行き止まりの世界に生まれて/アングスト

2020年9月



『行き止まりの世界に生まれて』
ビン・リュー
監督
Minding The Gap 2018年 米 1時間33分
ヒューマントラスト渋谷
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生きるか死ぬかの瀬戸際でスケートボードを走らせる少年たち。

冒頭の疾走シーンは爽快だが、前方行く先には滝つぼが待っているのかも。

親に見捨てられて家を出ると、そこは見捨てられた街。

「自分をコントロールするために」スケートに乗る。
同じく見捨てられた仲間が家族になる。
居場所ができる。

それを映像におさめていた仲間がいた。
ビン少年はスケートとビデオカメラの二つで、自分と仲間の「現実」を作り直していった。

少年が自分たち仲間を12年間にわたって撮りためたフッテージが元になっている。
つまり、商品価値など関係ない、生粋のプライベートフィルムが、ウソの欠片もない現実を露わにしてくれているのだ。
結果、ドキュメントとして価値の高いものとなった。

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アメリカ、イリノイ州、ロックフォード
全米で「もっとも惨めな都市」3位という街。
産業の廃れた「ラストベルト」(錆びついた地帯)の典型。

ビン少年は成長しつつ、仲間であるザックとキアーの撮影を欠かさない。
ザックには妻子ができ、不和が発生する。
カメラは次第に自分たちの元の家庭の中に、問題の端緒を求めていく。

ビンは知っていた。
キアーも、ザックも、そしてビン自身も、スケートボードに生きがいを求めたきっかけが家庭内の暴力にあることを。

そしてビンは自分の母親とカメラを通して対峙する。

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キアーもザックも、ビンとの関係が良好に続いているのもスゴイ。
もう大人になってはいたが、内面は果たして。
ビンの影響で、家庭に向き合おうとする。
なんとか新たな岐路に踏み出す。
あるいは、わかっていても、できないことはやっぱりできず、石のように転がるだけ。

見捨てられた街を、青年になった彼らは捨てるのか。
希望と諦め、その両極のどちらに振れるか。
どちらにしても、大きな不安。
やがて仲間はついに道を違えていく。

そこまでを撮り切った、かつてのビン少年は、監督としてキャリアを積み、素晴らしい軌跡を歩んでいる。
監督自身の成功物語は、その一端が公式HPに書かれている。

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しかし、と思う。
彼らは、親のDVや貧困に起因する不遇を、社会の問題としてどれだけ捉えられていたのか。
家庭が暴力の連鎖に陥ってしまう原因は、失業と格差の激しい社会にあり、それを作っているのは政治だということに。

それが明確には語られていない。

ましてや、「ラストベルト」がどういうところか、エミネムの「8マイル」が何を意味するのか、そこがわからない他国の人には、これを観ただけでは単なる「不遇な少年たちのスケボー青春日記」に終わってしまうかもしれない。

日本の青少年たちには、そこを踏まえるために作品のオフィシャルサイトをよーく読んでもらいたいな。
 ↓    ↓    ↓
http://www.bitters.co.jp/ikidomari/





『アングスト/不安』
ジェラルド・カーグル
監督
Angst 1983年 オーストリア 1時間27分
横浜ジャック&ベティ
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この映画のもっとも驚くべき存在は犬である。
しかしそのことは最後に触れよう。


一人の狂人の行動を体現させる映画。

主人公の顔の近く、あるいは身体からそう遠くないところに据えられたカメラが、主人公のPOV(主観的視点)のように一挙手一投足を記録する。
(この手法にさらにボカシ効果を視界の周囲に加えたのが『サウルの息子』[2015/ハンガリー]だった)

しかも、脳内モノローグがナレーションとして呟かれる。
アドレナリン増し増しの息づかい。
主演アーウィン・レダーの憑依。

潜水服を着せられ水中にいるかのような、ロックト・イン状態の窒息感が増幅する。

狂人の行動にシンクロして、カメラまで狂気モードで撮影している。
撮影・編集のズビグニェフ・リプチンスキと、監督のジェラルド・ガーグルたち自身が殺人鬼の心理にシンクロしないと、ここまでの映像にはならなかったはず。

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冒頭こそ、プロローグ的に実在の事件の記録が報告調に語られる。
また最後も精神鑑定や裁判の結果について説明が入る。
しかしそれ以外は犯人のつぶやき。

「完璧な計画を思いついた」と言いながら、実行してみれば算段のかけらもないところが、またリアルに狂気じみている。
それを監督が書き、言わせているのだから、作る過程で監督は殺人鬼に憑依していてもおかしくない。
ただ、「殺人鬼の心理を探る」という野心作のために、全額自費で製作、不評で全財産を失った。


作品自体が「異常」という触れ込みだが、異常者を再現して撮ったら異常なのだろうか。
この手のサイコを映画化したハシリは、『血を吸うカメラ』『サイコ』であり、どちらも1960年という昔のこと。
(それまでは、サイコパスや快楽殺人の心理描写を扱った作品はなかった)

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この映画が「異常」だとすれば、いくつかの点で指摘はできる。

まずは、犯罪者の主観的視点と主観的モノローグで、ただひたすら異常行為を体感させるという点。
今までよりも徹底している点で一線を画している。

二つ目に、映画の時制が狂っている点。
家族を襲う犯行前にダイナーに寄り、客である若い女性2人と中年男1人を観察し、逆に怪しまれ観察される。
何もせずに店を出た後、車で移動してある一軒家にて犯行に及ぶ。
その犯行には数時間かかっているはず(実際は犯行に7~11時間)だが、犯行後なぜかまた同じダイナーに戻ると、なぜかまだ同じ3人が同じ席についている(実際は翌日に店に向かう)。
そしてまた観察し観察される奇妙な時間が繰り返される。
この奇妙な感覚は実に狂気じみているが、明らかに監督の創作だ。

第三に、製作・公開の時期が実際の事件発生からまだ3年しかたっていないという点が、公衆の顰蹙を買って「異常」扱いされた可能性はある。

今回、37年の歳月を経て、なんと日本初公開。

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ちなみに、この作品が生まれた1983年の3年後には、アメリカで300人殺したという実在の殺人鬼をドキュメントタッチで再現した『ヘンリー』(86/米)が撮られた。
こちらも異形の作品として映画史に名を残している。


1980年のオーストリアの社会背景になにがあったかはわからない。
犯人は自分で「異常」を主張するも、「責任能力はある」と判定され、終身刑に。

灰色の空、冷ややかな空気。
荒い息と内面の呟きの合間に、クラウス・シュルツの劇伴が神経に刺さる。

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なんといっても最大の功労者は、全編ほぼ一人で七転八倒して演じ切ったアーウィン・レダーだが、一方で、まったくの偶然と思われる「犬」が、躍動感あふれすぎる活劇を見せる。
惨劇の館で飼われていたダックスフントは、飼い主たちが次々と酷い目にあっているのを尻目に、犯人に対して吠えることも逃げることもせずに、遊んでくれと言わんばかりにつきまとう。
ヒヤヒヤしたが、結果、よく惨劇に巻き込まれなかったなと思ったら、あろうことか犯人の逃亡にも伴走する。
もはや、まさかの、一目惚れの駆け落ち志願!?
一緒に車に乗せてもらって逃避行。
そこからまるで別のロマンス物語が始まるかのような、犬のルンルン気分だけが浮いた状態で終わる奇妙な恐怖映画だったのだった。


星★評定不可

↓ オフィシャルサイト
http://angst2020.com/



ソワレ

2020年9月


『ソワレ』
外山文治
監督
2020年 日 1時間51分
TOHOシネマズ川崎

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海の音。

道成寺。

浴衣の血。

自転車、夜の紀州鉄道。

未明の浜辺。

駆けて、落ちる。

世界でいちばん未熟なかけおち。
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もう自分の存在自体さえ許されなくなって震えている。

いつ上空から猛禽にかっさらわれてもおかしくない野晒し状態。

自分ではどうすることもできない境遇におかれ、倫理的にも生理的にも許されない蹂躙を受けているのに、報われるどころかさらなる絶望を重ねる。

弱くても生きるのに必死な若者。
生きたいのに、誰かを殺したいと思わせる世の中。

不幸のどん底なら、あとは這い上がるだけ、というのはまやかし。
どん底の果ての果てに行くために、まずは逃げ出せ。

そこから先を描いている。

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これは戦後すぐの『飢餓海峡』などではなく、令和の今だ。

福祉や刑事制度の問題としての範疇だけでなく、さらにその向こう側へとはみだし、イマジネーションの回遊を続けるところに、文学的で複眼的な価値が現れる。


女は、逃げ場所のない現実を痛いほど思い知り、ときに翻って想像の翼を広げて夢見る。
男は、ときに刹那の正義感、いつも半端な楽観主義、でもその場しのぎのご都合主義。


介護施設から老人が逃げ出して追いかけた時、彼女(タカラ)は自分に逃げるという選択肢があるのかどうか、ふと考えたに違いない。
『殯(もがり)の森』河瀨直美/2007)では、逃げた老人と女性介護士は一夜の森の中で包み込まれ禊と癒しの体験をするが、タカラは和歌山の森に救済をしてもらうことも叶わなかった。


現実を思い知った方が勝ちなのか負けなのか。

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互いに、待ち、待たれる映画。
互いに、傷を舐め合う映画。

傷を舐めあうところから始まってもいいじゃないか。
それが愛じゃないなんて誰が言える?

男は、どれだけ女にシンクロできるかが試されているのだ。

オープニングもエンディングもショータ(村上虹郎)の一人称だが、終わってみれば、僕の中ではタカラ(芋生悠)が主役で、ショータは夢の中の人だったように感じる。

かたちとしては、ショータの中ではタカラが夢の中の通過儀礼だったような印象を与えるが、もちろんそれでもいいのだけど、僕としてはそれではタカラの出口なき現実が終わらなさすぎる。

じっさい、最後のエピローグ。
ショータの現実の中でも、タカラは終わらない。
あのあと、二人は会えたのだろうか。
そんな追想が、余韻の中で漂う。

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オープニングから「ソワレ」のタイトルが現れるまでの長い(45分くらい?)序章が見事。
そこだけで短編映画として成立しているかのような、編集の妙。


あの年、『そこのみにて光輝く』が出現した衝撃に近いかもしれない。
『生きてるだけで、愛』もなぜか思い出すのだが、あれは菅田将暉演じる「自分がない男」の、究極のシンクロ力・包容力を示していた。

今年の邦画では『37セカンズ』と並んでイチオシ。
どちらも芋生悠が出演。
彼女の演技力でこの映画は予測以上の跳躍をしている。
いい女優の顔をしている。
あとはこれがどれだけの人に目撃されるかだ。

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伝わった。
映画が伝えようとしている何かが伝わったからこそ、この映画を賛美したい。
大切な作品だと、ぼくは思います。

御坊市・和歌山市を中心としたロケ。
一時期、和歌山に住んだ自分としてはなつかしい。

小泉今日子豊原功補が二人で会社を立ち上げてプロデュースしたことでも話題。

★★★★☆




もったいないキッチン

2020年8月末日


『もったいないキッチン』
ダーヴィド・グロス
監督
2020年 日 1時間35分
シネスイッチ銀座
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食は人を変える。
食や農を考え始めた時点で、もうその人は変わり始めているのかもしれない。

もちろん、グルメ道楽とは真逆の考えの食。
人間本来の、地球にとっても生物にとっても真っ当な「食物」「食べ方」とは。

世界で生産される食料の、なんと3分の1が捨てられているのだ。

前作『0円キッチン』でヨーロッパを走って回った食材救出人=フードアクティビストであるダーヴィド監督が、今度は「もったいない」の言葉でもちあげられる日本を回る第2弾。

実は日本の「食品ロス」=食べられるのに捨てられる食品の量は世界トップクラス。
国民一人当たり、毎日おにぎり1個分捨てている(4人家族なら4個!)計算。
1年間でひと家庭約6万円分の「食べられる」ゴミが捨てられているという。

なぜこんなことに?

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訪問場所のひとつ、食品リサイクル工場の光景がすごかった。
巨大な工場の各セクションに種類別の廃棄物が大量に放り込まれていくのだが、ほぼすべてがその場で口にできそうなものばかり。
コンビニ弁当もそのままに!
それらは混合・攪拌されて養豚用液体飼料と化す。

そのコンビニのひとつに訪問した際は、ローソンの企業幹部が賞味期限について説明している最中にダーヴィドは目の前で賞味期限切れのパスタを食べ始める。
「食べられる」ことと「賞味期限」には実質的に意味のちがいがある。
「それはダメなんです!」と困惑しきりの幹部の優等企業人的な表情と言葉も印象的だし、ダーヴィドのニコニコしながら悠々と口に運ぶ様子が痛快。

日本各地で活動する十数組が次々と取り組みを紹介。
土にまみれ草をむしるおばちゃんから、システマチックにスマートに循環型ローカリズムを研究する若い人まで、老若男女みんなそれぞれに魅力的。
楽しそうに頑張ってくれていて、心強いことこのうえない。

ドキュメンタリー『いただきます』オオタヴィン)もそうだけど、登場する人たちがみんな楽しそうなんだよな。

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大学を卒業したばかりで昆虫食の開発に心血を注いでいる青年は面白い。
ダーヴィドたちも参加して、川岸のザザムシやらコオロギやら芋虫やらを探索してはその場で調理・試食。
国連でも推奨されているというが、ぼくはこれについては遠慮します(^-^;


僕的にいちばん感心したのは、鳥取の里山で野生の菌と酵母だけで発酵させてパンとビールをつくる渡邉格さん。
「地域の天然菌×天然水×自然栽培原料」で地域内循環を成功させている。
工房と醸造所とカフェをつくり、事業としても成立しているってんだからスゴすぎる。
アカデミックな研究家であり職人であるだけでなく、一種の理想郷を実現させているのだ。
真似しようとしても並大抵じゃないけれども。
未来図じゃなくて、現実の姿を見ることができたのが、うれしい驚き。


遅ればせながら最近になって食と農を考え始めたおじさんの僕からしたら、若くして気がつき実践している人たちを見ると、尊敬の念が飛び散る。
理念と行動を一致させてることもすごいし、そもそもそのリネン、どこからサプライされたの?って、まじサプライズ。

その実践には、自ずと思想/哲学ともいうべき行動規範が備わり、真っ当な食や農を実践するには「グローバル資本主義」「新自由主義」に無理があることに気づいている。

もう、わたしを囲って放牧して~って感じ。(イミフ~)

じゃあどうすればいいか。
地産地消。
地域循環型。
自給自足。
フードシェアリング。
要するにローカリズムだ。

食の大量生産やグローバリズム経済、新自由主義に愛想を尽かしたら、そこからでも遅くない。

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一人ひとりができることは小さい。
でも、やりたがってる人は多い。
これだけすでに動いている人たちがいるのだから、乗っかればいいんだ。
自分も家族も、カラダがよろこぶ。

人間は生きてるだけで地球に有害。
ならば極力無駄や無理をなくし、自然を自然として扱いたい、謙虚でありたい。
食物を「モノ」として見るからダメなんだ。
それが生まれて形になる過程をみれば、「生き物」として見られるだろう。
そこがポイントだと思う。

食料不足を補うという目的やレベルを超えてしまった今、行動する理念は自然に決まってくる。

気候変動を一人で食い止めようとするほど大それてはいない。
でも、「ミツバチの羽音と地球の回転」なのだ。

劇場では、前の上映が終わってお母さんたちと小さい子供たちが何組もにぎやかに出て行った。
自発的に鑑賞企画を実施したのだろう。
それもめちゃいい活動だな。






在りし日の歌/ぶあいそうな手紙

2020年8月末日


『在りし日の歌』
ワン・シャオシュアイ
監督
2019年 中 3時間5分
ジャック&ベティ
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中国という国家は大嫌いだが、中国人は好きだ。
それは、こういう映画があるおかげかもしれない。

一庶民の家庭で悲劇が起こったあと、残された人たちは現実にどう向き合い、どう忘れようとし、どう忘れられないのか。
最愛の子どもを亡くした絶望感が、人間関係に何をもたらし、どう変化していくのか。

30年間の日々を丁寧に、日常の情感を手に取るように描く。
初めの事故のあとは突飛な事件は起こらないが、当人たちにとって精一杯の当たり前の必死さは、しばしば激情となって洩れてくる。
それでも映画は包み込むような空気感と音楽で、彼らに柔らかな時間と深い慈愛を与える。
観る者にとってもそれは切なくも尊い物語として蝕知されるだろう。

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ラストまで見届けてあらためて驚くのは、そこに「憎悪」がないということ。
登場人物の親密な関係に悲しい変化は生じるものの、事件という外力によって否応なく歪められた変化であって、容易に互いを憎まない。
当人たちの内心は、悲しみは変わらぬまま残るが、時とともに癒され、止まっていた時計は動き出し、互いのいたわりの念に気づいて、老いてなお息を吹き返していく。

長い年月の移り変わりを描くのに、これだけ情感の機微を掬いとり集中して映しとれるのは、奇跡に近い。

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説明的描写を極端に排し、セリフも少ない独特の演出法あってこそ。

それだけに冒頭からしばらくは、筋を摑むのが大変だ。
しかも時系列をランダムに前後させるシナリオ&編集のため、人物やその行動や場所などの脈絡を理解するのに時間がかかる。
死んだ子供がなぜここに?と仰天することも。

それが逆に、符号をパズルのようにつなぎあわせる謎解きのようであるがゆえに、長時間の鑑賞も全く苦にならない。
(最後まで呑み込めない部分もあったが)

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改革開放や一人っ子政策などを背景に、“小市民”が政治に翻弄され人生を大きく左右される。
にもかかわらず、国家に対する怒りは示されずただひたすら辛苦を耐え忍び、声なき叫びでむせび泣く。
作品が国家の検閲を意識していることもあるだろうが、登場人物たちの得も言われぬ表情のその下には、国家への憎しみだけは密かに隠し持っていたことは誰もが容易に想像できるだろう。


