為だ。あたりまえだ、映画を編集する人間が狂っていたら商業映画なんてできない。えええっっっ!?これは商業映画なのか!???という疑問難問がここで即座に湧き出してくるが。そんでもっていちおうここでスタッフを確認してみれば、、、、、編集はやっぱり別の人がクレジットされてるぜ、やっぱトリアーじゃなかったぜ!

犯罪行為中の強迫神経症のくだりはドリフ的なコントみたいでタランティーノみたいでゆるっと笑える唯一のシーンだったが、それ以外にもジャックは自分には感情がわからないので鏡で一生懸命表情を作る練習をしたり、死後硬直の後に子供の遺体の顔を変形させて笑顔を作ったりだとか・・・研究の成果?トリアーの妄想?

一線を越えてるのはいつものトリアーのことだ、しかし、しかしながらだ、グレン・グールドとの取り合わせの妙、葡萄の発酵方法、建築/技師などの専門性など、今回は今までの「宗教」との絡みなどに比べると、理屈やテーマの深みは中途半端じゃないのかい、必然性はどうだったのかねえ。狩りや強迫神経症に関するくだりはいいとして。

ラストの地獄シーンは意外にも、どんなに精巧に作りこんでいてもスーパーハイパーよくできた学芸会の発想の域を出ない。映画史上最もよくできた地獄なのかもしれないが、発想的には現実世界との境界線をしっかりくっきり跨いだあとの隔絶した脳内の地底界であって、地上人トリアーの狂人/常人の妄想の限界を見るかのようだ。
とってつけたような地獄には灼熱マグマが滝になっているが、僕らがみる夢の中の世界と程遠くない場所にありそうだ、そう、夢なんだ、夢だからなんだかホッとするような静けさがあって、地上の娑婆の方がどんなにか殺伐としていて剣山のように危険な生き地獄なんだろう、と思わせる。みなさんはこの地獄シーンをどう思うかな?
トリアーのために少しいいことも言っておくが、地獄に行く過程で過去の風景を走馬灯の1シーンのように眺めるシーンでジャックが唯一情動を見せ、涙を流させていたのはトリアーがサイコパスじゃない証拠なのかもしれないねえ。サイコーーだぜ、サイテーでサイコーだよ。

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突然現れるブルーノ・ガンツには驚愕したね、黄泉の世界から甦ったように出現したのはリアルにゾッとしたね、今年の2月に亡くなったばかりだからね、まだその辺にいてもおかしくないからね。これは遺作だったんだ。ネタバレになってしまうが、実は冒頭からこの死神に導かれ全編通してジャックがモノローグではなく話している相手がいたのだ、このガンツがなんだか妙にものわかりがいいニュートラルなおっさんなんだよな、考えてみればこのおっさんの存在こそが狂人自身を客体視させる正常な狂言回しだったのだなあ。

というわけでトリアーがサイコパスではないことは、ディロンがサイコパスではないことほど明白の白ではないが、「白よりの灰」ぐらいの潔白と言っておこう。
次の瞬間に何が飛び出すのかまったく予測だにできない邪悪なハラハラワクワク感は、ほかに現役監督で言えばQ.タランティーノぐらいかな、西洋世界では。


★★★☆




『ベン・イズ・バック』
ピーター・ヘッジズ
監督
Ben Is Back 2018年 米 1時間43分
TOHOシネマズシャンテ
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たとえば、今年観た映画のなかでは『魂のゆくえ』『バーニング』『ジュリアン』、そして『誰もがそれを知っている』をはじめとしたファルハディ作品。

これらに共通するのは、すぐれた人間洞察ドラマゆえに、結果的に上質のサスペンス作品になっているという現象だ。

「すべての映画はほんらいサスペンスだ」と放言するたぴおかにとっては、キュアロン『ローマ』だってすぐれたサスペンス。

そのいみで、この『ベン・イズ・バック』はなかなかの超ド級サスペンスだ。
ドラッグの身をほろぼす中毒性をものがたるだけでなく、それ以上にこわい、過去からおそいかかる自業自得のむくい。
息子には見えていて親やわれわれには見えない<呪い><禍い>が、凍てつく冬の闇の向こうからひとつ、またひとつ、目のまえに出現する。

決して劇伴などでコケオドシすることなく、母の死に物狂いで息子をすくいだそうとする気魄と憔悴の形相と、息子のみずからのどん底の過去にふたたび降りていく自決と蒼白の形相で、スリルが鋭く刻みつけられる。

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二人のあいだにつよい愛情の絆があることは火を見るよりあきらかなのに、千尋の谷にわたした一本の綱だけでつながっている苛酷な現実に、茫然と立ちすくむ。
しかしラストには、かろうじて深淵の底で・・・

見どころはなんといっても主役の二人。
母子を演じたジュリア・ロバーツルーカス・ヘッジズの演技には、誰もが賞賛の言葉か溜息をもらすだろう。
この映画は、この二人に肉迫して撮られた、この二人の作品だ。
ジュリア・ロバーツが熟練なのはもちろんだが、その憑依は真に迫る。
ルーカス・ヘッジズは弱冠21歳(撮影当時)にして、すでにふかい人間ドラマばかりで名をあげている、おそるべき硬派のホープ。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の演技も記憶にあたらしいし、同性愛をテーマに親との葛藤をえがいた『ある少年の告白』でも主演し、現在公開中だ。


