すばらしき世界/ヤクザと家族/孤狼の血/ヤクザと憲法
ヤクザに人権はあるのか?
元ヤクザには?
この問題を果敢に切り込んで話題になったのが、東海テレビ制作のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』だった。
(当ブログ記事バックナンバーはこちら ↓)
https://tapio.at.webry.info/201603/article_4.html?1614174888
このあと下記(ページの最後)に記事を再掲してあります。
現在、『ヤクザと憲法』を「二代目東組二代目清勇会」というタイトルでニコニコ動画でフリーで観られるのを発見。↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm31148394
しかしこのドキュメンタリーは、「元ヤクザ」のその後までは追いかけていない。
以前NHKが『ドキュメント 決断 ~暴力団“離脱” その先に何が~』(2014年8月14日放送)で「その後」を番組にしたが、残念ながら今はネット上でフリーでは見られない。
いま奇しくも「その後の元ヤクザ」を描いたフィクション映画が二つ同時に公開されていて話題だ。
2本セットで観るのがベスト。
『すばらしき世界』
西川美和監督
2021年 日 2時間6分
109シネマズ川崎

果たしてここはすばらしき世界なのだろうか。
その判断を委ねるために、作り手はよく“はみ出し者”を主役に据える。
たとえばそれは知的障碍者だったり身体障碍者だったり。
イジメの被害者だったり加害者だったり。
LGBTQだったり。
民族的マイノリティあるいは移民・難民だったり。
シングルマザーだったり貧困家庭だったり。
権力に立ち向かうレジスタントだったり。
単に空気を読まないひとだったり。
そして、刑期を終えた元極道だったり。
とりわけ、世間馴れしていない純粋なキャラとして、漫画でいうと『コジコジ』や『よつばと!』などのファンタジックなキャラたちや、ダウン症など知的障碍を持つひとたちが周囲に生む波紋によって、世間の矛盾や欺瞞に気づかせるパターンは効果的だ。
初めてカタギとして自立をめざす初老の男・三上正夫(実在/故人)も、言ってみればそんなキャラだ。
正直で一本気。
だけど短気で、直情径行。世間馴れしないどころかズレまくっている。
だから適当に折り合いをつけるということができない。
がんばろうとしても結果は裏目に出る。
そんな存在を通して周りを見ると、理不尽なことや人として許せないことばかり。
目の前の虐待を見て見ぬふりするのがこの世の常識なのか?
迷惑をかける弱者は排除すればいいのか?
それでいいのか?
と、観ているこちら側の胸ぐらを摑んでくる。

でも、主人公はどうふるまえばいいのか迷走を最後まで続ける。
暴力をふるう人に暴力で懲らしめるのも、ちがう。
じゃあ我慢して見て見ぬふりをして一緒に嘲笑えばいいのか。
それも絶対にちがう。
どちらの両極に振れることなく、うまく生きてゆくことはできないのか。
そこには(今の日本には)絶妙な、子ども時代から習得が迫られる実に器用な熟練したペルソナ術が求められる。
さらに、人に注意をしたり諭したりするには、相当な自分のバックボーンとバランス感覚が要るのだ。

十代から極道の世界に入り、情や恩義は任侠の世界でしか知らない。
いまだに罪に対して自省しきれていないのは、刑務所内で更生できていないせいだろうし、情をもつ“人”として扱われていなかったせいだろう。
生い立ちを汲む余地が十分にある。
どんなコワモテの男だって、母親への思慕はどこまでも自分の胸をしめつける。
家庭もなく戸籍もなく育った子どもには、自己のアイデンティティがない。
頼れる存在も、依存できる愛情もない。
ちょっとしたやさしさに涙してしまう。
幼少期の自分のルーツを求めることが、人生最大の使命となり、次のステップへのモチベーションとなってゆく。

そんな三上にツッコミを入れ、最後には情にほだされ、自分の次のステップのモチベーションとするTVディレクター役の仲野太賀もいい役どころ。
佐木隆三の原作にない西川監督のアレンジ設定。
刑務所での更生の可能性/不可能性の問題はあるにしても、そのあとの現実課題に直面してどう自立していくか、というところに重心を置いた実録物語。
生活保護バッシングへの異議、障碍者・生活弱者に冷淡な社会へのアンチテーゼをしっかりと提示してくれていて、アウトリーチ効果も高い傑作だ。
★★★★☆
『ヤクザと家族 The Family』
藤井道人監督
2021年 日 2時間16分
川崎チネチッタ