ワン・シャオシュアイ監督は、ロウ・イエ、ジャ・ジャンクーら「中国第6世代」のひとりだが、その作品は日本ではほとんど公開されていない。
ロードショーは今作が初めて。
他の作品が公開されないままならば、そうとうな文化的かつ国交的損失になると推察される。
中国への理解を深めるためにも、配給・公開を強く願う。

★★★★☆



『ぶあいそうな手紙』
アナ・ルイーザ・アゼベード
監督
Aos olhos de Ernesto 2019年 ブラジル 2時間3分
シネスイッチ銀座

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頑固な独居老人。
離れて暮らす息子。
偶然出会ったストリートガール。
アパートの隣の老人。

ほぼそれだけの登場人物で、豊かな情感を醸し出している。

老いて視力が弱くなっているし、息子からは部屋を売って一緒に暮らすことを催促されていて、人生の締めくくりを考える時期であることはわかってはいても、あまり考えたくはない。

そんな枯れたネガティブ志向が、届いた手紙によってガラリと色めき立つ。
少しの水やりで、思いがけず艶を取り戻し、また別の人にも水は伝わっていく。

立場の弱い者たちが、表層では我欲やこだわりや諦めを見せつつも、実はひそかに互いにユナイトする気持ちが内在している、そんなそこはかとないあたたかさを湛えた物語。

先行きなんか実に不安だらけで何もハッピーエンドじゃないけれど、生活が安定した人たちや現役バリバリの息子たちよりも、ずっと豊かで幸せそうに見えるのだ。

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前時代的な手段である「手紙」という通信手段であればこそ、紡ぎ出される味わい。
スロー・コミュニケーションという猶予時間と、相手の見えないことによる想像力。


手紙をモチーフにした映画は、感動の触媒としては定番だ。
ブラジルとあって、思い出すのは『セントラル・ステーション』
代筆をするというモチーフだけは似ている。
ノルウェーの感動作『ヤコブへの手紙』は、盲目の老人に若い女性が代読するという形式が同じ。
『Love Letter』『ラストレター』などで岩井俊二お得意の手紙は、出す相手や送り主が不在/不明なまま進行して謎めかせる。
チャン・イーモウ『妻への旅路』は、探し求める手紙の相手が目の前にいるのに認知できず、もどかしくも切ない。

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そんなふうに「手紙映画」だけ取っても、歴代の名作は枚挙に暇がない。
それらに比べると、今作はとくべつ光るアイデアもなく、物語の結末も、ほんわかじわっとくるにはくるが、驚きはなく凡庸に終わる。

地元の文化に造詣が深ければ、登場する詩や小説の意義深さをもっと感じられただろう。

ポルトガル語とスペイン語の差異については、なるほどそのくらいの距離感なのね、と感覚で理解できたのはよかった。

「ぶあいそうな」手紙なんか出てきたかな?

エンディングは、カエタノ・ヴェローソの甘い弾き語りがしばらく余韻を長引かせてくれる。

★★★☆



はりぼて/お百姓さんになりたい/沖縄の民

2020年8月
ドキュメンタリー2本と古い実録ドラマ1本


『はりぼて』
五百旗頭幸男・砂沢智史 
監督
2020年 日 1時間40分 ドキュ
ユーロスペース
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予告編を見ればわかるだろう。
失笑を誘う愚行、それをつなぐテンポと音楽。
コメディとして、風刺として、面白そうだ!と一瞬で掴まれた。

ただし、本編を見れば、失笑の顔面には次第に苦虫が走る。
あきれ果て、最後に残るのは憐みよりも哀しみか。

自民王国・富山の市議会。
誰もが「なんて腐った議員たちなんだ!」と思うだろう。
でも同時に、「この国の縮図だろう」とも思う。

「公僕」が人の上にふんぞり返り、税金を当たり前のように自分のために使い、隠し、嘘をつき、バレると偽善的な言い訳をし、「みんなやってる」とか「会派できまってる」とか開き直り、逆切れし、風向きがあやしくなると手のひらを返して謝罪し、ときに土下座までする。

そのドミノ倒し、あれよあれよと14人辞職。
政務活動費の使用基準を「全国一厳格化」したはずだが、さらにあとから詐欺容疑が芋づる式に出てきて都合25人。

おまけに、調査報道のため公文書開示請求をすると、そのことが関係議員に密告される。
それもバレると、しどろもどろ。
守秘義務違反だという意識すらなく。

出直し選挙をすると、また当選する重鎮も。
選ぶ方も選ぶ方だ。
地方を牛耳る自民党の、「地盤・看板・カバン」その他、組織や世襲や伝統や保守性に、有権者の無思考が蓄積されているのだろう。
批判してもされても、「なあなあ」や「まあまあ」で回っていく。

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見ていてどうにも生理的に落ち着かないのは、出てくる議会関係者や公務員たちが、ほぼ100%男性だということ。
それも、根っからの「オヤジ」気質や「体育会」体質があふれんばかりの異臭となって気分をわるくさせる。
頭がよさそうに見える人も一人もいない。
トホホ。

頭がいい人は政治をやらないのか。
地方議会、恐るべし。
これがここだけではなく全国で同じような事態が蔓延していることは、最近あらためて思い知った。
広島の国政選挙の話ではあるが、河井前法相夫妻の一件である。
政党からの支援金を湯水のように「もっとばらまけ」という指示が、昔から慣習のようにあったという声が漏れ聞こえてきた。
違法で重罪であることは自明なのに。
この国はトップから末端まで嘘と背信にどっぷりと浸かっているんだよね。
だからみな同じように、
「なぜおれたちだけが捕まるの?」
という顔になるんだ。
映画でも、
「だってみんなやってるもの」
と、重鎮があっけらかんと発言している。

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これは地元チューリップテレビの二人が調査し、当初スクープとしてテレビ番組で報道したものを元にしている。
報道の名誉ある賞の数々を獲ったが、その後の顛末も追って映画にした。

他の報道各社がどれだけ取材や告発に積極的だったか、わからない。
この映画を観る限りは、チューリップテレビだけが追求しているように見える。

不安は、最後にもうひとつの哀しいこととして現れた。
監督二人の、それぞれの結末だ。
取材を終えたあと、報道番組の看板キャスターでもある五百旗頭監督は、「社の報道姿勢にはもう耐えられない」として辞職した。
もうひとりの砂沢監督は、取材対象だった重鎮議員に「もうこれが最後になります」と挨拶に行き、「社長室」という肩書の名刺を渡す。

このテレビ局の政治汚職に切り込むジャーナリズムとしての姿勢が、議員に嫌われ、局に圧力がかかったのだろうということは推して知るべし。

結局何も変わらないのだろうか。
翻って、ぼくらそれぞれの地元の議会は大丈夫だろうか??とチェックしていかないといけないのだ。
対岸の火事ではなく他山の石として。

そんな優等生的な結論から逃れようもなくここに書かざるを得ないのが、めんどくさいが現実のぼくらの生きる社会なのだった。





『お百姓さんになりたい』
原村政樹
 監督
2019年 日 1時間44分 vimeo
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現実に自分が農業にかかわるとしたら。
そういう脳内シミュレーションのつもりで観てみた。

生業としてやるには、当然、専門的な知識と、労力を無駄と思わぬ胆力が必要。
もちろん主人公の明石誠一さんは理想を高くもった腰の据わった人だ。
研修生を何人も受け入れて、本格的な自立を手助けしている。

でも、どんな人にでも農業に触れあってもらいたい、間口を広げたい。
農薬を使わない小規模な自然農法にこだわりたい。
これからの日本の未来を展望すれば、より納得のいく生活スタイルを考えたい。

そんな考え方は、今とくにコロナ禍の都会の人たちとも広く共有できるはずのものだ。
週末だけでも、月2回だけでも通いたい。
そんな想定で気軽に参加できる「レンタル農園」も増えている。

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昨今心配されている、「種苗法」改正によって自家採種できなくなるという流れのなかで、あたりまえのように自家採種をし、翌年続けてそれを播いている姿は、驚きと同時に安堵もしている。

「F1種」とちがって、「固定種」から不揃いな作物ができるということは、人間も同じで、味があり、多様性こそが強みということ。

そんなコンセプトは、障碍児も一緒に参加して収穫や料理をするイベントを実行するなどして反映もされ、言行一致がすばらしい。

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草取りがやっぱりやたら大変そうだ。
有機農法で菌の発酵を利用すれば、むしろ雑草は取らない方がいいと聞いていた面倒くさがりのオレとしては、その辺はどうなのかなとも思った。

いやいやそれどころか、毎日38度レベルのこの夏世界で、暑さや虫に負けずに畑で作業をする根性が、みんなどこから出てくるのだろうか。
という、何歩も前の段階で、ヘタレ予備軍になりそうな自分なのである。





『沖縄の民』
古川卓巳
監督
原作:石野径一郎
1956年 日 1時間36分 GYAO!
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前回観た『あゝひめゆりの塔』と同じ原作者。

主人公は小学校教師と学生、物語の始まりは疎開船「対馬丸」沈没前夜から、という点で共通点は多い。
しかしラストは、『ひめゆり』が6月末の集団自決で終わるのに対して、これは終戦後まで見せている。

米軍兵の呼びかけに応じて投降した民間人たちの様子や、その中の学徒兵(長門裕之)がガマの中の日本人たちに自決せずに出てくるように呼び掛ける顛末も描かれる。

終戦後11月になると、ようやく疎開していた子供たちが内地から帰還する。

バラックより粗末な仮設の教室で、生徒が作文を読むシーン。
「はやく日本に帰りたい」
「寂しい小さな島から、美しい日の丸の日本に帰りたい」
と強調していたのは不思議だった。
(これは沖縄の本土返還のことではなくて、本土から沖縄に子供が預けられているということなのだろうか。元々沖縄の子だとしたら、たかだか1年くらいで「本土の子」になったりはしないだろうに。どういうことなのかおわかりの方がいたら教えてほしい)

そこで教師(左幸子)のアップになり、バックに戦闘機の音がかぶさるところで溶暗。
その後の長く続く占領下のオキナワを象徴させるような不吉なラストだ。

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空襲や爆撃などに結構なコストをかけていて、意外に大作だった。

『ひめゆり』でもそうだったのだが、言葉とイントネーションが全くウチナーグチではないのがリアルじゃなくて残念。

★★★☆

ドキュメンタリー沖縄戦/あゝひめゆりの塔/愛と死の記録

2020年8月


『ドキュメンタリー沖縄戦  知られざる悲しみの記憶』
太田隆文
監督
2019年 日本 1時間45分 ジャック&ベティ

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「鉄の暴風」とは。
沖縄のおじいおばあがよく口にするけれど、イメージが湧かなかった。
「カンポーシャゲキ」とは。
これ(=艦砲射撃)も同じく、具体的になにが凄かったのか、よく知らなかった。
沖縄の映像や本を少なからず目にしてきたはずなのに。

それが、このドキュメンタリーを見れば、ショックとともに即効納得。
本当に鉄の弾の暴風なんだ。
やはり映像は強い。

つい先日、8月2日のNHKスペシャル『沖縄“出口なき”戦場~最後の1か月で何が~』を見て、艦砲射撃の何が特別だったのかを知ったばかりだった。

沿岸を埋め尽くした何十隻もの軍艦から、何百万発もの砲弾が、内陸まで射程距離も十分に、目標地点に正確に、何日間にもわたって連射されるのだ。
道に大きな穴がボコボコ残り、街の壊滅どころではなく、地形が変わる。
不発弾も何十トンといわれ、いまだに処理が続く。

沖縄以外の本土でも戦争末期には数か所で艦砲射撃は行われているが、これだけ徹底集中してやられたのは他にない。
もちろん空爆も行われているが、艦砲射撃の方が当時は効率がよかったのだという。
弾薬搭載量と威力と正確さの点で。
なにせ米軍の軍事技術の進化は、200ヤード(183m)四方のマス目を引いたグリッドマップ上の地点に正確に砲撃できるレベルだったのだ。

そういった情報に、この映画の記録動画が裏打ちされ、その凄まじさをあらためて脳裡に焼き付けることができた。

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本土決戦のための捨て石となり唯一の地上戦となった沖縄戦だというのに、75年間、その中身については、あまり知られてこなかったようだ。
映像などで作品化されてこなかったせいだろうか。
劇映画では、『ひめゆりの塔』の4作品ばかり。
『ひめゆりの塔』(今井正/1953)
『あゝひめゆりの塔』(舛田利雄/1968)
『ひめゆりの塔』 (今井正/1982)
『ひめゆりの塔』 (神山征二郎/1995)
他には岡本喜八監督の実録もの『沖縄決戦』、最近発見した古川卓巳監督『沖縄の民』ぐらい。
『太陽の子 てだのふあ』(監督:浦山桐郎/原作:灰谷健次郎)は、沖縄戦を包み隠しつつ仄めかすという手法で文学たらしめている。

だから今回の沖縄戦そのものを正面から扱ったドキュメンタリーは、今後永久保存版として貴重な資料となるだろう。
「中学生でも難なくみられるように」わかりやすく作ったという入門編でありながら、この数奇で狂乱無比な戦争の本質をとらえている点で、老いも若きもすべての人にとって知識のベースになるべき教材となっている。

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ありがたきことに、証言してくれているのは各地で九死に一生を得て生き延びたおじいおばあたち。
トラウマを乗り越えて、記憶が風化しないように、必死でカメラに語ってくれた。
たとえ語り部がいなくなっても、このフィルムに刻印された言葉と声と表情が、まざまざと過去を甦らせてくれるだろう。


集団疎開の子供たちを乗せたまま撃沈された対馬丸から、数日間漂流して助かった女性の悲憤。
「集団自決」ならぬ「強制集団死」から生き延びた男性の悲嘆。
ガマにいた仲間たちから「赤ん坊がうるさい」と追い出された女性の慟哭。

なぜ親は可愛い我が子を殺さなければならなかったのか。

「軍は民を守ってくれなかった」
「兵隊は自分たちのために住民を殺すことさえ厭わない」
と、誰もが証言する。

なぜかわいい子たちが自分や兄弟を殺さねばならなかったのか。

皇国教育は「生きて虜囚の辱めを受けず」という洗脳を施し、軍は手榴弾や青酸カリを住民に手渡した。

なぜ6月に沖縄戦が集結してからも、8月15日に終戦してからも、沖縄の戦争は終わらなかったのか。

密告を恐れるあまり、日本人どうしのスパイ狩りが始まった。
そうさせていたのは陸軍中野学校出身の赴任者たちだ。

たしかな資料と取材と検証を蓄積してきた8名の専門家たちは、詳細に解説をしてくれる。
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米軍の記録映像をもとに地上戦を時系列で追いながら、インタビューが挿し挟まれる。
ときに証言の声のトーンが高まると、凄惨な実態を示す記録映像がフラッシュバックされる。

戦争体験者である宝田明のナレーションは、終盤には激情を抑えられずに涙の訴えとなる。

遺体の映像が苦手な人もいるだろうが、単なる教育映画ではなく、見飽きさせない作りになっているし、なによりも、生き証人であるおじいおばあの生々しい実体験の語りには、胸がつまり唇は震え目が離せない。

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集団に自決をさせた、つまり自決ではなく強制死であることはいくつもの資料で明らかなのに、国は一切認めない。
皇国教育という洗脳で死なせ、片や英霊の名のもとに死んだ人を讃える。

あるいはまた、裏切りの逃亡兵やスパイという名で抹殺し、はたまた外国人という名で捨て去る。

いずれも国家は国家のために国内の人民を殺し、責任は一貫してとらない。
いや、「責任があった」とも言わない。

沖縄については、さらに「二級国民」扱いだ。
「本土と同じ国民でありながら、本土は沖縄を見下し、劣等の扱いをしている」と米国に見抜かれ、そこを見事に利用された。
米軍は沖縄と本土の関係や歴史を研究し、本土が沖縄を捨て石にすると見抜いていたのだ。

そして。

戦後はどうなったか。
沖縄だけ占領地として残され、米国と日本の二重支配が続いた。
返還がかなって半世紀近くたった今、何が変わっただろうか。

沖縄戦を見ることによって、今に至る戦後の沖縄の屈辱的支配がよりよく理解できる。
明治政府による琉球処分以来の、ウチナンチュのルサンチマンに少し近づけるかもしれない。

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当たり前のことを言うが、戦争の記録を見たり聞いたり読んだりするときに心しなければいけないのは、「被害」を悲しむことだけではない。
戦争は<敵/味方>つまり<加害と被害>の両面あるのだから、もちろん「加害」をしたこと、相手の「被害」への悲しみを感じ責任を負うこと。

そこには戦争を仕掛けた方の責任云々は超越していて、原爆投下を反省しない米国が日本の真珠湾先制攻撃にすべての責任を担わせていることもまた理不尽だ。
(真珠湾攻撃についてはルーズベルトが事前に察知していながら放置したという陰謀説もある)
市民を巻き込む無差別攻撃は、局面局面において、相対的ではなく絶対的に非難されるべきものだと思う。

さらにその「被害」は、相手国によってもたらされた無差別攻撃への怒りも妥当であると同時に、自国によって「さらなる被害」へと仕向けられる、国家権力とその狂信者への怒りも感じなければならない。
国家と軍の、市民への裏切りと蹂躙は、ときに米軍の無差別攻撃に対する怒りをも凌駕してしまうこともありうる。

だから沖縄戦を知るにつけ、米軍のみならず日本軍に対しても、二重の怒りがはっきりと自分の中に身をもたげてくるのだ。


糸満市摩文仁の丘の「平和の礎」には、沖縄戦で亡くなった国籍や軍民問わず全ての犠牲者20万人以上の名を刻んで慰霊している。
「靖国」との違いは歴然だ。

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沖縄の「戦後」については、ドキュメンタリー映画が最近たてつづけにつくられるようになった。
DVD化されているもの、配信されているものもあるので、調べてアクセスしてほしい。
※尚、下記のリストはすべてこのたぴおかブログ内にレビューが書かれています。ブログ内検索で探してみてください。