★★★★




『僕はイエス様が嫌い』
奥山大史
監督
2019年 日本 1時間18分
TOHOシネマズ日比谷
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一見かわいらしい作品である。
78分という尺、主人公の小学生、小さな神様。

でもテーマはこの世でいちばん壮大かもしれない。

「神様ってなんだ?」
「神様なんていない!」

数々の文学・映画・演劇が挑んできた回答不能の命題に、あるいはニヒリズムの極に、小学生が、そして学生監督が挑んでいる。

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この世界に生まれ出て大きな発見や小さな発見が事欠かない毎日。
人の世の大きな矛盾に気づき始める思春期にさしかかる頃。

映画はこわれやすい少年の心象風景を、シャボン玉に包むようにして届ける。
ことさら無邪気に描かず、言葉も少なく、笑いやどなり声などの感情表現も最小限。
雪景色のなか、音も吸収されてひっそりと、少年の言葉にならない心の叫びも吸いこまれる。
悲痛なできごとにも、涙は一切登場しなかった。
(友達のお母さんのエモーションだけが例外。)

神様なんて信じないけど、仏様ならわかるけど、でも天国ならまた会えると思う、そんな逡巡と葛藤を描くのに、映画全体はまるで教会のなかのような静謐な空気と宗教的な敬虔さを湛えて見せているところが逆説的で面白い。

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ラストショットは神様の視点。
ゆらゆらとのぼりながら少年を俯瞰するカメラは、少年の通過儀礼が終わったことを示しているのだろうか。
それともすべては神様の手のひらで転がされていたということなのか。


★★★☆

誰もがそれを知っている/聴説

2019年6月1~2日


『誰もがそれを知っている』
アスガー・ファルハディ
監督
Todos lo saben (Everybody Knows) 2018年 スペイン・仏・伊 2時間13分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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スペインの片田舎に、遠方からの親類を迎え入れて大家族が集まるオープニング。
陽光きらめくなか不吉な香ばしさを放つのは、奔放な美少女。
この娘に何かが起こる、という予兆をあたりに振り撒く。

ことに教会てっぺんの鐘楼内に入り込んではしゃぐ二人が大きな機械仕掛けに手を伸ばすとき、戦慄装置が震えだすのは映画の定石だろう。

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僕のお気に入りのイラン人監督ファルハディ
これまでの主な公開作をお気に入り順に言うと、
『ある過去の行方』
『彼女が消えた浜辺』
『別離』
『セールスマン』

そして今作も彼の十八番のパターンで出来上がっている。

すべてオリジナルの脚本は、その「構造」に独自の共通性がある。

1〉まず登場人物たちの“表面的な”関係性が少しずつ明かされていく。
2〉事件勃発によって人々が動揺し、猜疑心が連鎖していく。
3〉人物たちの隠されていた関係性が露見する。
4〉露わになった人間関係の火種が、事件を解決する鍵となり、新たなジレンマに陥る。


こんなわけだから、当然物語はサスペンス調になる。
「全ての映画はサスペンスである」という僕の定理を置いといても、これは本格的なサスペンス・ミステリーだ。
刑事も探偵も出てこないし、大仰な劇伴もないが、人間のサガと究極の厳しいジレンマを提示され、これでもかと考えさせられる内容には息がつまる体験を強いられる。

プラス。
唯一無二のファルハディ脚本の見どころは常に、「緻密さ」にある。

『ある過去の行方』『別離』はその最たるもので、「関係」の隙間や背後を覗き込み、過去の記憶をたどり、誰も悪くないのに、思い違いや隠蔽や嘘やプライドや偽善や体裁でからんだ細い糸を丁寧にほどいてたぐり寄せるようなシナリオは名人芸だ。

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しかし。
初のスペイン・ロケの今作は、これまでのイランにおける作品と比べると、構造は同じでも、あっけないほどシンプルだ。
しかも、“悪人”が現れてしまった。

緻密さに酔いしれ、からんだ糸をほどく覚悟をしていた人には、物足りない印象を持つだろう。
でもスペインを舞台にして、大物のペネロペ・クルスハビエル・バルデムという実際の夫婦が元恋人役として共演するという話題性が先に立つだろうし、そこから入って初めてファルハディ作品を観る人にはあまりこんがらがらせない方が得策かもしれない。

もちろん、シンプルとはいえ最後まで取り返しのつかない不可逆的な家族のディザースター/ディスオーダーは、なんともいえない後味を残し、複雑な余韻が尾を引いたまま帰路につかなければならない。

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誰もわるくないはずだったのに。
ニンゲンてやつぁ・・・

★★★★



『聴説 Hear Me』
チェン・フェンフェン
監督
2009年 台 1時間49分
出演:エディ・ポン、アイヴィー・チェン、ミシェル・チェン、ほか
ユーロライブ
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またまた台湾青春胸キュン純愛映画。