前半と後半とでまるで別の映画のよう。
ケン坊(綾野剛)が組長と親子の契りを結び、激化する縄張り抗争に飛び込んでいく過程が描かれる前半は、言ってみればよくある現代の任侠もの。
その時点(1999年)では暴対法は既にできていたが、その影響はドラマ上はあまり見られなかった。
ところがケン坊が刑期を終えて出てくると、時代は変わっていた。
「もうとっくにヤクザに人権なんかなくなってんだよ」
とは登場人物の一人のセリフ。
そう、『すばらしき世界』と同じ設定だ。
こちらの主役はまだこの時点で40前だから、だいぶ将来はあるはずだが。
ここからの映画は打って変わってローテンション。
人物たちはおしなべてエネルギーをすり減らし枯れ果て、絶望からどう滑り落ちてゆくか、希望にどうすがりついていくか、という物語となる。
22歳となったツバサ(磯村勇斗)だけは例外。
ヤクザではないが半グレとしてエネルギーをフル稼働させていて、闇の世界を暗躍しようとする。
いずれにしても不幸は連鎖していく。

ヤクザから足を洗ったにもかかわらず、制度的に「5年間は人間扱いされない」。
たとえその時期をしのいでも、ひとたびネットで「元ヤクザ」と同一化され拡散すれば、幼い子供までもが社会から弾き出される。
かつて名の知れた組長が言ったように、「これは第2の同和問題になる」。
今まさに現実となっている人権問題だ。
部落出身や在日で不遇を味わう被差別者にとってのセーフティネットとしての役割もあった極道が、暴対法によって完全に社会から排除され、生きる権利さえ奪われたことで、関わった全ての人が「不可触民」となる二次差別を、制度によって社会が作り出している。
その具体例をここまで描写して見せたドラマは稀だろう。

絶望しか生まれないのは社会が「逃げ場」のすべてを奪ってしまっているから。
制度だけでなく、ネット自警団の過剰な正義はさらに怖い。
それこそコロナ禍の二次被害の今を象徴するかのようでもある。
昨年末公開の『無頼』(井筒和幸)は戦後からバブル崩壊までの極道一家の盛衰クロニクルで、美学やノスタルジーが強調されていて違和感が残ったが、対してこの1999年から2019年までの直近20年間の物語は悲愴感が凌駕していてしっくりくる。
バブルが終わり、終わりのない不況と暴対法が始まり、その後の虚無的日常はいま、グローバル資本主義の限界局面とシンクロしている。
ヤクザが美学を語れば唇寒いこの時代のリアルを、ただ衰亡と消滅を待つだけの弱者のリアルを、ひたすら虚しく描いていて、反社だけではなく逃げ場のないすべての人を代弁しているようだ。

『新聞記者』でスマッシュヒットを放ったうえに国内で賞を総なめにし、なおかつ官邸の恐怖政治を告発し大衆に暗部を暴露して大きな功績をあげた河村光庸プロデューサーと藤井道人監督のタッグが、またやってくれたのだった。
★★★★
『孤狼の血』
白石和彌監督
2018年 2時間6分 日 Netflix

『すばらしき世界』の前に、ようやくこれを観た。
3年前のこの話題作、警察+ヤクザというジャンルはあまり得意じゃないので敬遠がちだったのだが、それでも役所広司の“極道っぷり”を見ておかないわけにはいかなかった。(白石和彌監督の仕事っぷりも)
のっけから拷問シーンで始まるが、やっぱり大した作品だった。
特筆すべきは役者たち。
役所は『すばらしき世界』の役とは対照的に、娑婆の裏も表も酸いも甘いも汚穢も禁忌も闇も泥沼も、海千山千知り尽くした破天荒かつ老獪な刑事。
彼に振り回される松坂桃李も、その演技巧者ぶりを存分に発揮。
役所も松坂も、肉体的精神的に傷めつけられる役に対して心身捧げ切っていて、その後大丈夫だったのか、と心配になるぐらい。
共演した阿部純子や真木よう子も真に迫っていてよかった。