『沖縄列島』(東陽一/1969)
『沖縄 うりずんの雨』(ジャン・ユンカーマン/2015)
『標的の村』(三上智恵/2013)
『戦場ぬ止み』(三上智恵/2015)
『標的の島 風かたか』(三上智恵/2017)
『沖縄スパイ戦史』(大矢英代・三上智恵/2018)
『OKINAWA1965』(都鳥伸也/2017)
『米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー』(佐古忠彦/2017)
『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(佐古忠彦/2019)

※劇映画『沖縄』(武田敦監督/地井武男主演/1969)も必見。
これとドキュメンタリー『沖縄列島』は、本土返還前の米軍統治時代にロケを敢行した稀有なフィルムだ。




『あゝひめゆりの塔』
舛田利雄
監督
1968年 日活 2時間5分 録画
吉永小百合、浜田光夫、和泉雅子、二谷英明、中村翫右衛門、乙羽信子、ほか

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息が苦しい。
胸が潰される。

最後の最後まで救いがなく、観終わってもしばらく涙が途切れない。


終戦の一年前、師範学校の教育実習生として希望に燃えていた時期から物語は始まる。
しばらくして対馬丸の悲劇があり、住む島が激戦地になる予感が日に日に高まってくる。
一年後の6月末、ひめゆり学徒隊が解散するまでを、戦況も包括して描いている。

劇映画としては、岡本喜八の『沖縄決戦』よりも、地上戦の最前線、女子供まで巻き込んだ軍民一体の修羅場がつぶさにわかる点で、ずっと的確で核心をついた作品だと思う。

舞台の一つとなった「南風原(はえばる)陸軍病院壕」は、その旧跡が一般公開されている。
当時の地獄の様相を知るにはここがいちばん。
記念館も併設されているが、壕の中へも案内してくれる。

壕の外では「飯上げの道」をおしえてくれた。
ひめゆり学徒隊が飯炊き場から壕まで食料を運ぶ道は、常に空襲に晒される危険な道。
この映画でも悲劇を生んだシーンとして再現されている。

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この映画も学校で必修教材として使ってほしい。
もちろん、現地のひめゆりの塔や南風原病院壕に足を運ぶことも。

★★★★



『愛と死の記録』
蔵原惟繕
監督
1966年 日活 1時間32分 録画
吉永小百合、渡哲也、佐野浅夫、ほか

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小百合さんの主演じゃなかったら、僕はここまで食いついただろうか。

渡哲也吉永小百合の純愛カップルのウブなやり取りや仕草が、ほほえましい以上にクサくて笑ってしまうほどなのだが、話は徐々に深刻になり、命の話と原爆の話が急速にクロースアップされてクライマックスへ向かう。
そこから先のラスト30分に何があるのか知らずに観ると、小百合さんの演技が予想を超えて違う次元へ行ってしまうのに驚く。

結末に救いがないのは『ひめゆり』と同じく。
社会派告発映画として、毎年8月になると思い出される映画のひとつになっているだろう。

終戦の年に生まれた吉永小百合20歳の時に撮られた作品。

(その2年前に撮られた同じく小百合さんの純愛もの『愛と死をみつめて』は全く別物)

★★★☆



ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき ~空と木の実の9年間~

2020年 8月


『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間』
常井美幸
監督
2019年 日 1時間24分

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『腐女子、うっかりゲイに告る』とか、LGBTで不遇を味わっている人物が作品に出てくると、つい「いいんだよ、オッケーだよ!」って包容(抱擁)してあげたくなってしょうがない。
で、うっかり自分の子供がそばにいると、
「君たち、もしもそういうことで悩んでいたりしたら、おれはぜんぜん気にしないから、心配せずに打ち明けてもらってもいいんだぞ。君は君であって、何も変わらないんだから」
と話しかけちゃったりする。
子供たちは失笑しながら、「何言ってんだ、このオヤジ」と思っているのだろうが、とりあえず心配はないようだ。

ここに登場する主役の子も、中学生の不安な暗い表情から始まるのだけど、いたいけでかわいくて、「よしよし」と言ってやりたくてたまらない。


9年間。
このドキュメンタリーのいちばんの魅力は、自らの性に違和感をもった少年の、思春期から9年間の長きにわたって、その内面の変容をつぶさに映しとった点にあるだろう。

サブタイトルの「空と木の実」とは。
あまり予習をせぬまま観たら、「空」はタカマサくんだということはわかるが、「木の実」って誰だろう?と思いながらずっと見ることになった。
途中で幾度となく「木の実」による微笑ましい詩が紹介されるのを追いながら。

最後にサプライズが待っていた。
それをナチュラルに納得している彼、いや木の実に対しても驚いた。

「とっても幸せです」
と言い切る、主役の9年後におどろいた。

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これを観てあらためて思い知ったのは、「性」というのは自分でさえなかなかわからないものだということ。
「自分は女ではない!」とはっきり自覚していたとしても、もう一つの選択肢は当然「男」だろうと自らあてはめる。
でもそれが固定観念だということに、あとになって、他人から気づかされる。

選択肢が「男/女」の二枠しかなければ、そのどちらかだと思ってしまうのが自然だ。
違和感ばかりが残ったまま。
本当の自分に気づくまで、心労だけでなく、なんと時間のかかることか。

戸籍にも、履歴書にも、パスポートにも、あこがれの職業にも、入り口はその2枠しか用意されていない。

自分が夢のひとつとしてきた、性別を変えて人生のスタート地点に立つということ。
「ぼくはマイナスだからプラスにする前にまずゼロにしなくちゃいけない」

ようやくゼロにリセットできたと思ったら、さらにそこから本当の「ゼロ」に戻る必要があった。
人生の「自由」へとはばたくには、さらなる障碍が立ちはだかるのだ。

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この事例はあくまで特異的な個人の事例であって、もちろん個人の事例である以上は「特異的」以外にあり得ない。
そのうえで空雅くん/木の実さんの特異的な点を言うとすれば、監督が指摘する通り、「葛藤がない」点だ。
小学生の頃からいじめに遭い、傷ついてきたが、迷いはなかった。
常に自分の感覚に対してごまかしはせず、行動への決意は揺らがなかった。
将来への夢も確固としていた。

これは稀なケースかもしれない。
(監督自身、「ドキュメンタリーとしては“葛藤”を描くのが本分のはずなのに・・・」と困ってしまったほどだという)


そしてさらに特異的な点は、お母さんが理解ある人だという点。
DV経験者でシングルマザーではあるものの、負の連鎖に向かうのではなく、見事に経験をプラスに替えている。

子どものありのままを自然に受け入れる親の存在ほど、子どもにとって心強いものはないだろう。
とても幸運だと思う。
それが空雅くんの決断力を生み出しているのかな。


目標の一つを果たし、さて。
社会の堅い窓をこじ開けるべきか。
自分の内面の自由を拡張するべきなのか。

いや、この主人公は、僕らが思うより自由だった。

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映画の中でたびたび登場した4種のチャート図が、とてもわかりやすかった。

「性自認」のグラデーション
「身体の性」のグラデーション
「性指向」のグラデーション
「性表現」のグラデーション

「LGBTQ」とはいっても、その範疇にもまとめられない、まさに千差万別。
グラデーション×4の個性が個々にある。

かといって、出会うときにいちいち図で確認して、この人は・・・うーんと、えーと、これがこうだから・・・と頭に入れてからつきあうのも、不自然でおかしい。

「小林空雅くん」が高校に入って、性別は度外視して個人の「こばやしたかまさくん」以外の誰でもない友人として認知されたように、そんな関係が理想だ。

みんながカジュアルにもつはずの偏見を、意識して取り払わないと、だれでも寛容につきあうことはできない。
目の前の知人がどういう人か、秘密まで知ることはできないのだから、自分の視野と知識と距離感は常に試されている。
まずこういう映画を観るなどして「知る」ことが大切だ。

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『恋とボルバキア』(小野さやか)というとても興味深い傑作ドキュメンタリーがあった。

例の4種のグラデーションの観点からみても、一人ひとり全く違うバリエーションの多彩な人物が登場し、それぞれがまたちがったタイプの人とパートナーになったりして、カオスのようにあざなえる人間関係をつくりだしている。
監督の独特のクリエイティビティも発揮されていて、記録映画以上のドラマチックな群像劇を見るようだった。

 ↓  ↓  当ブログの該当ページ参照  ↓  ↓
https://tapio.at.webry.info/201804/article_2.html?1596978495

でも、みんな、葛藤し、挫折し、逡巡している。
家族からも忌避されたり、強制されたりと、理解されない例ばかりだ。
自分の肉体をどうすべきか、という問題もとてつもなく大きい。

空と木の実の今作においても、他に6名の事例を紹介してくれているが、家族から縁を切られたり、理不尽な絶望を経てきている。

そんな中でこの空雅くん/木の実さんのお母さんは、類まれな懐の深い対応をしている。
上のお子さんはアスペルガーだという。
彼女の家族や背景に関しても、もっと知りたいなと思ったら、パンフレットに彼女自身の文章が掲載されていた。
今はカウンセラーとして働いているという。

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この20~30年で、状況はかなり変わってきた。
「LGBTQ」という言葉ができ、そのワードを知らない人も少なくなってきた。
パートナー制度を設ける自治体も出てきた。

「性同一性障害」はもはや言葉として異論あり。
「障碍」でさえないのではないか。


しかし。
『腐女子、うっかりゲイに告る』を見ると愕然とするのだ。
いまだに、LGBTQへの理解が親世代にも子供世代にも浸透していないのか?と思わせられる事実に。

LGBTQの人の自殺率は、そうでない人に比べて6倍だと推察されている。
自殺を考えたことのある人は60%だという。

これを嘲笑し「生産性がない」これらの人への「支援の度が過ぎる」とミスリードする、杉田水脈議員らによる官製ヘイトもつい最近のことだ。


無意識の中のカジュアルヘイトは、民族・国籍であれ、出自であれ、肌の色であれ、容貌であれ、障碍者であれ、病気であれ、性別であれ、ミソジニーであれ、無意識だから自分でも気づかない。
自己検証しつづけなければ。
いくつになっても。
時代が変わっても。

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すてきな挿入歌は、両角沙霧ソールさんによる歌。
常人離れした歌声は、すでに大物感十分。
要注目。
彼女のお母さんはプロデューサーの美由紀さん。
撮影途中で早世してしまわれましたが、次のように語っています。

「自分の【意思】ではどうすることもできないことに対して不当な差別を受け、皆と同じ生活を送ることができない…。 言葉で表現するのはとても簡単ですが、当事者にとっては、想像を絶する苦悩なのではないでしょうか。 どんな人にも生きる価値があり、そのひとりひとりにより社会はできているのだから、異なる個性を受容できる社会が本来あるべき社会であると、私は思います。それは【単なる理想的な社会】ではなく【実現可能な社会】です。 ではなぜ、そんな【実現できる社会】が実現できていないのか…? 多くのGIDの方々が生きづらさから自らの命を絶つ状況が続く中、本作品を通して、社会を構成するひとりでも多くの方々が、【違うこと】に対する新たな認識を持っていただけたらと思います」
注:GID=性同一性障害(gender identity disorder

「単なる理想的な社会」ではなく「実現可能な社会」と呼ぶところにグッときました。

この作品は、監督の美幸さん、プロデューサーの美由紀さん、主役のお母さんの小林美由起さん、準主役の八代みゆきさんの、4人のミユキさんを中心にできあがった、すてきなメッセージソングなのです。

「LGBTQ」以上の用語についてfurther informationさらなる知識のために、下記のサイトが参考になります。
 ↓   ↓   ↓   「トランスジェンダーとは?」
https://jobrainbow.jp/magazine/transgid

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ラ・ヨローナ彷徨う女/8日で死んだ怪獣の12日の物語

2020年8月

『ラ・ヨローナ 彷徨う女』
ハイロ・ブスタマンテ
監督
La Llorona 2019年 グアテマラ 1時間37分

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ホラー映画だと思ったら大まちがい。
ある意味、面喰う。
ホラーの体裁を借りた、ジェノサイド告発映画だ。

同じ『ラ・ヨローナ』の前作「泣く女」編とは全く系統を異にする。
前作がハリウッド系の『死霊館』シリーズだったのに対し、今作はグアテマラ国籍の、グアテマラ人監督とマヤ人女優のタッグ作品だ。
(2015年ベルリンで銀熊を得た『火の山のマリア』のふたり)

1980年代にグアテマラで20万人ともいわれるマヤ人大虐殺を首謀した実在のリオス・モント元大統領の所業を告発し、裁判で有罪にした一連の国民運動を、直接的に取り上げてフィクションにしたという点で貴重。

その内容の重大さと怒りと悲しみを最大限に増幅してアピールするために、「ホラー」「スリラー」というジャンルや「シリーズ」ものを利用し、スペイン語すら通じないマヤ語をきちんと扱い、マヤ民族というマイノリティを世界の俎上に乗せたという点でも、何重にも稀有な作品だ。

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なんたって、終盤近くまでホラーのホの字もない。
でも、スリラー的にはコワイ。
なぜコワイかといえば、強権政治への民族の怨念がフィルムに染みついているから。
怒りと悲しみは、通奏低音となって全編を貫く。

裁判で有罪になったあと、後継の大統領によって「憲法上無効」とされ釈放された元将軍(当作品中ではエンリケ)の私邸には、抗議のデモが連日昼夜となく押しかける。事実上軟禁状態のエンリケ家族は、邸宅内で24時間シュプレヒコールを聞きながらの生活を余儀なくされる。

そんな音を背後にして、家族と使用人とのあいだの心理劇がつづくのだ。
エンリケをはじめ、その妻たちも精神を蝕まれていくのがよくわかる異様な舞台設定は見事。

物が投げられ、窓が割られる。
娘や孫は、エンリケの所業について客観的に見るようになる。

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新たに若い使用人アルマが住み込むと、エンリケの夢遊病がひどくなり、より奇妙な現象が多発する。

エンリケを支え、「庶民は従属するもの、異論は共産主義」という頭しかなかった将軍の妻も、しだいに罪悪感に苛まれ白日夢に苦しむようになる。

謎多きアルマの過去に、妻が入り込み同化していくことで、夫と軍事政権のしでかした真相が映像で示される。

この妻の変わりようがひとつの見どころ。

一方、アルマや孫娘をことさら怖い表情などでオカルト的な演出をしないところは、とても好感が持てる。

アルマ役の主演、マリア・メルセデス・コロイは典型的なマヤ人の相貌。
寡黙に対象を見つめる目ヂカラは、威力十分だ。

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グアテマラ大虐殺とその責任追及に関しては、『グラニート』『500年』という2本のドキュメンタリーが詳しい。
↓ 以前、当ブログでレビューしました ↓
https://tapio.at.webry.info/201807/article_1.html?1596334345


エンディング曲は「ジョロ~ナ、ジョロ~ナ・・」と繰り返す。
スペイン語でも、中南米では「ヨ」(llo)(yo)が「ジョ」となる。

そのラテン特有の乾いた声の湿ったフレーズは、まるであなたの夢の中に潜り込んでくる、名を秘した切実な想いのようだ。

★★★★☆



『8日で死んだ怪獣の12日の物語』
岩井俊二
監督
2020年 日 1時間28分

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みんなリモートの向こうからこんにちは。
閉塞感のなかで気持ちだけは羽ばたいて、白黒の夢をみている。

毎朝目覚め、ON
日常こそが夢のよう。

浮かないファンタジー。
色彩のない自家栽培。

(これって、<ネタバレ注意>とかあるんだろうか?)
(ネタバレ前提でもいい感じのネタじゃない?)
(というわけで、気にせず喋っちゃいますけど)

原案の樋口真嗣監督が口にする怪獣の名前はすべて僕の愛着のある名前。
ガッツ星人の頭部なんか、樋口氏が思い至る前にひとり呟いてたし。

ウィンダム、ミクラス、アギラ。
カプセル怪獣の「弱さ」は、子ども時代の「強き者」への諦めの象徴であるし、コロナ時代のかなしき欺瞞の象徴でもあり。

しかし、昆虫ほどにも動かない飼育生物は、どうにもワクワクしない。
B級というより、B⁻かな

てか、8日で死んでなくない?
あと数日生きてたよね?

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星人さんを通販で購入したのんさんは、ふだん通りの超越感。

尊き穂志もえかさんは、いつも以上にガーリーな超越感。

ええっと、他にほめるところはないかな、、、

えっと、えっと、、、

劇場でわざわざ見るものではないので、配信を観るチャンスがあればどうぞ。
岩井監督自ら、「気休めになれば」と言っちゃっている、そういうたぐいの作品ですから。

★★☆

パブリック/透明人間/鬼が来た!