台湾映画にハマる前までは、「恋愛映画は何が好き?」と訊かれても、しばらく考え込んで何にも答えが浮かばなかった。
それほど、自分にとって「恋愛」をテーマにした映画というものが心に残らなかったのだった。

今となっては不思議だ。
「ラブストーリー、オッケーー!」である。
(普通かw)
恋愛ものは、人生そのものだ。
(言い過ぎかw)

一つ確実に言えることは、台湾純愛ドラマは、デトックス!
こんなぴゅあぴゅあなドラマは現実離れしているかもしれないが、普段はニンゲンの毒や汚れに満ちた現実をスクリーンで睨みつけていることが多い(まさに上記の映画とかね)ボクにとっては、まちがいなくデトックスしてくれるのは台湾純愛ドラマだけなのである。


さて、この映画『聴説』は、いまだ日本でロードショー公開されていない。
なんたる理不尽。

台湾では2009年に台北デフリンピックにあわせて製作・公開され、大ヒット。
その後2010年に大阪アジアン映画祭で上映され、「観客賞」を受賞するも、配給にいたっていない。

このたび、「東京ろう映画祭」で上映されたのだが、「ろう映画」の範疇でくくられるだけの作品では決してない。
有名スターが起用され、商業娯楽作として意識された作品だ。
しかし、「ろう映画」としてもしっかり十二分に誇れる映画でもあるのだ。

聾の水泳選手役の女優、どこかで見たことあるなと途中で気づいたらば、『あの頃、君を追いかけた』のマドンナ役ミシェル・チェンだった。
この『聴説』のヒットの翌年に、主役を射止めたのだった。

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主役の若い3人とも、早いテンポで繰り出す手話のスキルがハンパない。

青年(エディ・ポン)はこのジャンルおきまりのお調子者キャラだが、快活に喋る一方で手話にも励む。
聾の水泳選手とその妹(アイビー・チェン)は、美人姉妹どうしで静かに激しく、身振り手振り(手話)と表情で語り合い、感情をぶつけあう。

静かに激しいその時間は意外と長く、演者も作り手も腰を据えて聾世界に向き合っていて、僕らも静かに激しくスクリーンに引き込まれる。

インド映画『バルフィ』で最大限に示されたように、聾者は表現者として輝き、表現を最大限に生かすために手話と表情の身ぶり手ぶりはスクリーンで輝く。

さらにこの映画のすばらしいところは、聴者が聾者の心情に思いを寄せたときに初めて、美しい音の世界を届けようと必死になり、それが兄弟愛となり、また男女の恋となる姿を明らかにしてみせたことである。

単なる純愛ストーリーではおさまらない、「思いやり」の源泉まで追究している、実はすごい映画だったりする。

先ごろ公開されたイタリア映画『エマの瞳』に落胆したのとはエライちがい。

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純愛物語は天真爛漫、ひねくれたところはない。
でも、ストーリーには実に面白い仕掛けがあって、後半一転二転して(僕には最初から勘付いていた)サプライズをそんな終盤にまで持ってくるのかー!ってな具合の展開で飽きさせない。

お互いが相手の欠けた部分を補おうと奮闘することで、大きな遠回りが知らないうちに効果的な近道になっていたりする。
「聾」という境遇が、物語のメインディッシュに到るための最高の材料にもなっていると言える。

しかも彼らの胸の内のいちばん大事な部分が最後の最後に明かされるのだから、彼らも僕らもウルウルである。

悲哀のともなう姉妹の背景がありながらもカラッとしていてそこらじゅうで笑えるのは能天気な青年エディ・ポンのおかげだが、両親に溺愛される一人っ子という普通ならネガティブになりかねない青年の背景も、ここでは両親の爆笑キャラが大いに包み込んで万事平和なポジティブ要素として作用してくれている。

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全ての要素が機能して、なんともあと味のよいラブコメディに仕立てられた。
「観客賞」を獲るのにまことにふさわしい作品なのでR。

★★★★

バイス/ドント・ウォーリー/アメリカン・アニマルズ

2019年5月18日~22日

アメリカ新作映画×3本


『バイス』
アダム・マッケイ
監督
Vice 2018年 米 2時間12分
TOHOシネマズシャンテ
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いやあ、顔がドでかかったなあ。
ドアップのうえに、僕は最前列に座ってたからスクリーン全体を一目では見渡せず、顔がデカすぎて誰だか判別不能wwってこともしばしばだったよ。

チェイニーやそれ以上にアホキャラのブッシュJr.を嬉々として演じている役者たちに快哉を送りながら愉快に見ていて、途中から気づく。
このおバカぶりがいちばんコワいのだと。

だってイラク戦争開戦まで、成り行きと「できごころ」で、国内法や国際法無視のユッルユルの政治判断ができちゃうんだから。
ショック・ドクトリン」の快進撃。

出てきましたよ、「一元的執政府」!
これって、日本でいえば「緊急事態条項」ですよ。
アヘ改憲がめざすところの。

アヘ君やアソウ副総理が「あいつ気にくわないよな」と思うだけで、簡単に憲法を無視した超法規的措置ができるんですよ、「緊急事態」と名付ければ。

パウエルだって、バイスとジュニアに強引にウソの証言を世界に向けてさせられた。
イラクに攻め込む根拠を国連で述べなきゃいけなかった時が、「一生で最大の苦痛だった」と言うんだ。