内容的には原作の柚木裕子がすごいのだろうが、映画的にはとにかく、役所演じる刑事がどんな人物なのか知らないグレーの状態から始まって、その濃淡がどんどんどす黒くなり、ところが終盤になって急速に明度が増し、最後にはいぶし銀、いや輝くシルバーとなって驚かせる。
それで終わらずに、さらに松坂が極道への復讐と裏切り、警察本部への反撃も仕掛けるなど、ダークで痛快な結末を見せてくれるところが、天晴れカタルシス。
ダーク×ハード×エンターテインメントで、しかも泣かせる。
第2弾がこの夏、役所抜きの松坂主演で公開予定。
★★★★
<バックナンバーより再掲>
2016年3月19日 ジャック&ベティ
『ヤクザと憲法』 (土方宏史)
2015年 日本 1時間36分
ヤクザに密着100日!
これはそうとうなものだ。
撮る側も撮られる側も肝が据わっているなあ。
・謝礼金は支払わない。
・収録テープ等を事前に見せない。
・顔へのモザイクは原則かけない。
というルールは、当然といえば当然だけど、ヤクザ相手じゃ当然とは簡単には言えなくなってくる。
本物の暴力団の事務所の中。
聖域というかタブーというか、秘境。
覗いて見れば、ごくごく何の変哲もない事務所。
虎の剥製はあるべくしてあるが。
なんだかみなさんやさしそう。
親切だし。
「部屋住み」と呼ばれる見習いも、まだ少年な感じで世間知らずの純朴そうな男の子。いじめで引きこもり、宮崎学に憧れてこの世界に入ったのだという。
ひとりだけコワモテのNO.2(若頭?)は、その子を部屋の中でボコボコにしてたけど(撮影は閉め出された)。
その子は「辞める気はありません」
部屋の隅に置いてある細長い荷物をカメラがとらえ、「これは?」と訊く。
「テントですよ。外で使う」という答え。
「機関銃とかじゃないんですか?」と突っ込むと、
「それじゃ銃刀法違反になるじゃないですか。暴力団だからって持ってるって思うのはテレビの見過ぎですよ」とたしなめられる。開けて見せてくれる。
暴力シーンが全く映らない。抗争のハプニングもない。
“ヤクザ映画”なのに(笑)、落ち着いたものだ。
川口和秀という会長(二代目東組・副組長)がまたカッコイイ。
カリスマ臭プンプンで、(男にも女にも)惚れてまうやろオーラむんむん。
(あー、ええところしか見えてへんやん!)
23年服役した(冤罪の疑い)のに、服役前より若返ってるんじゃないか、と思うぐらい、不思議な艶がある。器が大きそうだ。撮影も何でも許してくれる。
おりしも、毎日のように山口組とその分派・神戸山口組の抗争がTV報道を賑わしていて、注目を集めている。
そんななか、あの気骨ある東海テレビが、指定暴力団「二代目東組」(大阪市西成区)の二次団体「二代目清勇会」(大阪府堺市)と、山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏を取材した。
「ヤクザ」を「暴力団」と呼び始めたのは警察。
彼ら自身は「任侠団」と標榜し、「極道」と美称する。
終戦直後などは「任侠道」だけあって、社会扶助としての貴重な役割を担っていた。
もし彼らや娼婦たちがいなかったら、戦災孤児(浮浪児)たちは生き残れなかっただろう。
映画の中でも、大阪の商店街のおばちゃんが「警察なんか、なに守ってくれんの。この人たちだけやんか、守ってくれるんは」と言う。
今もある程度は地域警護の機能を果たしてはいるようだが、もちろんそんな表面的な綺麗ごとだけで済むわけではない。
「暴力あるいは暴力的脅迫によって自己の私的な目的を達しようとする反社会的集団」
というのが暴力団の定義。
「シノギ」を稼ぐためにドラッグ、銃、売春、詐欺などに関わり、それら犯罪や抗争・暴力の温床になっていて、潜在的な反社会性は計り知れない。
もはや「必要悪」と言う人は少ない。
(映画にもシノギを稼ぐシーンが出てくる。何を売ったかは教えてくれず、怪しいことだけはわかる)
1992年の「暴対法」施行以来、規制や取締りが厳しくなり、ヤクザさんたちの生活も厳しくなった。(それが目的の法律である)
とくに最近の3年間は2万人が足を洗い、全国で6万人を割ったという。
辞めた後はどうなるのだろう。
ヤクザはもちろん、その家族も銀行口座がつくれない。入店お断りの店も急増、いろんな契約も断られる。車の保険も契約できない。保険請求したら、不正請求とか恫喝とか言われる。名刺を渡しただけで恐喝とされる。
落ち度がなくてもこじつけで逮捕され、弁護士にも断られる。
親がヤクザというだけで、子供がいじめられる。
憲法14条が定める「法の下の平等」は適用されないのか?
ヤクザに人権はあるのか?という問いに自ずと突き当たる。
「だったらヤクザをやめてしまおうとは思わないんですか?」と川口会長に訊く。
いちばん欲しかった質問だ。
「ここがなかったら、どこで受け入れてくれるの?」と、ぼそっとした答え。
会長は冤罪の恨みや日々の差別など、ここぞとばかりに声高に主張したりしない。
足を洗っても5年間は同様に規制されるという法律規定があるらしい。