2020年7月

『パブリック 図書館の奇跡』
エミリオ・エステベス
監督
The Public 2018年 米 1時間59分

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記録的な台風被害のあった昨年、上野公園の避難所でホームレスが追い出されるという事件があった。

この映画を知った時、まずそれを想い起こした。
映画を観てみるとそれ以外に、途中からは俄然いま世界で沸騰中の“BLACK LIVES MATTER”と同期させてくれた。
2年前に作られているのに、登場人物たちは現在進行中のストリートから入り込んできたかのようで、動悸を感じる。



「図書館」という場所が、社会にとって市民にとってどのような象徴的な意味を持つか。
今の日本では考える機会があまりないかもしれない。
ただの「本を借りる場所」という以外に。

それでも、映画化もされ話題になった小説『図書館戦争』(有川浩)では、その「民主主義の最後の砦」としての重大な役割がテーマとなっていたりする。

あるいは、快哉を叫んだのは一昨年の暮れ、練馬区立図書館が民間委託に抗して教育委員会との交渉でストライキ宣言をしたこと。
久しぶりに聞いた公共の権利を守る「スト」に、目が覚める思いだった。

日本の図書館にも、ホームレスの方はよく入館し滞在している。
お手洗いには「洗髪禁止」と貼り紙があり、閲覧室では寝ている方も見かけるし、ことに匂いには無視できないものがある。

非常時の避難所でさえ「匂いが迷惑」という感覚が優先されてしまうのは、やはりふだんから貧困層や移民・難民との接触が欧米と比べて格段に少ないからだろう。
欧米では差別が目に見えているぶん、「公共」や「人権」に対して行政も人々も意識的だし、コンプライアンスもできている。

映画にも出てくるが、図書館の公共サービスとしての役割は、本の貸し出しというミニマムから、「オピオイド中毒者の非常時救済処置」の講座に到るまで、MAXに拡張したものとなっているのだ。

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凍てつくオハイオ州シンシナチの街。

公立図書館の入り口には、ホームレスたちが寒さ除けのために早朝開館前から長蛇の列。
トイレを整容のために利用する男たちも、いつもの風景。

図書館員スチュアートは、ある程度は見て見ぬふりをしたり、彼らとうまくやっている。
が、ある日上司から呼び出される。
ホームレスの利用者の「匂い」が苦情となっていたため、図書館員としてニーズに応えて退出してもらったのだが、そのことが訴訟あるいは巨額の示談という問題になっていたのだ。
「民主主義」「平等」の名のもとに、おエライさんから叱責され、いきなり解雇のピンチに。

お堅い権力者側の「ポリティカリー・コレクト」な「コンプライアンス」による言葉で、都合の悪いものを都合よく捨てにかかる。


スチュアートはこの一件に憤然とするが、釈然としない気持ちとともに、深く内省することがあった。
のちに明かされる過去の経歴から、彼のむくむくと沸き上がるモチベーションがわかってくる。

そして殺人的な寒波の襲う夜、ホームレス集団が図書館に押し寄せたとき、彼はいよいよ目覚めたのだった。

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「パブリック・ライブラリ」の「パブリック」という言葉が、日本語の「公立」という言葉よりも、もっと「公共性」や「人権」を端的に物語る。
空調の効いた広い空間。
非常時に、ここを避難所として使わない手はない。

次期市長選に出る検察官、警察の交渉人、図書館理事、など権力側は「公権力」という公の力でねじ伏せて解決させることが「民主主義を守る」ことだと主張する、真逆のベクトル。
大量の機動隊を動員する。

ついに図書館長(黒人)はスチュアートの覚悟ある行動に同調し、
「図書館は民主主義の最後の砦だ!」
と叫んで占拠側に参加。

あっと言わせる結末は、観てのお楽しみ。

民主主義は、負けたけど、勝ったのだった。

最後に黒人のホームレスのリーダー格が満足そうにつぶやいた言葉にはホロリとした。
「やっと声を上げられた。これで歴史に残るぞ」

そう、それすらできなかったのだ。
それだけのことだけど、ものすごく大きなことなのだ。
それぞれの、ひとりひとりにとっては。

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シチュエーションとプロットがとてもいい。
そしてなんといってもテーマが、今いちばんビビッドに響くもの。

スタインベックの『怒りの葡萄』が好きな諸兄には、より一層感激に浴すご褒美が与えられる。

でも、伏線をたくさん出してきた割には、いま一つうまく回収しきれていなくて、惜しい。
いろんなアイデアを盛り込んでくれてはいるが、ことに登場人物に関してはもっと劇的な展開を用意していると思わせられたが、ストーリーにとっては装飾ていどのものでしかなかったのは残念。

あと、占拠者側に女性がいなかったのは不自然。
ラストのサプライズには女性は不適切ということもあるが、女性からのクレームはなかっただろうか。

主演のエミリオ・エステべス、監督としては7作目。
構想11年という割には、少しとっちらかった印象は否めない。
脚本は自分だけでなく他にも協力してもらったらよかったのに。

★★★★



『透明人間』
リー・ワネル
監督
The Invisible Man 2020年 米 2時間2分

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いわゆる「透明人間」というタイトルのイメージからはおよそ想定しがたい、なにかとてもスリリングでシャープな映像劇を見た。

もちろん、1992年の『透明人間』(ジョン・カーペンター)とはまるでちがう。
(原作小説『透明人間の告白』はすこぶる面白かったが。)

SFではあるのだけど、主人公は“サイコ”なのかな、という疑念を持たせられたまま、物語の奥深くまで進む。

(ネタバレ注意)

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束縛の激しい夫から逃げる妻。
なんせストーカーが透明なのだから、恐怖は増強される。

主人公である妻は、身の周りで次々と起きる事件がすべて自分の犯行と疑われることに対しても闘わなければならない。

研究者である夫の偏執狂ぶりは大変なもので、妻を追う理由のなかにはとくべつなものがある。
だから妻には危害を加えないが、邪魔する周囲には容赦しない。

終盤、ようやく透明人間が“存在の透明さ”を露わにすると、妻の疑いは晴れ、意外な結末とともにバトルは解決したかに見えた。

しかし、結末は仕組まれたもの、と確信した妻は、自ら最終戦を仕掛ける。

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籠の中の女の、壮大な復讐劇としても観られ、ダークだが爽快感をともなって終わる。

透明人間ジャンルというよりは、ファム・ノワールを描いたサイコ風味のクライム・サスペンスといった感じだ。

劇伴は大仰だが、スタイリッシュな映像を伴った切れ味鋭いドラマといえる。

★★★★





『鬼が来た!』
チアン・ウェン
監督
鬼子来了 2000年 中 2時間20分 DVDレンタル
カンヌ・審査員特別グランプリ

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「鬼」とは「日本/日本人」。
中国にとっての「鬼子」である。

1945年、日本軍に支配されたある中国北部の村。
ある民家を突然訪れた謎の男が、中国語で脅しながら大きな麻袋二つを預けていった。
中に入っていたのはなんと、日本兵と中国人通訳だった。
また引き取りに来るまで生かしておかないと、預かる自分たちの命の保証はない。
付近を見張る日本軍に知られたら、それこそ村ごと焼かれるかもしれない。

そんな奇妙な設定で開始された残酷なゲームは、「生きて虜囚の辱めを受けず」と悪態をつく香川照之に対して、なんとか食べさせ生かしておかなければとあれこれ機嫌をとって食べさせようとする村人たちの応酬で始まった。

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そこでキーとなるのは、中国人通訳の絶妙な“意訳”だ。
双方の関係が一触即発から“即死”に発展しないように、うまく言い替えを施す。
序盤はそんな滑稽で皮肉なドタバタ喜劇のようなテンションで笑えるが、時間とともに状況も関係性も変わってくる。

引き取りに来るはずの時期になっても、誰も来ないのだ。

囚われの二人をどうすべきか、長老をはじめとして村人たちの合議と対策は二転三転、トライ&エラーを繰り返した末、両者のあいだに友情めいたものが生まれてくる。

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後半、ドラマが大きく転じる。
香川照之は、上官である隊長(澤田謙也)に厳しく叱責されるが、隊長は軍人の性格のゆえなのか、一転して寛大さを披露する。
彼の二面性にまごついていると、ついに狂気の鬼子をむきだしにする。
日本軍の異常さが、連鎖的に破滅を導く。

しかし、その日は8月15日。
隊長の狂気は、実は終戦を知ってのことだったのだ。

ラスト。
香川は、村で世話になった中国人男性に対して超絶に皮肉な行為を強制される。
戦争は始まっても終わっても、矛が盾になったり盾が矛になったりする不条理ゲームなのである。

中国映画の迸るエネルギ―と息も切らさぬテンションの中に香川照之は抛り込まれ、顎から涎を垂れ流してのたうち回りつつも、ひときわアグレッシブに全編通して勢いをもたらしている。

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中国で作られたが検閲に引っかかり、しかしかろうじて海外出品が先だったために、国内上映は禁止されたがこうやって海外では見ることができる。
中国・日本どちらの贔屓でもなく、戦争のシュールな理不尽と狂気を描くという意味でユニバーサルな傑作となった。

★★★★☆



『カッコーの巣の上で』
ミロシュ・フォアマン
監督
One Flew Over the Cuckoo's Nest 1975年 米 2時間13分 DVDレンタル

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殆どの人が出て行けるのに、出て行かない。
自らこの場所を選んでいる。

ブニュエルの『皆殺しの天使』を思い出した。


★★★★☆



ハニーランド/タッチ・ミー・ノット/WAVES/銃2020

ドラマのようなドキュメンタリーとドキュメンタリーのようなドラマ。




『ハニーランド 永遠の谷』
監督:リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ
Honeyland 2019年 北マケドニア 1時間26分 ドキュ
渋谷アップリンク

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北マケドニア、荒涼とした最果ての地。
一人の女性が寝たきりの老母と暮らしている。

いまや絶滅の危機に瀕している蜜蜂を育て、自然養蜂で二人の糊口をしのぐだけの生活。
蜜を採るときも「半分は私に、半分は蜂に」という鉄則を守る。

ここには人生のすべてが詰まってる!
と、見ているあいだに感動していたのだが、後でよく考えたら、その「すべて」とは、ほぼ「孤独」だけなのだった。
なぜ孤独を「人生すべて」と感じたのかはわからないが、人生はある意味、様々な「孤独」のバリエーションが形態をかえて出現しているということなのではないか。

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そこには光もあれば、その分、陰もある。
穴倉のような暗い住居の中には介助生活があるが、外で蜂を採ったり、子どもたちと触れ合う黄色のトーンの陽光シーンにも満ちている。

ほんの少しの楽しさと、煩わしさ。
騒々しさのあとの静けさ。

電気もガスも通っていない辺境の地だが、苦労を苦労とも思わないかのような身ぶり素ぶり。
独り身の境遇には、明日からの将来を案じないわけではない。
終盤になって、いよいよスクリーンに目を凝らした。
彼女がその目の奥に何を湛えているか確かめようと。

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撮影の奇跡。
それはワン・ビン監督のドキュメンタリーのカメラのよう。
しかし、ワン・ビンほど即物的な近さではなくて、このカメラはあたたかな距離感。
撮る存在を消し去りながらも、ひそやかな慈愛が背後に感じられる。
編集もまた、冷徹な観察というよりは、人生の哀歌のようで賛歌のようにしている意図が滲み出している。

「哀しい」けど、「わるい」わけじゃない。
「孤独」が人生そのものであるなら。

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しかし、グローバル経済が席巻する世界は、その中で生きる僕らは、彼女を放っておくことになる。
逆に、静かに滅んでいくのは自然からの知恵を忘れた僕らの方だろう。
新型コロナのあとでも「持続可能な社会」の看板だけ振り回して、持続不可能なことしか考えられない政財界に牛耳られている限りは。





『タッチ・ミー・ノット ローラと秘密のカウンセリング』
アディナ・ピンティリエ
監督
Touch Me Not 2018年 ルーマニア・独・チェコ・ブルガリア・仏 2時間5分
イメージフォーラム

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ノンフィクションとフィクションの境界型?
いや。
というより、その二つをあからさまに混ぜている。

人との接触自体の拒否反応をもつローラ。
ほかに、色いろな“障碍者”が登場し、性的なものを含めた親密なコミュニケーションを図るセラピーが展開される。

ローラの視点のみならず、監督の視点、その他障碍者たちの語りで進行するが、そこには「弱者」はいない。
自信を持つか持たないか、信頼関係を得るか否か。
要は、自分が構える「壁」をどう認識するか、だ。

他人を相手にしているようで、実は自分との関係性。
ソーシャルなディスタンスは、セルフなディスタンス。
他人の助けを借りつつ、自己治癒力に期待する。

ぼく個人の感覚としては、「壁」というよりは、「皮」「膜」を剥がすという方が近い。

マイノリティを対象にしているようで、本当はほとんどの人に当てはまることじゃないかと思う。

単に、時間をかけて距離を縮め、触れ合うことに馴れていくだけでも効果はありそう。
互いに気持ちさえ通じれば。


監督の逡巡や葛藤を人物たちに託して、俳優や俳優以外に演じてもらった。
俳優以外の障碍当事者たちは、どこからが演技かはわからないが、たぶんほとんどありのままだろう。

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ぼくの理解力が足りなくて、一回見ただけでは、ナレーションが監督の語りなのか、誰が誰に向けて語っているのか、わからなかった。

肉体的な障碍を発端とする人たちとはちがって、ローラの場合は強迫型の心的障碍だ。
トラウマがありそうなので、セラピーには身体的な接触よりもサイコセラピーの方が先んじるのではないかと思ったのだが、どうなのだろう。
その辺の解説がなかったような気がする。


それにしても、これがベルリン金熊(最高賞)とは、さすがにびっくりだ。
この前年には、同じく東欧のハンガリーから『心と体と』(イルディゴ・エニディ)という似たテーマの映画が金熊賞を獲っている。
また、ドキュメンタリーやドキュメントタッチの作品が最近よく選ばれていることをみれば、ベルリンでは意外ではないのかもしれない。

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ただ一つ言えるのは、セックスって「触れる」ことが最も大事で、それさえ十分なら目的のほとんどを果たしているということ。
若いあいだは、いや40になっても50になってもわからなかった。
たぶん70になってもわかっていない男はたくさんいると思う。
最近知ってみたら、「なーんだ、若い頃におしえてくれよ~だれか~!」と、切に思った。
でも、思い返すと実はいたんだよな、一人、教えてくれていた人が。
ある外国人男性が20代の僕に、くりかえしアドバイスしていた。
でもそれを真面目に実践しようとしなかったボクがわるいのでした。

★★★☆




『WAVES』
トレイ・エドワード・シュルツ
監督
Waves 2019年 米 2時間15分
TOHOシネマズ川崎

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妹役のテイラー・ラッセルのけなげさに心打たれる。

鑑賞後しばらく、翌日までも残っているのはまさに彼女の表情だった。

悲愴や憔悴だけでなく、怒りが迸ったあとに初めて涙を見せるシーンは、悲劇を被った近親者なら誰でも禁じ得ない自責の念を表出して見事だし、それでもなお人の純粋な愛情を感受できることを物語る瞳を持っている。

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フロリダ州の裕福な黒人一家。
厳格な父とスポーツエリートの息子。
あることをきっかけにこわれてゆく。

差別の歴史の色濃い地域でエスタブリッシュな家庭を作りあげるのに、「人の10倍の努力」をしなければいけなかった父親の半生にも思いを馳せなければならないが、それでも外壁をいくら頑丈にしようと、水をやらなければ脆く崩れてしまう。

家族の破滅と再生。
その傷の修復に貢献するのは、娘と少年の若さゆえの治癒力。
そのポジティビティが連鎖していく希望の物語。

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流麗なカメラワークや映像の鮮明さ、ポジティブな音楽の使い方など、名匠テレンス・マリックの門下生と言われればたしかにそれにふさわしい色に染め上げられている。
言葉が少ない割にメッセージ性が大きい点では、むしろ、最近の師匠を上回った出来だ。

「31曲のプレイリストからできあがった映画」として宣伝されているのが少し奇妙だけれども、そんな五感にきもちのいい曲の波に乗せられて、あやうく感動ポルノ的な罠に墜ちそうな気もするが、すんでのところでもちこたえている。

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曲があからさまな感情誘導になってはいないし、演技もお涙頂戴ではない。
逆に言えば、重い内容とは対照的なスムージーなセンスで引き込んでいるところが、若い人に広く受け入れられている所以なんだろう。
この“新感覚映画”のバランス感覚に異を唱える必要はない。

★★★☆



『銃2020』
武正晴
監督
2020年 日 1時間16分
TOHOシネマズ日比谷

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2年前の『銃』は同じ監督・プロデューサーで村上虹郎主演。
そのスピンオフなのか姉妹編なのかはわからないけれど、せっかく前作で異彩を放っていた日南響子を主演に据えながら、彼女の美形以外には銃のフェティシズムやフィルムノワールな映画のエロチシズムの魅力を全く見出せない作品になってしまった。
片手間に作ったのだろうか。

前作は銃を拾ってしまった青年が、その存在を徹底して秘匿することで、聖性を高めていき緊張も狂気も高まっていくサスペンスだったが、今作は銃の存在が最初から最後まであけっぴろげ。
女の性的な対象物として弄び官能に語りかけるが、周囲への秘匿意識がほとんどないのでサスペンスに到らない。
一方で、装填された4発の貴重な銃弾は、自分のトラウマからの解放欲求と同期して「発射」への期待が高まるはずが、勿体ないかたちで浪費してしまう残念さ。

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トラウマの根拠を見せるために、取ってつけたような過去の回想シーンを挿入しているが、安直で見ていられなかった。
「あなたは何を望んでいるの?」など、女が拳銃へ語りかけるモノローグも、安い一人芝居を観ているようだった。

あ、わかった。
これは、スケール大きめの日南響子PVなのかもしれない。
それなら役割を果たしている。
エロスが少なめだが。
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SKIN/MOTHER/Pain&Glory/悪の偶像

なぜか、4本すべてが<親子の共依存>を描いていて、そのほとんどが<人は更生できるか>という問いを投げ掛けている。

こんなテーマの作品が今たまたま集中したのか、それとも僕がこんな作品ばかり選んでいるのか。

大人の依存と、貧困と、虐待と、犯罪・贖罪。
いま、これらは先進国いかんにかかわらず、ワールドスタンダードな課題だ。
ちなみに、日本はもはや先進国ではない。



『SKIN/スキン』
ガイ・ナティーブ
監督
SKIN 2019年 米 1時間58分
ジャック&ベティ

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犬でもいい。

愛をおしえてくれるならば。

自分を人間として尊重してくれる存在が現れれば、捨てられた人は飛びつく。

集団なら、ヤクザ、暴走族、右翼、新興宗教、コミューン、教会など。
風俗業界など、隷属状態にして営利を目的にするものも多い。

でもそのうち、「何か違う」と気づき始め、「真の愛」と出会って覚醒する。

それが、思想や宗教や出自を超えた、「個人」との関係、たいがいは「恋人」だ。


ここでも、親との共依存関係の「偽りの愛情」ではなく、「真の愛」を知ることによって「人間性回復」をし、自分の罪や他人の傷に気づくパターンがセオリー通りに描かれている。