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演技が楽しめるのは編集やシナリオ構成のおかげでもある。
痛烈な風刺精神でこれだけ面白おかしく演出してくれるのは、さすがはハリウッド。
一度、前半途中でエンドロールが入るときも笑える。
あるいは、国家のトップがホワイトハウスで悪知恵企み中に机の下で貧乏ゆすりしてる足のアップから、一方で戦地でいたいけな子供の足が寒さと戦慄で震えているアップに場面転換するところなんか、実にうまい。

悪の代名詞アメリカ、その所業を堂々と暴露して揶揄できるのもまた偉大なアメリカである。

日本でそれが「いかにできないか」については、誰もがよく知るところでしょう。

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★★★☆



『ドント・ウォーリー』
ガス・ヴァン・サント
監督・脚本
Don't Worry, He Won't Get Far on Foot 2018年 米 1時間53分
ヒューマントラスト有楽町
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しっかし、あんな天使のような女性が積極的に好意を寄せてくるなんて、リアルじゃないなあ、彼女の出てくるシーンはすべて妄想(幻覚)シーンに含めていいのかな。
そうじゃなきゃ、「うらやましすぎる」っていう印象がこの作品のメインになっちゃうよ。
そもそもルーニー・マーラって、何やっても美人すぎるんだよな。
(美しすぎて男性の食い物にされ女性からも白い目で見られる役『ローズの秘密の頁』もあったな。)


四肢麻痺の風刺漫画家ジョン・キャラハンの半生を、映画化を熱望したロビン・ウィリアムスに代わって盟友ガス・ヴァン・サントが、20年の歳月を経てホアキン・フェニックス主演の快作として世に送り出した。

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アルコール依存症のジョンの酒浸りの日々、事故後のリハビリを経てストレスで酒浸りになる日々、断酒会に参加してからのリハビリの日々、漫画家として社会活動家としての日々。
など主に4つの時制を行き来して、ジョンすなわちホアキンは二重苦・三重苦からの離脱の葛藤を文字通り全身まるごと満身創痍で表現。

酒の離脱と、肢体不自由からのリハビリに加えて、幼少期の母親に対するトラウマからも打ち勝たなければならない。
最終的には次々とクリアしていくのだが、その過程で最大貢献するのが、断酒会の主催者ドニーによるプログラム。
一種独特のメソッドはどこから由来するものなのだろう。
この作品のもう一つの焦点にもなっている。

まず、「神」を「チャッキー」と呼ぶ。
会に入りたてのジョンがあまり話さないでいると、「上から目線のようだね」と指摘され、つい自分はみんなと違ってアルコール依存だけでなく四肢麻痺という大きな負担がのしかかっているんだということをぶちまける。
するとみんなは待ち構えていたように「よく言ってくれた」と拍手して歓迎。
みんなそれぞれ、その他の身体的精神的負担を持っていることが明かされ、ジョンも満面の笑みで心を開く。
「I like you, guys」

かと思えば、つい愚痴をぶちまけると、「他の人のことはいい。自分のことを話して」と指示される。
最後には四肢麻痺になった事故も自分のせいだと自覚させられる。
そして、「次のステップ」へ、と進んでいき・・・
12ステップ(?)くらいだろうか、最終ステージに及んで、ジョンの人生の一大結節点を行動で示すべく出かけていく。

ラストには、リーダーのドニーの秘密が明かされる。

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ホアキン・フェニックスの役作りは今回も目を瞠る。
四肢麻痺状態で乗る車椅子上の姿勢はリアルだし。
アップからダウン、プラスとマイナス、強と弱など、振り幅とテンションを自在に操る。
基本明るく弾けた役だけに、同じトラウマティックでも『ビューティフル・デイ』『ザ・マスター』での暗鬱とした彼とは同一人物とは思えない。

ドニー役のジョナ・ヒルも不思議な魅力を湛えていた。

さて、ガス・ヴァン・サントの作風は作品ごとにちがう。
彼のリリシズムや鋭敏さは少年を主人公にしたときに卓越する。
今回はおじさんだったから瑞々しさは無理だったな。
構成・編集のせいか、焦点やメリハリに欠けた印象。
(なんせ『バイス』のあとだったしw)

※劇中に「心臓の癌」と明かす人がいたが、心臓には癌ができないのが普通なのでは?
 かなりレアな病態の患者なのだろうか。

★★★☆



『アメリカン・アニマルズ』
バート・レイトン
監督・脚本
American Animals 2018年 米 1時間56分
109シネマズ川崎
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12億円相当の古書を強盗して、闇で換金する。
そんな小説の怪盗並みの大それた計画を、4人の大学生が実行に移す。