でも5年なんて関係ない。一生「元ヤクザ」はつきまとう。
辞めた人のその後までは、この映画は追いかけていない。
暴力団(マフィア)自体の存在を認めない諸外国に比べると、日本は認めてしまっていることも問題なのかもしれない。
この映画を観ていかにこの人物たちに好感を持ってしまったとしても、暴力団の存在は「必要悪」ではなく「悪」だと思う。脱退後5年間の規制やその後の差別があったとしても、最終的には存在しなくなってほしい。
「戦争」のように。
ただ、そう話は単純ではない。
もしかすると、戦争よりも複雑かも。
「指を欠き、刺青を入れ、前科のある者を雇うところがあるのか」という命題がまずひとつ。
法律・条例によって規制を強化し、脱退する人を増やす。その効果が出ている反面、元団員たちの更生・再就職対策が無に等しい。現状では、ほぼ無理。職につけたとしても、必ずバレる。それが続くと、ヤクザにも戻れず「半グレ」になり、以前よりひどい犯罪に手を染める。
もうひとつは、構成員たちの出自が、被差別地域だったり、在日だったりする割合が非常に高いということ。(部落民6~7割、在日3割と言われている)
つまり、再就職云々以前の話で、そもそもヤクザに入らざるを得ない、社会の光の当たらない場所で生きざるを得ない人々の受け皿になっていることは、紛れもない事実らしい。
そして、今の社会がそうした日陰で暮らさざるを得ない人々の受け皿を差別せずに用意してくれること、それでいてなおかつ犯罪の温床を駆逐することは、戦争を止めることよりも難しい気がするのだ。
このあたりの脱退後の問題については、実はNHKがドキュメントを過去に制作している。しかも二代目東組の事務所の中に入っている。川口副組長たちが登場する。
『ドキュメント 決断 ~暴力団“離脱” その先に何が~』(2014年8月14日放送。現在ネット上フリーでは見られず)
いつも以上に今話題となっている日本最大のヤクザ組織・六代目山口組組長・司忍もこう語ったことがあるという。
「われわれの子供は今、みんないじめにあい、差別の対象になっている。われわれに人権がないといわれているのは知っているが、家族は別ではないか。若い者たちの各家庭では子供たちが学校でいじめにあっていると聞いているが、子を持つ親としてふびんに思う。このままでは将来的に第2の同和問題になると思っている」(産経新聞でのインタビューからの抜粋/2011年)
http://www.sankei.com/west/news/150831/wst1508310022-n1.html
「第2の同和問題になる」という言葉は、非常に重い。
右翼系の政治団体も、被差別者や底辺の人の受け皿になることが多いが、大抵はやはり暴力団の下部組織だったりする。
また左翼系も、各部落解放団体のように被差別者の受け皿となるし、本来は弱者の権利保障のための思想が根底にあるはずだが、同和団体は暴力団との関係が取り沙汰された。
宮崎学氏のように、ヤクザの出自で確固たるポリシーで共産党に入ったという人も珍しくはなかったのではないか。
なぜ今は、暴力団は右翼系政治団体とばかりつながっているのだろう。「義理と人情」の点で右翼とヤクザが親和性が高いということは前提事項としても。(まあ、今はそれは置いておこう)
この映画のもうひとりの主役を忘れてはいけない。
山口組の顧問弁護士であった山之内幸夫氏だ。
『悲しきヒットマン』『シャブ極道』『鬼火』など映画化された小説の作家としても有名。
にこやかなおじさんで、コワくはない。
しかし当然、弁護士会も含めて世間の風当たりは強い。この人にも家族はいる。
報酬がいいわけでも決してない。
それでも続けてきたのだから強固な信念の持ち主だ。
ヤクザの弁護士はヤクザと同じように、罪にもならないどうでもいいような些細なことで起訴される。そして敗訴する。
ヤクザじゃないカタギが、ヤクザの憂き目を身を持って実感する。
社会で忌避される者たちが裁かれるとき、もっとも法の厳正さが試される。
ある意味、法そのものが問われる最前線にいる存在でもあった。
さて、この映画について率直な感想。
『ヤクザと憲法』と大きく振りかぶったタイトルから、憲法や人権問題を切り口に深く考察するものと期待してはいけない。
初めTVドキュメンタリーとしてつくられたにしては、珍しく想田式「観察映画」的にノー・プランでとにかく撮影していこう、という進行で始まったと思われるつくりだ。
多少の字幕や音楽が入るが、意図されたテーマや問題点に迫ろうとする構成には感じられない。
じっくりとヤクザさんたちの日常をとらえようとする撮り方に好感が持てるし、人物の近くでその仕草や言葉を拾った映像は貴重だ。
あえて「人権」じゃなくて「憲法」にした、とプロデューサーは語っているが、いずれにしろテーマを明示しない方が、逆にテーマが浮き彫りにされてくる感じが出てきてよかったと思う。
一方で、字幕などによる解説が少し入っているが、どうせテーマを追究するなら、もっと人権について突っ込んで掘り下げて欲しかったなと思う。
つまり、どっちつかずだったような気がする。
(了)