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ドキュメント『Lifers~終身刑を超えて~』(坂上香/2004)で紹介されたアメリカの重大犯刑務所での徹底した更生プログラムと同様に、そのセオリーには間違いはない。
更生を信じるしかない。

ただし。
心は離脱していても、フィジカルに追いかけてくるものはある。
カルト集団であれば、それだけ縛りもケジメもキツイ。

あるいは、FBIのブラックリストに載っていること。
そして、とくに彼の場合は自分の肉体そのものだった。

SKIN=体中の皮膚には墨が所狭しと入っている。
ネオナチの広告塔である自らの肉体は隠しようがなく、どこに行こうにも、どこで働こうにも自由がきかない。

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自分で縛ったこのフィジカルな足枷を外すために、ついに彼は宿敵だった反ヘイトの慈善団体に助けを求める。

最大唯一の条件は、組織のアジトをFBIにおしえること。
そうすれば、全身のタトゥーを除去する手術を無償でしてくれる、という取引だ。

こんな皮肉があるだろうか。
「スキンシップ」といえば愛情の象徴なのに、それとはちがう象徴を自分で植え付けたがために、そのスキンを一つひとつ剥がしていく行為で贖罪していく。
それは、飢えた心に苦痛とともに植えたしるしを、今度は本当の愛情に替えるための苦悶の作業。
ここに至るまでにすでに更生は始まっている。

でも、だからこそ、更生の意味ではいい結果はある程度期待できる。
なんせ、タトゥーを剥がせば自分の素顔が見え、表情が見えてくるのだから。
感情の氷河が融けて、誰の目にも融和が映れば、それが社会への名刺代わりとなる。

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実話だからこその迫力。
暗澹たる背景だが、そこから見事にひっくり返した奇跡の物語だ。

2003年に米国で発足した白人至上主義集団「ヴィンランダーズ
主人公“バブス”は、自分を拾ってくれた親代わりの夫妻の下で、共同でカルトを組織していた。
過去の自分と決別するために計25回、16カ月に及ぶ過酷なタトゥー除去手術に挑んだ。

離脱させる反ヘイト側のダリル・ジェンキンスも、実在する活動家。
彼の長年の功績も大いに注目されている。

↓参照↓
https://wired.jp/2017/04/09/meet-daryle-lamont-jenkins-insatiable-doxxer-fascists-nazis/

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“バブス”ことブライオン・ワイドナーの軌跡を追うTVドキュメンタリー「Erasing Hate」(11)に瞠目したガイ・ナティーヴ監督が、長編ドラマ映画化を着想。
スポンサー探しのために手始めに制作した短編『SKIN』で軌道に乗り(のちに2019年アカデミー賞・短編映画賞を受賞)、この長編製作にこぎつけた。


恋人役をああいうタイプの女性に設定したのも、リアルで好感が持てる。

現在、全米を中心に全世界で延焼している“Black Lives Matter”の抗議運動のさなかに観る映画としても、お勧め。

反ヘイト活動家・ダリル・ジェンキンスが主役の映画がもしできたら観てみたい。

★★★★




『MOTHER マザー』
大森立嗣
監督
2020年 日 2時間6分
キノシネマみなとみらい

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息子は自分の所有物だとする母。
母のことがただただ好きな息子。

前回書いた『許された子どもたち』(内藤瑛亮)と同様、実際の事件に触発されたというが、似て非なるパターンの母子密着だ。

身持ちの悪いシングルマザーによる子供への虐待を題材にした作品、という設定だけでも同類は少なくない。
ただ、現実のケースは多種多様だから、作品もそれぞれの顔を持つ。

『誰も知らない』(是枝裕和)や『フロリダ・プロジェクト』(ショーン・ベイカー)を思い返せばわかるように、不幸のどん底を描くだけでなく、無邪気に遊ぶかりそめの明るい「生」を描くところが味わいでもある。


この作品はどうだろうか。
かなりの気合いの入れようであることはわかる。
役者も、脚本も。
長澤まさみを使いながらも、ふだん決して触れない深い部位を抉る覚悟で作っている。

贖罪と更生の不可能性/可能性という難問の核心に触れるために。

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依存症体質。
内縁の夫からのDV。
生活保護の浪費と恐喝と拒否。
そしてホームレスへ。

昨年の『存在のない子供たち』(ナディーン・ラバキー)の主役の少年は、「僕を産んだ罪」で両親を告訴した。
『子どもたちをよろしく』(隅田靖)の子どもたちも、無責任な親に憎悪に近いものまで感じていた。
しかし、この映画のシュウヘイはちがう。
そんなことはゆめにも思わない。
別れたまともそうな父親が一緒に暮らそうと誘うが、「お母さんがいい」と拒否。
自己犠牲になってまで母に尽くそうとする。

母が悪魔になったとしても。

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凄い映画だなと思ったのは、最終盤になってからだ。

(ネタバレありゾーン)

裁判で母をかばい、シュウヘイが一人で罪を被って刑務所に入ったとき、協力してきた児童相談所の女性(夏帆)に面会で「ウソをついちゃダメじゃない」と言われ、反応した一言。

「・・ダメ?・・・お母さんが好きなのもダメですか?」

ズンときた瞬間だ。
このあたりの2~3シーンでズズンときた。
この映画を観てよかったと思った。

ここに、いろいろな問題が集積し、発火する。
だけど、その「愛」は残り火すらない。
不毛だからだ。

親子の「情」は本物か。
「縁」は幻想か。
「愛」は偽りか。

裁判が不毛なのに加えて、刑務所内の「更生」という考え方自体が成り立つのかどうか、その根源も問われているような気がする。

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大森立嗣監督、面目躍如。
唸らせてくれたのは10年前の『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』以来かも。

近年、忌憚なく問題作を画策し力作を次々と発表する河村光庸プロデューサーのおかげかな。


いくつかの作品名を挙げたように、似た題材はバリエーションの違いはあれど、豊富に生まれている。
そのなかでも人を感銘させる作品になるかどうかは、題材への斬りこみ方と、演技・演出のリアルさ、その両者が掛け合わされた時ではないか。


シュウヘイの10歳時の郡司翔も15歳時の奥平大兼も、わざとらしくなくてよかった。
長澤まさみと阿部サダヲのカラミは怖いほど真に迫っていた。

設定が『万引き家族』の母(安藤サクラ)とは違うので、母(長澤まさみ)がラストショットのクロースアップであくまでも泣かなかったのは正解。

ただ、もっとリアルに臭うように汚い姿にはなれなかったか。

★★★★



『ペイン・アンド・グローリー』
ペドロ・アルモドバル
監督
Dolor y gloria 2019年 スペイン 1時間53分
キノシネマみなとみらい

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映画監督である主人公(アントニオ・バンデラス)が、引退同然の壮年期に入って過去を追想する。
追想と同時進行で、自分の周りで物事が動き出す。
それがきっかけで、かつての因縁ある人たちと再会する。
再会によって縁が連鎖し、過去への憧憬が深まり、ある暖かくかぐわしいものまでゆっくりと花開く。

主人公の過去への道程に付き添うことによって、しだいに彼という人物が明かされてゆき、最終的にぼくらも源流の奥の部屋まで導かれる。

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原色の虚飾の現在から、淡い色彩の時へ。
ラストのそこは柔らかな光に満ちていて、救われる。

人生には成功も失敗もない。
そしてまた明日を見つめられる。

物語構成としても、見事だ。

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ペドロ、熟練の、自伝的ナラティブ術。

★★★★




『悪の偶像』
イ・スジン
監督
Idol 2019年 韓 2時間24分
チネチッタ川崎

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犯罪サスペンスのハラハラと、親子や出自のドロドロが掛け合わさっている、韓国お得意のタイプの“ハラドロ”映画。

ただ、ミステリーとしての謎が多すぎて参った。
初めから謎が散りばめられるうえに、見ていくうちにさらに謎が増えるのだ。

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2時間半にぎっしりといくつもの背景や社会問題が詰め込まれていて、ラストに到っても僕の頭の中では収拾がつかなかった。
最後は最後で新たな疑念を出されて終わった感じ。
これって、どれだけ布石を回収できているのだろうか?

演出がうまいだけに、惜しい!

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ソル・ギョングの熱演を久々に見られてうれしかった。

★★★☆




はちどり/許された子どもたち/凱里ブルース

2020年6月21日~28日

少年と少女、正気と狂気

自分と世界を隔てる、もやもやしたもの。


『はちどり』
キム・ボラ
監督
House of Hummingbird 2018年 韓・米 2時間18分
ユーロスペース

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ボーイフレンドと離れたりくっついたり、後輩女子とくっついたり離れたり、親友と不仲になったりヨリを戻したり。
そんな起伏があるようなないような日常がつづく1994年、ソウル。
13歳の女子・ウニは浮かない顔で、さえない毎日を過ごしていた。
学校、塾、家の中・・・どこにいても。

思春期の真っ只中、少女はどんな小さな窓からでも広い世界を展望できるはずだ。
でもウニは、窓がいくつあっても信用していないかのよう。

そんな日常の背後には、家父長制的な女性軽視の因襲が暗く影を落としていて、主役ウニの視点からは彼女の憂鬱が葉の柔毛のように見てとれる。

一方で、周りの人物たちはときに感情の波におそわれるが、それがどんな気持ちなのかがよくわからない。
あえて謎を多くしている気配。

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13歳の目からは、家庭内も納得のいかないことだらけ。
なぜ1~2歳しか違わない兄がこんなにもエラそうなのか。
世の中の学歴至上主義と男尊女卑が家庭内にグッと凝縮されていて、日々その重圧が自分と姉と母親にのしかかる。

カメラには、周りの人物の不可思議さが映っている。
まともには見えない世界の、不合理な人々が。

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そんななか、初めて信頼できる大人に出会う。
どんな友達よりも心を許せ、どんな大人よりも一般常識に背を向けている。
「窓」を得たのだ。
しかし、そう思った途端、唯一無二の存在は煙のように消えてしまう。
謎を残したまま。

そしてある日、街中を震撼させる大事件が発生する。

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実際に韓国であった事件を背景に、一人の少女をポツンと置いた。
結局は一人で生きていかなきゃいけないんだと覚悟させる物語。
作り手の視点は、暖かくもなく冷たくもなく、ただ過去の自分自身として置いたのだろう。

ラスト、
正面をまっすぐに向く少女の視線は、世間を、僕らを凝視しているのだ。
我々は、見られているのだ。

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そのこわれそうでしたたかそうな瞳をみせてくれるウニ役のパク・ジフは、大した才能だ。

★★★★




『許された子どもたち』
内藤瑛亮
監督
2020年 日 2時間11分
チネチッタ川崎

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少年は、残酷に弓を射る。

憎しみもなく。
罪悪感もなく。

怪物が突如降臨したのか。
大人と社会の産物なのか。

そして、司法に許された。


センセーションをうまく武器にして、根深い問題を掘り下げる。

『先生を流産させる会』で電撃デビューした2011年当時からの構想8年で、自主映画のかたちでようやく完成・公開にこぎつけた今作。
それだけの苦闘と思考の集積が窺える力作だ。

少年少女と生死に関するテーマをつねに社会に問い個人に突き刺す内藤監督は、しばらく商業作品を快調に撮っていたが、デビュー作以来の忖度のない問題作を9年ぶりに解き放った。

残酷描写も辞さない映像はしかし、衝撃性だけでなく実際の事件をもとにした背景やその後の影響も直視させる。

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最近では『子どもたちをよろしく』(隅田靖/2019)で描かれたように、イジメの加害者も被害者も、貧困や複雑な家庭事情などの背景がクロースアップされることが多い。

しかし当作では、加害者・キラは普通の家庭で育つ。
母親が少々(かなり)過保護で自己中心的な傾向はあるが、とくべつ斟酌すべき要因はない。
キラが小学校時代にイジメを受けていたことは連鎖の一因ではあるが。

『少年は残酷な弓を射る』(リン・ラムジー/2011)と共通した点も多い。
凶器のボーガンは、この6月の宝塚の家族殺人事件ともタイミングが一致。

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加害少年たちは殺人を犯しながら、簡単な少年審判で「不処分」とされる。

被害者遺族の人権や気持ちが軽んじられ、加害者側の方が守られているかのような印象と不正義な実態は、『ヘヴンズストーリー』(瀬々敬久/2010)でも大きく取り上げられたように、「現代の罪と罰」というべき壮大な復讐劇に発展する素因さえある。

加害者を捜索し特定するネット自警団が活発化する様子がしばしばスクリーン上にインポーズされる。
ここ10年で通例となってしまった、歪んだ「正義」の光景。

加害者宅も被害者宅も外壁は落書きで汚される。
事件後は、両者のメンタルを殺し続ける。

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キラはいっこうに反省する素振りを見せない。
母親もまったく被害者や遺族への配慮を見せず、我が子かわいさ一辺倒。
観ている側としては、懲罰・制裁への感情がむくむくと募ってくる。
「いや、それでも・・・」と思いつつも、情状酌量の余地は、徐々に小さくなる。


重大犯罪受刑者の更生プログラムを追ったドキュメント『プリズン・サークル』(坂上香/2019)や、『死刑弁護人』(齊藤潤一/2012)の安田好弘弁護士の活動などを見るにつけ、人を人として扱うことから更生が始まるということを思い知り、報復感情を懲罰として反映させたら真の更生などできない、ということを納得させられる。

しかし。
キラにはそんな生育環境には当てはまらない。
普通の家庭の普通の13歳が冷血無比な殺人を犯した場合、どう考えればいいのか。
世間も、教育者も、法の番人も、僕らも、まごついてしまう。

正論を吐いても聞く耳などあるわけない。
ただ爆発したいだけの火薬に、かける水もない。
思考力がマヒしてくる、その先の物語だ。

映画は、白黒つけさせない。

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これでもかと見せつける、キラと母の行状。
果ての果てにゆきゆきて、
赦しも乞わなければ、救済はない。
自覚もなければ、贖罪はない。

最後にこれだけはたしかに思うのは、
それでもやっぱり少年審判はきちんと加害を断罪して、更生施設に入れること。
人間性を回復させ、更生の可能性を探るしかないだろう。

キラは僕らを挑発して終わる。
あなたはどう反応するか。

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ちょっと前の村上虹郎に似て非なる、それ以上に不敵なキラ役・上村侑は逸材だ。

★★★★



『凱里ブルース』
ビー・ガン
監督
路邊野餐/ Kaili Blues 2015年 中 1時間50分
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夢や幻想を投影するのによく使われる「象徴的」素材や映像効果なしで登場人物を泳がせるものだから、その夢遊病のような展開にはただ迷うだけだ。

主人公が彷徨うのと同じようにまたはちがうように迷い込むことで、結果としてリアルで不可思議な夢体験をさせられている。

『ロングデイズ・ジャーニー この世の涯てへ』で世界の映画祭を唸らせた若き才能が、その数年前に作っていた長編デビュー作。
構造も作風もほぼ同じだった。
前半から人物も背景も筋も不明なまま進行し、後半は40分にもわたるワンカット長回し移動撮影で観る者をのめりこませる。

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ただちがうのは、『ロングデイズ~』が夢遊病的な体験だと一見してわかるのに対して、最初に書いたように当作はそんな象徴的素材を使わない、
たとえば寺山修司の幻想作品群を観れば、一瞬で幻想だとわかるだろう。
この現実か幻想か区別がつかない作風はデビッド・リンチ作品にも見られるが、アジアの映画はより得意としているようだ。

主観カメラ(POV)はないものの、特定の人物を追いかけるカメラは、そのうち別の人と出会うと代わってその人をつけ回し始め、また他の人に対象を替え・・・と何度も偶然にまかせるかのようにつづく。

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何回も舟を漕いでしまうし、あらすじを読んでから見ても物語はつかめない。
個人的には好きになれないが、夢うつつにさせる映画が悪いとは限らない。
タルコフスキーの映画などは、何度見ても前回眠っていた部分を観ることができて新鮮だったりする。『鏡』なんか、3回とも違う映画だった(;^_^)

しかし、こんなスタイルをデビュー作で確立し、さらりとやってのけてしまう26歳は凄いとしか言いようがない。
少なくともそれはわかる。
あとは不可思議できもちのいい世界に身を任せよう。

kairi2.jpg★★★☆



ちむぐりさ~菜の花の沖縄日記~

2020年6月23日
沖縄慰霊の日


『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』
平良いずみ
監督
2020年 日本 1時間46分 vimeo(配信)

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やさしくてやわらかい。

ドキュメンタリーとしてはこれ以上ないくらいの、あたたかい手のひらで届けられたような、いとおしさとしたしみといつくしみを感じさせてくれる。

「沖縄のドキュメンタリー」と聞いただけで、かなしいかな「2分で結論がわかってしまうから見ない」と言われることが多いなかで、これはちがう。

15歳の女子・菜の花さんのまなざしと、
包み込んで語りかけるようなオジイ・津嘉山正種さんのナレーションと、
主題歌を唄う上間綾乃さんと、
そしてこの映画を作った監督女子・平良いずみさんと。
四者ともに、「告発」調とは一線を画したまなざしのコラボでできている。

なによりも、菜の花さんの「行動力」と「エンパシー能力」が物事を動かしている。

石川県出身の坂本菜の花さんは小学校時代にイジメにあった経験から、小5からは親元を離れて和歌山の全寮制「きのくに子どもの村学園」に移った。
沖縄への体験旅行がきっかけで、高校からは単身沖縄へ移住。
住み込みで働きながら、珊瑚舎スコーレという老若男女が集まるフリースクールへ通う。

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自分がその人の立場になったらどう思うだろう。
そんな純粋な気持ちが、沖縄という場所を見つけ、その地の人々の心を見つけ、そこの靴を履こうとする。
ウチナンチュの身になる。
それはすなわち、シンパシー以上のエンパシーだ。

「ちむぐりさ」(肝苦しい)の意味に通じる。

むかし苛酷な体験をし、今でも国家権力の憂き目にあっているウチナンチュのおじい・おばあが、なぜいつも明るく笑っていられるのか。
「それを知りたくて」3年間住み、話をし、ともに活動した。

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辺野古や高江の米軍エリアに住む人々に会いに行き、実情や気持ちに耳を傾ける。
そこから自分の地元石川に思いを馳せ、近くの浜辺でも昔、米軍の実戦演習場に反対する運動(内灘闘争)があったこと、本土は今では基地反対運動をしたことさえ忘れているのではないか、本土は沖縄の立場でものを考えられないのではないか、と考える。

沖縄の基地エリアの住民のあいだでは、基地に対する思いで分断が起きてしまっている。
しかし単なる分断ではなく、みな共通した複雑な思いを持っている。
基地を妥協して許容している人だって、
「日本は今でも植民地よ。戦争に負けたんだから」
ということを毎日強く意識しながら生きている。
本土で「日本がいまだに植民地である」ことを意識して毎日生きている人がどれだけいるだろうか?