映画になったんだから、それなりに破天荒な結果を残すんだろうと思ったら、最初から散々な経過で散々な結果に。
これはすべて実話だから。

さすがに初心者はルパンのようにはいかない。
タランティーノの映画やピンクパンサーのように底抜け脱線具合を楽しめるような内容でもない。

ただのド素人お坊ちゃまくん達が、「なにかスペシャルなことを」「もうひとつ向こう側に何があるのか見たかった」という若者特有の欲求を抑えられずに思いついたこと。

・・・僕も20代は⦅オウム事件までは⦆そんな感じだったなーと身に沁みる。今の日本の若者はそういう衝動がないらしいのが、むしろ不思議・・・

家庭の不和があったりしても、そこそこ不自由なく暮らし、高い学費の優秀な大学に通えている青年たちだ。
ただ、抑制がきかず、こだわりが強い一人に引っ張られた。

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そんな心理や経緯を、なんと当の本人たちがインタビューでたびたび登場して胸の内を明かしてくれる。
15年前に起こした事件で7年の刑に服し、社会復帰している彼らが、一人ずつ堂々とカメラの前で語ってくれるのだ。
しかもときおり、ドラマの中に現在の姿がさりげなく組み込まれたりもして。
ドキュメンタリーで鳴らして初長編ドラマをとった監督の真骨頂だろう。


FBIで働く野望をもち虎視眈々と狙うほどの優れた頭脳の持ち主が、なぜこんな杜撰な計画に乗り、ヘマをやらかしたのか。
それはオウム事件でも同じだっただろう。


クライム・サスペンスといえども、『バッド・ジーニアス』のような学生ならではのコツとスキルで器用に欺くスマートなトリックなど登場しないが、学生ならではのヘマを、いかにヘボにやらかしたかを臨場感をともなって克明に描いているという点では、『バッド・ジーニアス』同様ハラハラ度はハンパなく、前の椅子をつい蹴飛ばしてしまうほど「サスペンス」性は十二分。


実話とはいっても、4人それぞれの明かす事実が完全に一致するわけではない。
真実がひとつではないのはいつの世も万国共通。
羅生門(藪の中)』ほど食い違うわけではないが、最後にグレーな部分があることがわかってくるのが面白い。

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おっと予告編はよくできている。
本編よりも盛り上げて期待感を高めるという意味で。
でもギャップはけっこうあるから注意。

★★★☆

ショック・ドクトリン/青春神話

2019年4月28日
《憲法映画祭2019》より

『ショック・ドクトリン』
マット・ホワイトクロス、マイケル・ウィンターボトム
 両監督
The Shock Doctrine 2009年 英 1時間22分 ドキュ
武蔵野公会堂
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映画は、かつての精神科医たちが鬱病や“素行不良”の人々に対して電気ショックを与える実験や“治療”を施す映像から始まる。
「ショック・ドクトリン」の元の意味だ。

話は「経済」に移る。
優秀な学生は世界からシカゴに集められ、その後「あること」を叩きこまれて母国へ帰らされる。
一体何を仕掛けるのか?

70年代から、世界は東西冷戦とは別の軸で、あちこちに巨大なお化けが出没して破壊と増殖を繰り返す。
少数の投資家が暴利をむさぼる。
政治が経済を利用し、経済が政治を利用する。
「ショック理論」のメソッドで。

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現在の安倍政権が「戦後サイアクの政権だ」とよく言われる。
それは、岸信介の亡霊が乗り移ったようなルサンチマンを首相が宿していること、信じがたいほど知力の低い首相をまつり上げて自民党内や官僚を統括しファシズム化させる狡猾なシステム作り、歴史改竄主義のエセ右翼団体「日本会議」の台頭、議員レベルの劣化など、危険な要素が前例のないほどに揃ってきているからだ。

政治への関心がますます希薄な大衆が、選挙をはじめ民主主義を自ら捨てたがり、政権を長期にのさばらせていることで、かつてないほど上からも下からもファシズムが静かに蔓延している。

それだけではない。
もうひとつ、「戦後サイアク」にさせる大きなファクターがある。
外からも、「新自由主義(ネオリベラリズム)」と呼ばれる魔物が入ってきたのだ。
徹底した市場原理主義が、グローバリズムとともに。

小泉政権以降、アメリカと竹中平蔵の主導で、小さな政府を急進的に進め、公営を民営化し、福祉を削減し、医療や学校など公共の資源まで、のべつまくなしに利潤競争させ日本全体を“株式会社化”させる政策をとってきた。

現政権も依然、竹中パソナ会長を陰の参謀として、「水」などの命の元手まで利潤の道具とし、安全な農産物まで海外に売り渡す政策に邁進している。
それどころか、非正規労働者を増やし、大企業を優遇し、搾取と格差の構造をさらに拡大させている。

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ケインズ経済学を批判したシカゴ学派の経済学者たちが提唱したこの経済理論は、70年頃から政治家の反共政策に応用され、時の国家権力や世界企業戦略と強力に結びつき、「大きな政府」「福祉国家」の論調を攻撃する根拠として利用され始めた。

そのやり方は非人道的で過激で大規模。
惨事便乗型資本主義」「火事場泥棒資本主義」という別名からわかる通り、自然災害だけでなく、往々にして戦争や政変をわざと起こしておいて、人々のパニックにつけこんで市場原理主義を導入する、超ショック療法。