沖縄の人々の明るさのワケは?
最後に菜の花は自分で答えを見つける。

そしてある女性に言われる。
「あんたもウチナンチュさね」

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「悲しくてやりきれない」というフォーククルセダーズの歌を、ウチナーグチ(沖縄言葉)で上間綾乃さんが唄う。
「悲しくて」を「ちむぐりさ」に替えて。
まさに妙案。
これで、歌詞も、意味も、メロディも、最高にしっくりくる。

アニメ映画『この世界の片隅に』コトリンゴさんが「悲しくてやりきれない」を主題歌として唄ったことで話題になったが、何よりもこの歌には一気に間口を広げてくれる効果がある。
ただの“エモ”じゃなくて、哀しみと怒りと慈愛と諦めと絶望と希望をひっくるめた力を秘めているのだろう。

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TVで以前放映された1時間版のドキュメントは、菜の花さんが3年間過ごしたスコーレを卒業するところまで。
映画版ではそのあとのできごとが追加されていた。

沖縄では引きも切らさず墜落・落下事故が起きた。
翁長知事が亡くなった。
知事選があった。
辺野古新基地建設の賛否を問う県民投票もあった。

そこには菜の花さんが戻ってきていた。
しかし、彼女にとってはこの2年間さらなる試練となったのかも。
さらにワジワジし、拭いきれない涙があふれて止まらなかった。

その涙は何なのか、
せめて、最後に菜の花さんの身になって感じてみてほしい。
そこから沖縄の「かなしみ」=「ちむぐりさ」に近づくことができるだろう。

そしたら、地元の人々が単なる<賛成/反対>の白黒をつけて済ませられる問題じゃなく、ほとんどの人がグレーのグラデーションのなかに重なり合って暮らしていることもわかるかもしれない。
本土の僕らは外野から<賛成/反対>を言うのではなく、地元の人の靴を履いて思いをめぐらせることが必要だと、この映画はおしえてくれる。

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もうひとつ大事なこと。
観終わってしばらくして思い返してみると、浮かぶのは菜の花さんの自然なやわらかい笑顔。
「なんでそんな表情ができるんだろう」

笑顔ならぬ「温顔」(おんがん)という言葉がある。
おだやかであたたかみのあるやさしい顔。
笑顔は作ることはできても、温顔は素質だから作れない。

「温顔無敵」なのである。
菜の花さんがオキナワのオジィ・オバァに対して感じたことを、ぼくらは菜の花さんを通して見ていたのだった。

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堀潤監督の映画『わたしは分断を許さない』で、シリアから帰還したジャーナリスト安田純平氏が語っていた。
「遠く離れた人の死に関心のない人は隣近所の死にも関心がないんじゃないか」
同じように、こんなに親しみのある菜の花さんやオジィ・オバァに関心が向かなければ、遠く離れた地への興味など持てるわけがない。
世界の平和なんて祈れるわけがない。

最後に彼女が引用するガンジーの言葉は、僕がよく引用する言葉でもある。
あれを呟く10代って、マララさんみたいで、大したもんだよなあ。

まずは目の前にある菜の花を見つめよう。


「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」Mahatma Gandhi






なぜ君は総理大臣になれないのか

2020年6月20日


『なぜ君は総理大臣になれないのか』
大島新
監督
2020年 日 1時間59分 ドキュメンタリー
ヒューマントラストシネマ有楽町

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まだ君は小川淳也に惹かれないのか。

昨年(2019)ブレイクした彼を、まず知っているだろうか。
2月、勤労統計不正問題で国会が紛糾したきっかけを作ったのは、アベノミクスの成果をよく見せようと賃金上昇率が偽装されたことを見抜き、論理的かつ胸のすくような弁舌で大臣・官僚たちを徹底追及した彼である。
この国会中継動画がネットや「パブリック・ビューイング」で拡散し、「こんな人がいたのか」と多くの人を瞠目させ、一気に注目を浴びた。

政治家を一切信用しない人々や筋金入りの左翼からは「ケッ」と思われるかもしれない。
しかし安倍政権を糾弾する潔さと理路整然さで、安倍シンパの政治評論家からも一目置かれている若手リベラル(元民主党)であり、現在無所属の49歳である。


これほど真っ直ぐな私利私欲のない性格で、おまけに「地盤・看板・カバン」もない議員が、海千山千魑魅魍魎の蠢く政界で生き残っていけるのか。
今どき比肩しうるのは、ほかに山本太郎や、少なからず共産党にはいるのだろうが、「政治家に向いていないんじゃないか」と家族にも言われ、本人も自覚するほどの出世欲・処世術のなさを、「国民のために」という強い気持ちと実直さだけでカバーしていけるのか、まるで実験標本を観させられているかのような被写体なのである。

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2003年、中央官庁のエリートを辞めて突然地元香川から衆院に立候補した時からの17年間を追う。
4~5歳だった娘さん2人が育っていき、お父さんの選挙を「娘です。」と書かれたタスキをして手伝うまでになった姿、通行人に頭を下げてチラシを配り無視される姿、雨のなか父の名前を連呼する姿、そして結果に泣く姿のシーンに泣ける。

小池百合子の希望の党立ち上げで、不本意ながら苦渋の決断で合流した時の選挙をメインとして取り上げる。

民進党がジリ貧で、前原の強引な小池百合子への接近で党員を唖然とさせ、さらに小池の「排除」発言で騒然とさせ、多くの党員が路頭に迷い大混乱だったのを覚えていると思う。
小川は前原の最側近だったために、安保法制に反対だったにもかかわらず希望の党へ参加することを余儀なくされた。
しかし内心は、地元で総選挙の告示日を迎えてもなお、震えるように「無所属がいいのかなあ」と監督にまで問いかけ、吐きそうなほど苦悩していた。

香川に駆けつけた財政ブレーンの慶大教授・井手英策の応援スピーチは泣かせる。
支援者もみんな泣く。

なんで立憲民主じゃないんだ?と多くが思う中での、自分がいちばん忸怩たる思いだった選挙。

「結局、政治家には“したたかさ”だけが必要なんだろうか」
とあらためて振り返る。

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地元選挙区で勝たないと、党内での発言力を持つことができない、という政党ムラの掟。
1回を除いて全て比例復活で当選という彼のような立場は、すなわち出世もできない。
役職に就かなければ、野党共闘への貢献も半端なままだ。

それが「政党政治」。

たしかに民進党が解体され、「希望の党」に合流するか、無所属になるか、立憲民主の方に加わるか、という選択を余儀なくされたあの時ほど、「政党政治」を恨めしく思ったことはなかったろう。
地元で自民に勝つには、あるいはサイアク比例復活するためにも、少しでも可能性のある合理的答えが「希望の党所属」だったのだ。

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僕もやはり、選挙となれば議員や候補者がどんな人柄かより、まずは政党で選ぶ。
どの党を選べば政権与党を脅かすことができるか、で判断する。
そうしなければ政界地図も悪しき政策も変えられないから。
もちろんその党の政策や思想を支持できることが大前提だが。

ただ、小川議員のような人となりを知っていたら・・・と思うと、たしかに迷う。
迷うが、希望の党には絶対に入れなかった。
それでもこの映画を観ると、「人柄」とその思想に信頼を置けるならば、どの政党にいようとも今回は許してみようか、と思う気持ちもわからないでもない。

自民党議員の地元や永田町での「人たらし」戦術は、万人に有効な力を持っているのも十分わかる。
ただ、だからこそ、何も考えずに義理や人情だけに反応して投票する烏合の人々があまりに多いがゆえの衆愚政治なのだ。

これから先、彼の議員生命も、ドキュメントも、どこまで続くのだろう。

かつて自分で「50歳までに政治家としてピークに達し、キッパリと辞める」と宣言したが、いまやあと1年となった本人はやや後悔気味。
いくらなんでもあと1年で辞めるわけにはいくまいし、辞めてもらっては困る。
「やるからには総理大臣を目指す」という気持ちは今でも本心だ。

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共産党との野党共闘に向けて積極的に活動してきた。
「前原さんほど右じゃないし、枝野さんほど左じゃない。そのあいだの中道を自負している」というような内容のことも明言しているのだから、本来はつなぎ役として適しているはず。
今後も、より力をつけたうえで、れいわ新選組も含めた野党内のとりまとめに尽力してほしい。
それができる数少ない人材だと思う。




麦の穂をゆらす風/セブンス・コンチネント/風の音、愛のうた/挑戦/イエローキッド

2020年6月6日~13日

コロナ自粛期間中。
自宅で旧作バカリ。
マイナー作品多し。
誰に書くともなく。
つぶやきおじさん。


『麦の穂をゆらす風』
ケン・ローチ
監督
The Wind That Shakes The Barley
2006年 アイルランド・英 2時間6分 DVD
カンヌ映画祭パルムドール
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胸が潰される。
圧倒されるほどに襲ってくる無力感。

友情や絆を嘲笑うかのように人の運命を弄ぶ戦争。
しかしその残酷を作り出すのも人間ではないのか。

誰を相手に、何のために戦っていたのか。
大英帝国の横暴な支配や蹂躙と戦っていたはずなのに、結束の強い同志たちが、気づけば敵同士になっている。
仲間を蹂躙し、兄弟で殺しあっている。

この矛盾に気づいているのに止められない、この戦争という究極の不条理に、若者たちを追い立てるものはなにか。

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アイルランドと大英帝国の1920年前後の状況にも目を瞠るが、決してそこだけじゃない、いつの世も、そしてこの日本国の今も、そんな火種に似たものがくすぶっている。
「分断」という名の。

最も危険なのは、それに気づかないことだ。

★★★★



『セブンス・コンチネント』
ミヒャエル・ハネケ
監督
Seventh Continent 1989年 墺 1時間44分 DVD
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最後の30分にたどり着くまで、何も起こらない。
その30分の最後になるまで、何が起きたかもわからない。
しかし、わかった途端、それまでの脈絡のない日常の断片の「反物語性」が、意味を持って見えてくる。

小学生の娘がいる3人家族。
第1部は1987年のある一日。
不感症的な3人それぞれのフッテージの寄せ集め。
見る方は困ってしまう。

第2部は翌1988年のある一日。
ときどき不自然な感情が垣間見えるだけで、物語は掴めない。
見る方は困り続ける。

第3部は翌1989年。
家族はオーストリアからオーストラリアへ移住するらしい。
3人とも依然何を考えているかわからない。
そのまま、最後の30分の行為に移っていく。

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そうか、こんな運命を自ら引き寄せる家族が、脈絡のある日常を送るわけない。
再現シーンがまともな物語になるわけないんだ。

ということで、実話を元にした映画を撮るときに、ハネケ監督はまともな再現ストーリーを撮らないことを選択した。
それが実験的に見えようが、唯一納得のいく手法だったのだ。

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大きな水槽を壊した時、唯一娘は感情を露わにした。

その魚たちが息絶えていくときと、水洗トイレに持ち金を流していくシーンには、「許しがたい」と批判が集中した。

しかし、なかでも「金を捨てる」方に、よりブーイングとバッシングが激しかったという。
「命より金のほうがタブーなんだな」と、監督は確信犯的に笑う。

僕はといえば、トイレが詰まらないかという点でハラハラして、見るに堪えなかったけど。
勿論、魚たちは・・・あれはどうしたのだろう・・・

★★★☆



『風の音、愛のうた』
監督:ピーラサック・サックシリ、プッティポン・サーイシーケーウ、サヨムプー・ムックディープローム
Loving You, Loving Me 2011年 タイ 1時間41分 録画 ロードショー未公開
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これも3人の監督による市井の人々のドラマ。

とりたててとくべつなドラマ性はないが、ふだん知る機会のないタイの「市井の人々の日常」というだけで価値がある。

日常の断片が整理がつかないまま進行するので途中まで退屈してしまうかもしれないが、3つそれぞれが並行して交わらずに進行し、群像劇のようにできていることがわかれば、おちついて楽しめる。

音楽大学の青年とその発達障碍の妹、自然音にこだわる老作曲家の3人の物語は、いちばん興味深いが、もう少し尺があればもっと膨らみをもたせられる。

ほかに、
客を大事にする靴職人の祖父と大量生産の会社を経営する息子、そしてわがまま奔放な孫娘。ある家族の変化と決断の物語。

もう一つは、
軍医である父を尊敬する小学生の息子と、母親の葛藤。テロで危険な地区からバンコクに帰ろうとするが、なぜか息子は父親にこだわり帰りたがらない。
ある核家族の悲しみと愛情の物語。

★★★☆



『挑戦』
監督 : クラウディオ・ゲリン、ホセ・ルイス・エヘア、ヴィクトル・エリセ
Los Desafios 1969年 スペイン 1時間40分 DVD
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時はヌーベルバーグの頃。
しかしスペインではフランコ政権による弾圧もあって、映画は停滞していた。

そんななかでも新たな潮流を感じさせたのが、この3人の監督たちなのだろう。
それぞれ3つの章を分け合ったオムニバスは、スペイン人から見た、アメリカの生活様式に対する屈折した感情を主題にしている。

それは第二次大戦で外野にいて、連合国軍側に協力しなかった(むしろ枢軸国側に協力した)スペインという国のアイデンティティのゆらぎのようなものも関係しているのかもしれない。

スペインについてはあまり知らないので、諸外国への意識形成なども知る由はないのだが、当時はフランスやイタリアに対するよりもアメリカに対する意識が過剰にあったのだろうか、アメリカのイメージがステレオタイプにすぎるところが端々に感じられる。

監督3人ともそれは顕著で、アメリカに対する皮肉というよりも、むしろ自分たちスペイン人の旧態依然さに嫌気がさす裏返しであるところも同時に見せている。

3つとも、決して軽やかなポップさはないが、あっと言わせる展開をラストに持ってくる衝撃力は持っている。
その辺はヌーベルバーグの影響もやはりあるのだろう。

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第3章は、ビクトル・エリセ(29歳)の監督デビュー作。
その4年後には長編デビュー作にして映画史上に燦然と輝く不朽の名作『ミツバチのささやき』を撮っている。

★★★☆



『イエローキッド』
真利子哲也
監督
2009年 日 1時間46分 サンクスシアター(配信)
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主人公であるマンガ家のルサンチマンからひねり出されるストーリーは、同じく憤懣を抱えたもう一人の主役であるボクサーのモデルを得た途端に躍動し、二つの情念は同時進行で描き進むマンガによって誘導され、混同し、同化していく。

それだけならよくある話なのだが、この作品はもう少し複雑でメタ的仕掛けがある。
以下はネタバレというより僕の解釈にすぎず、ちがうかもしれないので、あくまで参考として。

二人の主人公はそれぞれ、虚構に誘導されるかのように行動してしまう。
しかし宿敵を倒す方向で進む物語の結末は一つのように見えて、一つではない。
ボクサーが恨みを晴らすと同時に、マンガ家は自分の虚構をボクサーに投影してもう一人の宿敵を倒そうとする。
ラストに到って、目的が果たされたはずなのに、マンガ家の欲求に基づいた主観と現実は完全に乖離してしまい、妄想なのか、どちらの行為なのか、一瞬錯綜する。
最後の最後に盗撮映像が示されることで客観視のヒントが得られる。

ということで本当の主人公はマンガ家だったということはわかった。

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卒業制作作品としてはかなり高いクオリティだが、ワールドクラスかというとそうでもないのでは。

★★★☆



ルース・エドガー/その手に触れるまで

2020年6月14日~17日

危うい少年の2本。

いつの間にあなたは変わってしまったの?と、おののく親の話でもある。

危うくさせている我々の、今そこの世界の話。


『ルース・エドガー』
ジュリアス・オナー
監督
Luce 2019年 米 1時間50分
キノシネマみなとみらい
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「彼は完璧な優等生か、それとも恐ろしい怪物か」
という宣伝文句。
この手の「天才か、モンスターか」という惹句はよく見かけるが(今なら小池百合子の暴露本を思い浮かべるが)、この作品に限ってはうまい具合にそそのかしてくれる。

サイコホラー、エスパー系SF、犯罪サスペンスといったジャンルものを期待した人にはどう思われるのだろう。
僕としては突拍子もないものよりも、現実に即したコワサの方が趣味なので、イイ期待の外され方だった。


主人公ルース・エドガーは「文武両道に秀で、スピーチやユーモアのセンスにも長けた17歳の少年で、アフリカの戦火の国で生まれた苛酷なハンデを克服している」
そう聞いただけで、模範的なリーダー像が僕らの中にできあがる。
実際、彼は先生からも生徒からも信頼が厚く、将来を有望視され、学校にとっても両親にとっても誇りだ。
ただし、両親はアメリカ生まれの白人。
難民を養子として引き取り、セラピーでトラウマ治療を施してきた。

さて。
この背景だけで、この子にはなにか測り知れないものが秘められているのでは?と、つい想像したくならないだろうか。
思いもかけない行動や思想に走る素地があるのではないかと勘繰りはしないだろうか。

見ている僕らのプロファイリング的な思考傾向も浮き彫りになる。

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担任の黒人女性教師が重要な役回りで少年と関わる。
あることをきっかけに、疑念が積み重なる。

ルースの一点の曇りもない好青年ぶりを前にして、担任のカタブツな猜疑心は行き過ぎなのか?
生徒のプライバシーを侵し、追いつめているのか。
彼女は善なのか偽善なのか。

母親は? 父親は?
善が偽善に変わり、
嘘も方便になり、
保身になる。

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黒人教師がマイノリティに対して、
「逆境を克服した模範生」
「ドラッグで身を亡ぼす落ちこぼれ」
「性的ハラスメントと闘う女性」
など、人物像のレッテル貼りを行っている、と不満が生徒から出ている。

担任は黒人として弱者として、生徒たちに権利者意識を強く持ってもらおうと、社会で生きるための知識と防御策を身につけさせるため、いきおい、厳しめに指導する。
それが裏目に出て反発を招き、不幸な軋轢を生じさせる。

あることがきっかけで、ルースは担任に疑われる。
彼の柔和で真面目な表情からは、とても野蛮なことをするとは考えにくい。
優等生の仮面の下で、どんな思惑を懐に抱いていたのか。
見ている僕らは、彼の味方をするが、担任にも同調できる。

養母と養父は混乱し、息子の味方でいるのか真実を暴くのか、決断を迫られる。
人種も境遇も世代も何もかもちがう親子間で繊細に慎重に育ててきた絆に、ヒビが入る危機が訪れている。

一方、担任は本当に冷たく疑り深い強権的な人なのか。
やがて彼女の「弱者性」が一気に前面に押し出され、ついには差別の餌食になる。

被害者になった彼女に対する、本当の加害者は誰なのか。
誰が本当の嘘つきなのか。

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平気でうそをつく人がいれば、いずれ疑わなくてはいけない。
疑うことを余儀なくされるということは、信頼していた相手を裏切るということ。
苦痛だ。
ウソを一度疑うと、周りの信頼はもろくも崩れ、あっという間に猜疑心で満ちあふれる。
積み木くずし的なカタストロフィになりかねない。


主人公はあえて言うなら、ぎりぎりサイコパスの部類に入るのかもしれないが、その境界型のギリギリ加減が実にいい。
登場人物たちは意味ありげな表情や、いかにもなサイコっぽさは徹底して出さない。

人間の本性を描けば、これほどコワいドラマになるということだ。

隠す、疑う、嘘をつく、騙す、しらを切る。

これだけで、人間のコワさを描くには十分。
しかもそこから人物同士が探り合い、関係性が増悪し、本音が芋づる式に現れ、それぞれの正体があぶり出される。
さすが戯曲(「Luce」J.C.リー)が元になっているだけに、練りに練られている。

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差別は白人の黒人に対する偏見という単純なものではない、という複雑な現実を端的に描いてもいて、慄然とする。
現在全米いや全世界で人種差別抗議デモが巻き起こっているなかでこれを観ることはいいタイミングだ。

いくつもの疑問符を生じさせ、いくつもの命題を提起させるこの脚本は、観た者同士で解釈を話し合ってみると、より面白い。


最後に特筆すべきは、裏の顔を見せない超優等生ルース役のケルヴィン・ハリソンJr.の演技はもちろんだが、何にもまして担任役のオクタヴィア・スペンサーがすばらしい。

★★★★



『その手に触れるまで』
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
監督
Le jeune Ahmed 2019年 ベルギー・仏 1時間24分
ヒューマントラストシネマ有楽町
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少年とナイフ。
13歳のむきだし。

人を傷つけやすい危うさを常に抱きつつ、
アメッドはダイヤのように傷つかない。
少なくともそう見える。

それは狂信のせいだ。


眉一つ動かさないような強靭な決意を固めたアメッドは、つい1か月前までは普通のゲーム少年だった。
ただでさえ過大な自我が白黒つけたがる思春期において、きっかけはなんであれ、染まりやすい。


世界がどこでも思想ひとつで暴発し、一人で"ホームグロウンテロ"を起こせる環境になった今。
ベルギーのムスリム集中地区はそのマグマの噴出口になる危険が露わになった。
(舞台となったブリュッセルモレンベーク地区はムスリムが5割~8割といわれ、失業率は4割)

わずかな土のすきまから生えた草花は、抜かれると思わぬものが噴き出すかもしれない。

そんな大きな脅威の一粒の種が、小さな小さなところから芽生えてくるリアルを、単なる日常風景のようにスケッチしている。
プレパラートに載せて顕微鏡を覗き込んでいる。

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初めてダルデンヌ兄弟作品を観る人にとっては、今回はとくにあっけにとられるかもしれない。
極端なまでのシンプルさ。
起承転結が不明。
主人公の行動を一定時間そのまま追いかけ切り取る手法(スライス・オブ・ライフ)。
音楽や映像効果を使わず、感情誘導しない。

いつものメソッドだが、『ある子供』『少年と自転車』以来の超絶なシンプルさ。

ダルデンヌがここでさりげなくやって見せていることについて、あなたはどう思うだろか。
ラストの幕の閉じ方は、10人見れば10人とも感想は異なるだろう。
アメッドの行為のよしあしは問わない。
カンヌ監督賞だが、作品の評価もどうでもいい。
1時間24分、とにかく「観察」すること。

監督は恣意性を嫌っている。
言ってしまえば邦題の付け方さえ恣意的だ。
それだけ、僕たちは委ねられているのだ。

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グリーン・ライ ~エコの嘘~

2020年5月31日


『グリーン・ライ ~エコの嘘~』
ヴェルナー・ブーテ
監督
2018年 墺 1時間37分 vimeo/仮設の映画館(Image Forum)
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「環境にやさしい」(eco friendly)
「サステイナブル」
を標榜する会社が増えた。

これ、ほぼウソです。

という、衝撃の事実を次々とおしえてくれる。

いわゆる「グリーンウォッシング」(=環境破壊をしているイメージを払拭するPR施策)についてのルポだ。
世界中で欺瞞の現実を目の当たりにする。

男性監督と女性ジャーナリストがペアで突撃取材に飛び回る“実地検分”のルポ。

インドネシアで一見整然とした森を見て思わず「きれいな自然だ」と呟く監督。
しかし、すぐに彼女にたしなめられる。「これがそう見える??」
正体は一面アブラヤシ単一の人工林で、広大な森を焼き払って植林したもの。

サステイナブルな貢献をしている企業を集めて表彰するイベントで、堂々と活動を披歴する社長や広報たちは、「森林を焼いたりなど一切してません。行ってみればわかります」と豪語する。
でも実際に行ってみれば、目の前は果てしない森の焼け跡だ。酷たらしい死の世界。
伐採しただけだとしても、それが原因で乾燥して森林火災となる例も多発している。
広大な敷地はすべてパーム油を採る企業のためのアブラヤシ農園となる。

オランウータンはいなくなり、煙害で12万人が健康を害し、子どもたちはマスク装着を余儀なくされる。

しかもパーム油は健康への安全性が問題視されている。
有害とされるトランス脂肪酸を含まない代替原料として使われ始めたが、ヤシノミ洗剤としてならまだしも、食品としては避けた方がいい代物。
安いがゆえに企業には重宝され、チョコレートやポテトチップス、カップラーメンなど多くの食品に使われているが、原材料には「植物油脂」としか表記されず、区別できない。

現地の人々の雇用を生む点でどうかといえば、外国企業が地元以外の労働者をつれてくることが多いため、地元の人々の金にも食糧にもならないというグローバリズムの弊害の典型らしい。

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二人はアメリカに渡って、2010年メキシコ湾で海底油田掘削中に原油流出事故を起こした英国BP社の実態を取材。
いまだにつづく海洋生物への悪影響と、無責任な事後処理が明らかに。
さらに、ドイツ、ブラジルと回る。

「いくらなんでも、そんな堂々と嘘はつかないだろう」と思ってしまう僕らを代表して常に甘い考えを示してくれる役の監督に対して、環境エキスパートの相方カトリンは厳しい指摘で一蹴。
この掛け合いが推進力となって面白い。

電気自動車に乗って「CO2を出さないぞ」と監督がご満悦の様子を見せると、すかさずカトリンに釘をさされる。
「充電器にはリチウムが必要だし、充電用の電気はどこから持ってくる? 石炭がまだ使われてるの」

ドイツの壮観なまでに巨大な炭鉱現場へ行き唖然とし、そのRWE社の株主総会に参加しに行く。
その会場ではある騒動が勃発。


各地で環境破壊をする企業への告発活動をするアクティビストたちがいることには、一抹の希望を感じる。
「相手が巨悪なら、それだけやる気が出るのよ」とブラジルでの抵抗活動を仕切る女性は笑う。

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CO2削減を大義名分として、国家は「カーボン・オフセット」という概念を編み出したが、その概念自体、先進国に金で免罪符を与えるような偽善的なものではある。
企業も、「エコ」を売らなければ商品が売れない時代になった。
そのこと自体は環境保全のためにはいいことで、消費者が企業に縛りを与えることによる必然的な結果でもある。

しかし、グリーンウォッシングという言葉は今回初めて知った。
企業が「エコ」という言葉を隠れ蓑に、イメージ戦略だけで取り繕い、ここまであからさまに即バレる嘘をついているとは予想をはるかに超えていた。
日本の政治みたいに開いた口が塞がらない。


後半、例によって、グローバリズムに「Non!」を唱える御大ノーム・チョムスキー氏が登場する。

「環境対策を講じる企業を信用してはいけないのか」という問いに対して、
「提案は受け入れてもいいだろう。ただし、プロパガンダは拒否すべし」
と明快な答え。
要は、プロパガンダかどうか、常に目を光らせておかなければならないということだ。

本当にサステイナブルな取り組みというのは可能なのだろうか。
自然破壊は食い止められるのだろうか。
チョムスキー氏は言う。
「16世紀に議会制民主主義を目標に掲げたとき、それが実現可能だと誰が思っただろうか」

ただし、もう時間はない。

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ドキュメンタリーだが映画として飽きさせない。
カメラのポジショニングや撮り方はかなり手慣れたテクであるし、二人の掛け合いも演出として面白おかしく惹きつける術に長けている。

しかし、こうやって書いていると、この映画だけを見て情報を一面的に信用するには、根拠が十分示されていないことがわかってきた。
女性ジャーナリストの知見を頼りにしているが、ほかの事例が示されないし、データや統計などの情報が少ない。
たとえばパーム油については、「サステイナブルなパーム油は存在しない」という彼女の断定は本当なのか。
小規模農園をサポートする仕組みがあるはずなのだが紹介されていない。
パーム油の食品としての有害性はどんなものなのかについても言及されていない。
洗剤としての有用性はどうなのか、
労働力は地元民がほんとにいないのか、国外からの労働者が何割ぐらいなのか。
森林は最初から焼却したのか、伐採のせいで火災になる場合とどちらが多いのかも曖昧。

パーム油についてのパートの比重が高いわりには具体的なデータが少ないので説得力に欠ける。
詳細を求めようとするといろいろと疑問が後から湧いてくる。
この映画は、見ることで興味を持つきっかけにさせるためのものだ。
そこからは、自分で調べてみるのがスジだろう。

スーパーで食品を買うときには原材料をよく見て買うようにしているが、お菓子類を食べることすらハバカレるような、むずかしい事態に巻き込まれている。

そりゃそうだ、地球という火の車に乗っかっているのだから。

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P.S.

折も折、うちにあった今週の生協宅配カタログに「RSPO認証」が大きくPRされていた。
(写真参照)
ここでは洗剤類だけの扱いで、認証商品を買うと寄付として貢献できると謳っている。

映画のHPには次のように解説されている。

「・・・こうした状況を改善するために、2004年に「持続可能なパーム油のための円卓会議」(RSPO)が設立されました。RSPOでは様々な基準を定めて、その基準が守られているかどうかの確認を第三者機関が監査することになっています。しかし、その監査体制が不十分であり、問題のある農園もRSPO認証を取得している場合もあります。そうしたケースでは、映画『グリーン・ライ』で取り上げたような、実態と異なる「嘘」の主張がなされてしまうことになります・・・」

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弁護人/飢餓海峡/宮本から君へ(連続ドラマ版)

2020年5月21~26日


『弁護人』
ヤン・ウソク
監督
2013年 韓 2時間7分 GYAO
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ノ・ムヒョン(廬武鉉)元大統領がモデル。
高卒の税務専門ノンポリ弁護士が、レジスタンスの人権派弁護士へと劇的な転身を遂げる物語。

1980年にチョン・ドゥファン(全斗煥)軍事政権が始まり、光州での大弾圧事件が起きたあと、釜山にも公安の魔の手が伸び、無実の学生たちに対してアカ狩りが猛威を奮った。
今作はこの拷問と不正裁判があった「釜林(プリム)事件」(1981年)にスポットを当て、韓国の民主化への闘いの一頁を描いている。

弁護士の主人公は、家族のように恩義を感じている親子が理不尽な犠牲にあうまで、全く政治には関心を向けていなかったが、事件をきっかけに突如正義に目覚め、公安・国家を相手にして裁判を舞台に大立ち回りを演じる。

半沢直樹の「倍返しだ!」どころか、まるで江戸町奉行所のお白洲かとも思えるほどの勧善懲悪の過剰演出はあるが、そこは韓国映画ならではのエモーション上等!ということで。

「デモが国を変えられると思ってるのか?」とか「マスコミが嘘を言うわけない」などと冷笑してほざいていた人間が、国家が容赦なく善良な市民を蹂躙するのを目の当たりにすると打って変わって覚醒し、法の番人として不正に立ち向かってゆくヒーローの姿には、観ている誰もが時を忘れのめりこんでゆくことになる。

裁判でクライマックスを迎えたあと、終盤にはあの『1987 ある闘いの真実』(2017)の舞台、ソウルでの「6月民主化抗争」へとつながる。
憲法改正と大統領直接選挙を実現させた、民主化のマイルストーン的抗争だ。
主人公つまりノ・ムヒョンは、1987年には市民レジスタンスとしてあの場所で参加していたのだ。

そんなわけで、映画にはさらなるクライマックスが、再び裁判所において用意されているのだった。

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ちなみに、現大統領ムン・ジェインはノ・ムヒョンの同志として釜林事件の裁判をはじめ民主化運動でともに闘った。


しかしそれにしても、1988年はソウルオリンピックの年。
その前年まで首都で戒厳令だの弾圧だの直接選挙要求デモなどが起きていたなんて驚き。
でもオリンピックの予定があったからこそ、国もそれ以上強硬路線を貫けなかったわけでもあるのだった。


民主化されてまだ30年程度の韓国では、戒厳令のさなかの弾圧事件について作品で取り上げることはなかなかできなかったが、2000年頃からは何本も撮られるようになってきた。
この映画の主役ソン・ガンホは、そんな体制批判映画のほとんどに出演しているような気がするが、やはり制作当時のパク・クネ政権は彼をブラックリストに入れていたことが後でわかる。

韓国の映画賞「青龍映画賞」で作品賞と主演男優賞、助演女優賞を受賞したが、ヤン・ウソク監督は公開後に多くの脅迫電話を受け、しばらく中国で身を隠すことになったという。
時の政権がリベラルか強権的かで、映画の自由度が極端に変わってしまう。

パク・クネの前のイ・ミョンバク政権におけるマスコミ統制のひどさは、ドキュメンタリー『共犯者たち』(2017)で生々しく描かれている。


ソン・ガンホはもちろん、食堂のお母さんキム・ヨンエも熱演。
その息子で拷問にあう痛い役は人気アイドルのイム・シワン。なんともいたたまれない。
国家保安法をたてに蹂躙の限りを尽くす公安のクァク・ドウォンは、長州小力と筒井康隆を足したような顔で冷血を演じる。

★★★★



『飢餓海峡』
内田吐夢
監督
1964年 日 3時間2分 録画
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戦後間もない昭和22年、青函連絡船が台風で転覆した事故と、同じ日の北海道での強盗殺人及び大火災の事件から、物語は始まる。
(これは実際にあった昭和29年の洞爺丸転覆と北海道岩内町の大火をもとにしたフィクション)
一人のベテラン刑事と一人の娼婦、そして一人の復員した大男に焦点を当てた、水上勉原作の映画化作品。
戦後の極度の貧困のなか、元より困窮した僻地で生まれ育った人間の、強さと弱さと、自ら引き寄せる哀しい運命を描く。

時代背景と人間模様をうまく物語として練り上げているところは原作の力だろう。
見どころは役者たちの演技。
3人の主役、三国連太郎、左幸子、伴淳三郎はそれぞれの持ち味を期待以上に発揮して、映画に奥行きを与えている。

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ただ、シナリオのト書きをナレーションで語ったり、状況説明を左幸子につぶやかせたりと、なにかと不自然な叙述方法が多用されるところは、もっと巧く映像で語ってほしかった。

映像に関しては、当時の心象風景を表すため内田監督が技術面にこだわり、16mmフィルムを35mmにブローアップしたり、現像時にソラリゼーションを起こしたりなど、実験的手法を東映に開発させ、それも含めてなかなかの明暗・乾湿の質感を出している。

今村昌平松本清張を合わせたかのような作風である、と言いたいところだが、どちらの特長も映画では出し切れていないことは否めない。

クライムサスペンス的な部分が弱すぎるのだ。
警察の捜査・推理があまりにも稚拙で、何度も「ありえないだろ」とツッコミを入れながら観なくてはならないのは、せっかくの人間ドラマに水を差す。
昔の刑事ものを今観ると、時代とともにさすがに捜査の現場や内幕についての研究・検証が進んだのだろう、ディテールの細かさやレベルの差が歴然とする。

★★★☆



(連続TVドラマ版)『宮本から君へ』全12回
真利子哲也監督
2018年 日 4時間44分 Amazon Prime
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ヤ、ヤバイ、オモシロすぎる。
池松壮亮の宮本への憑依ぶりが激しい。
その強烈なキャラを存分に生きている。
矛盾と妥協のサラリーマン人生に血と汗と唾と涙と青臭さと一本気で立ち向かうドン・キホーテを生きている。
壮絶なまでの役者魂。
ただ派手な演技でインパクトを与えてるだけじゃない。