信じがたい国家の横暴であり世界秩序への挑戦だが、実はそんな例が枚挙に暇がない。

あの自国の戦闘機が国会議事堂を空爆したチリのクーデターが、初の応用例(73年)。
史上初めて自由選挙で社会主義政権を樹立したアジェンデ政権だったが、アメリカの後ろ盾でピノチェトが軍事独裁政権を暴力的に打ち立て、それまでの国営のものをおしなべて市場原理主義で解体していった。

レーガンサッチャーの時代がさらに加速させる。
フォークランド紛争も代表例。
戦争を起こし勝利することで人気を勝ち取ったサッチャーは、国内で不人気だった新自由主義政策を思惑通り推し進めるのに成功した。

英米だけではない。
天安門事件(89)、ソ連崩壊(91)、米911(01)、イラク戦争(03)、スマトラ島沖地震(04)、ハリケーン・カトリーナ(05)などの非常事態は、すべてその後の市場主義改革を強行するために利用された。


驚くべきことに、この国家の横暴と少数の投資家の暴利を招いた理論の提唱者たち=シカゴ学派のミルトン・フリードマンらは、ノーベル経済学賞を受賞しているのだ。

これを「現代の最も危険な思想」として告発したのが、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインで、その著書『ショック・ドクトリン』がこの映画の原作である。



『ベトナムから遠く離れて』
クリス・マルケル
製作
Loin Du Vietnam 1967年 仏 1時間57分
監督:アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イベンス、アニエス・バルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダール
武蔵野公会堂
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ベトナム反戦運動の高まりのなか、フランスでクリス・マルケルの呼びかけに対して6人の監督が応え、短編を寄せたオムニバス。
パリやニューヨークなどで、ベトナムから遠く離れたところで何を想うか、何を作るか。
大衆の様子や反応を映し出すだけでなく、監督たちの葛藤がそのまま現れる。

当時の即時性あふれるザラついた生の映像がリアルに迫ってくる。

反戦デモ・パレードに対して、カウンターとして抗議する人々が映る。

「我らアメリカのために闘ってくれているというのに、お前たちは無責任だ!」

などと怒りを露わにしている人々も多く、今も昔も何も変わっていないな、とウンザリしてしまう。
いつの時代も、政府の言うことにすぐ騙されてしまう、学習しない大衆。

ポエティックなものやモノローグ作品もある、伝説的アート・ドキュメント。



5月9日
《台湾巨匠傑作選2019》より

『青春神話』
ツァイ・ミンリャン
監督
青少年哪吒/Rebels of the Neon Gold 1992年 台湾 1時間46分
新宿K’sシネマ
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同監督の『愛情萬歳』『郊遊 ピクニック』の2本だけ見ていた僕は、正直に言えばやや拒否反応に近いものを感じていた。
独特の作風は、ただの長回しではなく、固定ワンショットで同じ構図、人物もほとんど動かなかったりする忍耐度テスト的なシーンを多用するのだ。
エクストリームなものは嫌いではないが、何回も見たいものではない。

でも、この1992年の長編デビュー作はちがった。
主役がほとんど喋らないのは同じだが、我慢比べをするほどの長回しはなく、若い人物たちは無軌道に躍動していた。

主役に抜擢された少年リー・カンションは当時、物語と同じく大学受験を控えていたが、これ以降は同監督に20数年の間同じシャオカン役として起用され続け、スクリーンの中で大人になってゆくことになる。



長年つづいた戒厳令が解けたあとの社会の急変に対する不安やフラストレーションを抱えたまま、何をどうしていいかわからない若者たち。

ジャ・ジャンクー『青の稲妻』を彷彿とさせる。

集合住宅の部屋の中は排水口から逆流した水で足首までつかる。
都会の日陰でドブネズミのように盗難や暴力を繰り返し、しかし奔放に逞しくサバイブする男女3人の生態。

そんな彼らを、主人公の予備校生シャオカンは不機嫌に黙りこくったまま陰で観察し、家族には反発し、欲求不満はさらにたまり、予備校は黙って自主退学する。
そして無法の3人組をつけ回し、自分とコミットする関係性を勝手に妄想し、距離感を縮めていき、欲望の曖昧な対象として暴発させる。
はたから見ればささやかな愉快犯だが、彼の中では革命だ。

台湾の宗教の主流は道教で、その神様のなかでも特別に人気があるのが少年神の「哪吒(ナタ)」
最初の方で母親は「息子はナタの生まれ変わりだったのよ!」と占い師から言われて興奮して夫に報告するが、夫は一蹴する。
陰でそれを耳にしたシャオカンには、無意識のうちに得体のしれない全能感が宿っていたようだ。

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水面に浮いて出たり潜ったり、都会の喧騒と殺伐の表裏両面を見せてくれる。
台北の街はスイートに見えたりメランコリックに見えたり、監督によって全く異なるが、ツァイ・ミンリャン監督によって見せられる台北は、その後シャオカン(=リー・カンション)にとってどのように見え方が変遷してきただろう。
引退作『郊遊』のように、相変わらず途方に暮れているのだろうか。

★★★★

あの頃、君を追いかけた/私の少女時代

いつのまにか、台湾胸キュン青春映画にハマっている。
同一作品の日本版リメイクが作られたって、興味ない。
台湾だからいい。
見ればツッコむ箇所は満載。
偶然過ぎる展開になにか?
30過ぎが高校生やってますけどなにか?
ワンパターンだったらなにか?
カワイイは最強じゃないですか?

これって韓流ドラマにハマるおばさまたちと同類?
そう、そうでしょうね、認めますよ。
なぜ台湾の思春期がピュアに見えるか。
そこに理由なんてないんです。
“ぴゅあ”に見えちゃうんですから。
日本の中高生たちがよその国から見れば過剰に「ピュア」だという妄想ファンタジーを抱かれるのと同等にズレたことなのかもしれないけどさ。


劇場にはうら若き乙女から熟女まで、女性がやや多めだが、おじさまもなかなかどうして多いんです。

真昼間からタピオカ屋の長蛇の列におやじが並ぶのは恥ずかしいけど、それを横目にたぴおかたぴおは、ここなら並んで暗闇の最前列に席をとれるのです。


台湾巨匠傑作選2019 at 新宿K'sシネマ

2019年4月21日~5月6日


『あの頃、君を追いかけた』
ギデンズ・コー
監督・原作・脚本
You Are the Apple of My Eye 2011年 台湾 1時間50分
ミシェル・チェン、クー・チェンドン
K’sシネマ
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幼稚な男子が追いかけても、どこまでも追いつけないオトナな女子。
女子から見たら、どこまで屈んでもイミフ―な男子の幼稚さ加減。

それでも、振り向いたらよそ見して。
思いが届いても返事は聞かない。
恋はさや当て。
成就しないうちが花と、お互いが知っていて。
両想いになっても、お互いに片想い。

そんな思春期ならではの特質が、恋の純度を高めている。
すぐに過ぎ去る季節だからこそ、はかなさがそのまま残像となる。
恋は、遠い日の花火なのかも。

そうか、思春期の恋を描くということは、その成就しない純度の高さと、相反するはかなさを描くということなのか。

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一見コミカルすぎるこの映画は、しかし軽薄にみえて、思春期映画の神髄を伝授してくれる。
胸キュン映画のエッセンスそのものを丸ごと封じ込めた琥珀のような作品、と言ったら美化しすぎかな。

それにしても台湾映画の「青春胸キュン映画」の得意なことといったら!

★★★☆



『私の少女時代-Our Times-』
フランキー・チェン
監督
我的少女時代 Our Times 2015年 台湾 2時間14分
ビビアン・ソン、ダレン・ワン
K’sシネマ
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これも台湾胸キュンドラマの王道。

こちらはちょっとドンくさい女子が主役で、アンディ・ラウと非の打ちどころのないイケメン男子に憧れ、不良のボス(これもイケメン)との縁が生まれ・・・という話だが、やっぱり思春期の恋は、片想いに始まり、両想いになってもなぜかいつも片想いのままでいようとする。

ただしこの映画は、(これもよくあるのだが)大人になってから振り返る回想記のパターン。
報われなかったけど残像にはかなく煌めくあの恋が、後日譚で報われる。


やっぱり恋は、遠い日の花火ではなかったのだ。


後日譚では、三十路になった女子に更なるご褒美が待っている。
あのアンディ・ラウが尚もスターであり続け、目の前に現れるハプニングが!

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ツッコミが入る場所はいくらでもある。
なんでそこでまた急に土砂降りやねん!
そこで転ぶんかい!
その偶然はないやろ!

偶然も紋切り型もなんのその。
青春にはなんでもファンタジックなミラクルが起きるのだ。
とくに台湾ではね。

主題歌の『小幸福』はYouTubeで中国語としては初めて1億回再生されるという大ヒットに。(現在1億7800万回を超えている)

★★★☆

幸福なラザロ/赤い雪/ママと娼婦

2019年5月1日~5日


『幸福なラザロ』
アリーチェ・ロルバケル
監督
Lazzaro felice 2018年 伊 2時間7分
BUNKAMURA ル・シネマ
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俳優志望ではない高校生アドリアーノ・タルディオーロを発掘したことで、この作品の9割がたは成功していると言っていいだろう。
演技経験がないまま主役に抜擢するだけの価値を、一目見れば確認できる。

この純粋無垢の少年の存在そのものが、作品の大いなるテーマを湧き出させている。


絶望的な現実の只中で、純粋なポジティブ精神を持ち続けることができるのか。
それは聖人ゆえなのか、白痴※ゆえなのか。
本当に幸福なのか、鈍感なのか。

この映画を見るに当たって、そうした切実な疑義を持って臨んだが、それに対して期待した答えは得られなかった。
むしろ、逆の回答だった。


ラザロは白痴※ゆえに聖人のようで、ポジティブがゆえに幸福に見えて、客観的には不幸なのであった。


でも聖フランチェスコの血筋をひくイタリア映画史では、それが不幸であるのかどうかは誰も決められない。
結末を見てもなお。

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農地解放令が出てからもそれを隠して騙してこき使う侯爵家。
ある意味、寓話的ディストピア。
しかも二重の。
隔離世界で搾取される小作農のまま生きるか。
そこから解放されて、都会のホームレスとして最下層で這いつくばるか。