毎回ドラマの途中でオープニングクレジットが入るのだが、そこで演じる1分間のカメラ前の表情に、それが凝縮されている。12回とも同じオープニングを飛ばさずに観てしまう。

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映画の前にテレビでこの連続ドラマが放映されていたことを今さらながら知り、驚いている。
可笑しくて、哀しくて、切実で、激しい、ストーリーテリングにも快哉。
最終回なんか、無残さと爽快さが両方一気に飛び込んできて、見事に見納めできる。
バイオレンスが神経にくる映画版よりも、むしろいい味かも。

あと、丸刈りにすると池松君はまだかわいい中学生みたいだ。

★★★★

デッドマン・ウォーキング/妻への家路

2020年 3月28日~5月17日

コロナ自粛中の映画鑑賞事情。
劇場で観ないと、なんとも集中度に欠ける。
NetflixやAmazonPrimeなどで配信されている作品のレパートリーも、自分が観ていない「観るべき作品」はネタが尽きてきた。

※もちろん新作の配信プラットフォーム「仮設の映画館」は活用している。
【仮設の映画館】 ↓
https://www.temporary-cinema.jp/

※アップリンクの映画60本3か月見放題の配信サイトもあるが、僕はほとんど目ぼしい作品を劇場で観てしまっている。
【UPLINK cloud】 ↓
https://www.uplink.co.jp/cloud/features/2311/

どちらもみなさんはどんどん利用なさってくださいね。


このコロナ期間中、新作は、先日ブログでレビューを書いた『精神0』『インディペンデントリビング』だけ。
以下、自宅で観た旧作を並べてみる。
台湾関係はつい観てしまう習性(笑)があるのだが、やっぱりレパートリーがはかばかしくないんだよなあ。
そんななか、今はもう解約したWOWOWを以前録りためたものを観てみた。
やはり、いいものはいい。
まずは格ちがいの2本から。



『デッドマン・ウォーキング』
ティム・ロビンス 1995 米 2:02 WOWOW録画
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ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの音楽で始まるこの作品は題名に反してゾンビ映画ではなく、死刑制度問題をど真ん中ストレートに投じる骨太の感動作だ。
アカデミー主演賞を獲得したスーザン・サランドンはもちろんだが、死刑囚を演じたショーン・ペンの演技も真骨頂。
演技のクオリティがこの作品のクオリティの半分を占めるとすれば、もう半分はこの重大テーマを2時間強で描き切ったシナリオを褒めたい。

更生の余地のない凶悪犯に対するカウンセラーに指名された修道女(サランドン)が、周囲の処罰感情のなか死刑囚(ペン)との対話を続け、信頼を得て、執行までの時間をシェアする。

執行の瞬間まで、とりわけ最後の一日をこれでもかと時間をかけて描く肝っ玉には恐れ入った。
ただ、最後の最後まで、死刑囚本人がどこまで気づけるか、加害側と被害側の感情に寄り添うバランスはどうか、と気がかりだった。

死刑囚が自分の罪に気づくかどうかは、罪を犯した原因を自分と周囲が理解することから始まり、人間性を回復するかどうかにかかっている。貧困の環境で育った「人でなし」が「初めてニンゲンとして扱われた」「初めて愛を与えられた」ことにより「人間」に戻りさえすれば、そこから初めて罪に気づき贖うことが始まる。
ドキュメント『プリズンサークル』『Lifers 終身刑を超えて』で描かれたことと同じである。
そこに気づいていないのは死刑制度容認者ばかり。

不安は払拭された。それどころか、期待以上だった。
終盤は圧巻で、サランドンのカトリック教徒としての献身的な対話は意外にも効果が生まれ、ペンは最後の最後で劇的な変化を見せる。
被害者遺族との板挟みになったジレンマも十分に描き、教条的に結論を急いだりしない。
それでも制度化された殺人を目の当たりにさせる残酷さと悲しさは、死刑に対するアンチテーゼを最大限に突きつける。
「デッドマン、ウォーキング!」と看守が声を発するところも驚いた。

付け加えれば、カトリックとして聖書からの言葉がしばしば引用されるのだが、人種差別や貧困を憂い平等を説く反面、「同性愛」を大罪の一つとして数えているのはなんとも皮肉なことで、キリスト教圏の複雑さを物語ってもいた。

★★★★☆



『妻への家路』 チャン・イーモウ 2014 中 1:50 WOWOW録画
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チャン・イーモウ、さすが、惹きつける。
コン・リーもさすがの安定感のうえに、老け役が堂に入っている。
物語の序破急をつくるフックも、初めから終幕までツカミが効いている。
娘の行動、手紙やピアノの使い方。
そしてなんといっても、「記憶」が家族の存在意義さえ左右する究極の皮肉。
こんな残酷な絵があるだろうか、というショットがエンディングとなる。

一国の権力体制が、戦争と同様に市民を踏みにじる。
善人は家族を分断され、何重にも犠牲を強いられ、矛盾の上に矛盾を重ねられる。
国家は大きな過失を犯しても、決して認めずに手のひらを返して知らん顔でまた取り入る。

そんな愚の骨頂を静かにかなしく訴え、痛烈な皮肉をかたちにしている。

★★★★



『桜並木の満開の下に』 舩橋淳 2012 日 1:59 録画
舞台は茨城・那珂湊。はっきりとは描いてないけれど、人物と工場の背景を暗澹と覆っているのは原発事故による被害。
★★★☆

『さよなら人類』 ロイ・アンダーソン 2014 スウェーデン・ノルウェー・仏・独 1:40 録画
壮大かつミニマルなお遊び。美と諧謔。シュールとペーソス。しかし、なぜベルリン金熊??
★★★

『感染列島』 瀬々敬久 2009 日 2:18 AmazonPrime
製作委員会と統括Pro.の唖然とする人数の多さで、この映画の混沌ぶりが理解できる。監督に同情。ラブストーリーをいくつもブチ込んだり、禁断の魔女とゾンビの孤島で未知のウイルスを探索したり、過剰なスリラーにしたり、なぜか都市が地震のような廃墟で煙が上がり車がゴロゴロ転がっていたり、CGを使いまくったり、大物俳優を使いまくったりと、のべつとっちらかっている。
★★☆

『KANO~1931海の向こうの甲子園~』 マー・ジーシアン 2014 台 3:05 AmazonPrime
演出過剰。スケール感が大きい反面、戦争が絡んでくると思いきや、ほとんど関連させずに終わるのが拍子抜け。
★★☆

『南風』 萩生田宏治 2014 日・台 1:33 AmazonPrime
★★☆

『台北に舞う雪』 フォ・ジェンチイ 2009 中・日・香・台 1:46 AmazonPrime
★★★

『STANDARD』 平野太一 2018 日 1:55 YouTube ドキュ
★★★★(前回ブログでレビュー済み)

『レザボア・ドッグス』 クエンティン・タランティーノ 1991 米 1:40 Netflix
今となってはそれほど驚かない。
★★★☆

『フードインク』 ロバート・ケナー 2008 米 1:34 ドキュ AmazonPrime
知識として知っておくのはマスト。自分を構成する食べ物が何でできているのか、それが地球にどんな影響を及ぼしているのか。無知は罪。

『TOKYO!』 2008 仏・日・韓・独 1:51 Netflix
Interior Design ミシェル・ゴンドリー ★★★
Merde レオス・カラックス ★★★
Shaking Tokyo ポン・ジュノ ★★★★ 香川照之と蒼井優を使ったポンジュノセンスが冴えわたる。


『はじめてのおもてなし』 サイモン・バーホーベン 2016 独 1:56 Netflix
移民問題・人種宗教差別の内容は評価するのだが、ストーリーテリングが惜しい。
★★★☆

『AKIRA』 大友克洋 1988 日 2:04 Netflix
今となっては驚かない。原作の何分の一だろう。省略してわけがわからない。
★★☆

『コンテイジョン』 スティーブン・ソダバーグ 2011 米 1:46 Netflix
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新型コロナを予言したこの話題の映画、もうご覧になりましたか。かなり参考になりますよ。『感染列島』はこう作るべきだったというお手本。
★★★★

『ママは日本へ嫁に行っちゃダメと言うけれど。』 谷内田彰久 2016 日・台 1:34 Netflix
★★★

『都市を耕す エディブル・シティ』 アンドリュー・ハッセ 2014 米 0:56 ドキュ vimeo
コロナ以後の生き方。(「フクシマ以後」とも言われていたけれど・・・)

『娼年』 三浦大輔 2018 日 1:59 Netflix
こんな通俗的で凡庸な話を扱ってまで、なぜ三浦大輔は原作を映画化したのか。松坂桃李を半端なポルノ男優として撮ることにそれほど価値があったのか。映画化は自分の戯曲だけにした方がいい。
★★☆

(再)『リップヴァンウィンクルの花嫁 serial edition』 岩井俊二 2016 日 4:00 Netflix
映画本編と同時に撮った分を編集し直してロングバージョンに。ただし、りりィの出演する終盤のシーンはまるごとカット。
★★★★☆

(再)『カンタ!ティモール』 広田奈津子 2012 日 1:50 ドキュ vimeo
★★★★★

(再)『37セカンズ』 HIKARI 2019 日・米 1:55 Netflix
★★★★☆

(再)『ローマ』 アルフォンソ・キュアロン 2018 メキシコ・米 2:15 Netflix
★★★★

(再)『カメラを止めるな』 上田慎一郎 2017 日 1:35 AmazonPrime
★★★☆

(再)『君の名は』 新海誠 2016 日 1:52 録画
★★★☆


1回目と比べると2回目は印象が明らかに落ちる作品と、良いままの作品がありますね。
家で観ること自体が、劇場で観た印象にはかなわないということなのかもしれませんが。

インディペンデントリビング/STANDARD

2020年5月6日


「共生」がキーワードと言える4作を3日間で連続して観た。

『精神0』山本昌知医師がサインする時に添え書きする言葉はまさしく「共生」だった。
『カンタ!ティモール』では、東ティモールの抵抗運動のゲリラ戦士たちは、相手のインドネシア兵を捕らえはするが傷つけはせず、自分たちがなぜ闘っているかを一晩話して聞かせ、解放する。

もはやこのワードは、特定の作品のキーワードではなく、この世界の、この同時代のユニバーサル・ワードなのだ。


『インディペンデントリビング』
田中悠輝
監督
2019年 日 1時間38分 vimeo

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「自由」とは何か。
障碍者にとっては、ひとつには「独り暮らし」である。
この意味の大きさは計り知れない。

「選択」できる自由を獲得するということ。
「権利」とか「尊厳」とか、言ってみれば、日本国憲法の前提のスタートラインに立つということだ。
「個人」として二度目の誕生とも言えるかもしれない。

そんな産声が、スクリーンのあちこちから聞こえてくる。

介助する人とされる人。
介助される人は自立しようと奮闘し、それを手助けする人も介助される人によって成長する。

自立生活センターにおける、障碍者と、それをサポートする介護職。
独り暮らしのために、トライ&エラーして互いが成長する姿が描かれている。

IL」=「自立生活運動」の実践の場だ。

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頭脳明晰な四肢麻痺の男性、
高次脳機能障碍で頭脳が曖昧になってしまった高学歴の若者、
精神・知的障碍を持ちつつ親離れしようとする明るい女子、
車椅子生活で引きこもり15年から脱したばかりで日常会話やマナーが苦手な男性、
あるいは、重度の知的・身体ダブルの障碍がありながら自立への訓練を始めた男性、
ほかにも、筋ジスの女性はTV出演などで広告塔として活躍、さらにアメリカに留学。

みんな、いい笑顔をしている。

様々なタイプの障碍者が登場し、各々初めての体験や失敗を繰り返していくが、生き生きした表情は、例外なく屈託のない子どものようだ。

それこそが、「生きるよろこび」
子どもが何かにつけ驚き、全身で表現し、動きが弾けるような。
彼らは「死んだように生きていた」過去から、「自分で生きる」現在を選択する。
選択できるよろこびを全身で感じ、笑顔で表現しているのだ。

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そして彼らをサポートする介護職の人々の献身的なスピリッツ!
人を助けるために生まれてきたかのようなスタッフたちだが、彼らには彼らなりのモチベーション=動機と体験がある。
人は弱点を強みにすることができる。
自分の弱みを知ることで、弱みを持つ人の気持ちに気づくことができるのだから。


もともと自立センターにサポートを求めに来た障碍者が、自立したあとにサポートする側に回り、スタッフになる、あるいはセンターを立ち上げる。
そんなリーダー的存在になってまたみんなの励みになり、好循環を生んでいく。

助成金や財政は足りないだろう。
公的制度は善人の善意に甘えてはいけない。
そんな背景は描かれていなかったが。

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ここで観られる涙は、ポジティブな涙。
障害を持つ娘から子離れできないお母さんも、娘との関係に失敗しては反省し、泣いて、また笑う。
今泣いても、方向性は未来を向いているから。
自分も周りも、ポジティブは伝染する。
こちらにも。
あなたも、いい涙、こぼれますよ。

https://bunbunfilms.com/filmil/



『STANDARD』
平野太一
監督
2018年 日本 1時間55分 YouTube

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「3.11」から、スイッチがONになった人々。
ギアはニュートラルじゃいられない。
この国の欺瞞に一気に気がついてしまったシティズンは、自分のモヤモヤの正体を大きな「?!」の叫びにして、ストリートへ繰り出した。

それまでの「労組」とか「メーデー」のような幟を立てたデモ組織とは一線を画す。
まったく組織を持たないバラバラのところから集まった、デモ素人たちによる自然発生的なアピール行動が始まったのだ。
主に、その後「首都圏反原発連合」となるメンバーたちが盛り上げ、経産省前の数人は、数十人、そして時に官邸を呑み込む熱波をうねらせ、また潮が引くように地味な活動に戻ったりという軌跡をたどりつつ、今に至っている。

ここに登場するレジスタンスたちは、「TwitNoNukes」のメンバーを中心に、2011年の3月中にすでに行動を開始していた猛者も多いが、「行動」なんて、組織もないんだから決まり事はない。
いつ参加してもいいし、いつ抜けてもいい。
十人十色で、一人ひとり濃淡も色相もちがうカラフルなグラデーション。

気分に任せて叫びたいときに行けばいいし、難しい会議に参加しなくてもいい。
でも、これだけのムーブメントを形づくってきたのは、そのコアにいる献身的で忍耐強い人たちだということは意識してほしい。
この映像記録は、そのための可視化でもある。

民主党政権下での原発反対デモは2012年には官邸周辺に最大20万人を集めた。
その後安倍政権になってからは、すぐに特定秘密保護法強行、つづいて安全保障関連法案では抗議の人々12万人が国会前に押し寄せた。
その後もTPP、共謀罪法、森友加計問題、働き方改革関連法、カジノ法、辺野古新基地建設など、引きも切らさず様々な悪法の強行採決や弾圧や隠蔽・改竄や汚職が相次ぐたびに、切実な抗議の声を上げてきた。
末端ながら自分もその一人だから、彼らの軌跡と心境に共振しながら観た。

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反原発の中心メンバーの数人は当時、ついに国会内で野田首相と面会する機会を得る。
木で鼻をくくったような政治家たちに対して、イルコモンズさんの訴える切実な一言一言は胸を打つ。

途中「SEALDs」や高校生の「T’ns Sowl」も若い世代のハイセンスなムーブメントを興し(映像ではチラリと登場する)、リーダー格の奥田愛基くんは国会で市民の代表としてスピーチに招かれもした。
学生主体のメンバーが卒業していくとともにあとは各々の役割に分散していった。

いかに一般市民に聞く耳を持ってもらうか、そこに常に腐心した活動だった点では、なかなかの成果を上げたと思う。
ヴィジュアル的にもサウンド的にも、格段にシフトアップされた。

2015年には小熊英二慶大教授によってYouTubeから抜粋・編集した『首相官邸の前で』という映画もできたが、今作の方が面白いし、エンパワーメントになっている。

『わたしの自由について~SEALDs 2015~』(西原孝至)というドキュもあったが、これは大学生と民主主義の根本を考える思索の旅のようなルポだった。

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しかし、ムーブメントはブームでは済まされない。
たとえばそこにイジメっ子がいたら、近所のオヤジは諫めに入って怒鳴るくらいのことは当たり前にやろうや、ってこと。
民族差別のスピーチをしていたら、その場で止めなくては、その場で実害が出る。

ヘイトデモがまかり通っていた新大久保や川崎で、アンチヘイトの波も大きくなっていったことは誇らしい。
ただ、「しばき隊」と称したアンチヘイトグループはコワモテも多い。
デモの性格上、「スタイリッシュに」なんてことは言ってられないから、ある意味仕方がない。
上記の国会前や各地の陽気なサウンドデモのようなものとはだいぶちがう直接行動だ。


そんなだれかが、そこにいてくれる。
いまのところ。
あなたが行かないなら、誰かが行かなければならない。
あきらめたら、この国は終わりだ。

今日も、今この瞬間も、政治は必ず市民を欺こうとしている。
国民を隅々まで最大限、統制・管理しようとしている。
このくらいのことをスタンダードにできない世の中なんて。
このくらいのことをスタンダードにできないあなたの心なんて。

今作は、国の中央部での、ここ数年のことだけだ。
沖縄のことを考えれば、戦後ずっとRESISTし続けてきたのだから。
オキナワはすべてをやってきた。
東ティモールもお手本だ。

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「共生」
「包括」
Living together
inclusive
異なる民族、相容れない思想とともに生きる。
「アベ支持者とさえ共生している現実」と登場人物は語っていた。

相手を傷つけず、自分がなぜ闘っているかを話して聞かせる。
東ティモールのように。

「あなたがすべきことを、あなたの場所でやってください」

この映画は、過去の総覧ではない。
これから未来に向かって、僕たちが問われているのである。

YouTubeの予告編、ジンと来ますよ。
   ↓     ↓
https://youtu.be/bfdim8kfd-8