後半の暗い都会生活は、浦島太郎の帰還後のよう。
「戻ろうか?」という話も出てくる。
囚われていた田舎の農地が、竜宮城のように晴れやかな別天地に見えるのだ。


人権感覚を麻痺させて奴隷根性の“井の中のゆでがえる”状態で働かせておいて、そこから脱却した者は自由競争社会という名目で負け犬にさせ、セーフティネットで保護せず棄民する、そんな美しい国日本と酷似する。
TPPなどの市場開放や、EU脱退や、様々なことの隠喩にもなる。


ああ、だけど、変わらないラザロが少しでも希望の欠片を残してくれたら!
尊さや清貧だけでは、宗教でもない限り結局は浮かばれないということを示されているようで悲しい。


でも、ポリティカルなこと抜きで見ても、堪能できる。
侯爵家の道楽息子との、友情とも何ともつかぬ交流や、落ちぶれるのに貴賤の区別はない水平思考や、ヴァガボンドの自由なダイバーシティ。
そしてラザロのファンタジックだが現実と折り合いのつかない立ち姿。

映画って自由でいいな、と思う。
久しぶりにイタリア映画らしさを味わった。


※白痴:レトリックとしてあえて使いました。

★★★★



『赤い雪』
甲斐さやか
監督
2019年 日 1時間46分
横浜ジャック&ベティ
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恐れ入った。
腰の据わった人物造形。
奥行きのある物語構成。
深みのある画面づくり。
まるで今村昌平のような重鎮の手によるものかと思いきや、なんと新人女性監督のオリジナル脚本による長編デビュー作。

ただ惜しむらくは、掘り下げていった先にあるテーマが、意外と弱い。
男(永瀬正敏)が記憶を失くした原因、さらにその事件に到る原因に説得力があまりない。

菜葉菜佐藤浩市の起用も含めて『ヘヴンズ・ストーリー』瀬々敬久)並みの重厚さで出来上がっているが、テーマ性ではかなわない。

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宣伝文句の「10年に1本の脚本」というのはどうかとは思うが、それでも日本のサスペンス・ミステリーとしてはこの1年では出色の出来で、見るべき作品。

隙のない緻密さと気魄を感じさせる役者たちの競演というものを、久しぶりに堪能できた。

YAS-KAZの音楽もすばらしい。
高木風太の撮影もすばらしい。

★★★★



『ママと娼婦』
ジャン・ユスターシュ
監督
La Maman et la putain 1973年 日本 3時間40分
ユーロスペース
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フランスの『タイム・アウト』誌でフランス映画歴代ベスト100の第2位に選ばれた1973年の作品。

3時間40分のあいだ、ジャン・ピエール・レオーと女性たちとの会話でほぼ成立していて、字幕を追うのが大変だ。

このダイアローグ主体の、映像的には左右の人物の切り返しで占められている作品に、僕の概念でいうところの「映画的」な要素はどこにあるのか、少し困ってしまった。

レオーが出てくれば話はすべて女性への思慕と追いかけっこであるのはご多分に漏れず。
パリ五月革命のあとの倦怠ムードの70年代初頭、ろくに働かずにカフェや部屋で行き交う男女は本気なのか遊びなのかわからない恋愛に時間を費やしている。

ディレッタントな引用の多い知的余裕を含ませたレオ-たちのダイアローグは、しかし後半から突如変化が訪れる。
あるシーンで、ヴェロニカ(フランソワーズ・ルブラン)とアレクサンドル(レオー)の会話の切り返しが180度になった。
つまり二人ともカメラ正面を向いて話すのだ。

そのあたりから、レオーと二人の女性(ヴェロニカとマリー)の関係に混迷と倦怠が見え始め、ダイアログはモノローグの傾向を帯びてくる。

自由恋愛を語りながらも本物の愛にこだわる自分たちを発見し、映画の長さに比例して登場人物たちも明らかに疲弊してきて、最後の驚異的に長いヴェロニカの正面を向いたワンショット・モノローグに到る。

彼らの疲弊は、登場人物同士の関係に由来するだけではなく、監督との関係や、監督の私的なモデルとなった人物関係や、見ている僕らにまで一因があるかのように見えてきて、おしゃべりなレオーも、「娼婦ではない」ヴェロニカも、「年増の」マリーも、最終的にはぐったりと崩れ落ちてアンニュイに幕を閉じる。

ヴェロニカ役のフランソワーズ・ルブランは演技が初の素人というから驚嘆。
この映画の凄さは彼女の献身とセンスのよさによると言えるくらいだ。

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いろんないわく付きの作品なのだが、映画は画面に映るものが全て。
自分にとっては「言葉」主体の映画はどうもあまり得意じゃない。
評論家じゃないので、勝手に好き嫌いを言える。
フランス映画のベスト100にも、「言葉(パロール/エクリチュール)」主体で出来上がっている作品が並んでおり、まさにそれこそフランス映画の代表的特徴なのだろう。
この映画に限らず、仏映画特有の傾向には、好みはけっこう分かれるはず。

★★★☆



◆その他の鑑賞作品◆

『勝手にふるえてろ』 (大九明子) 2017年 日本 1時間57分 BD ★★☆